for today 科学に目を向けよう

この時季になると開くもの

昭和万葉集

復員兵の悲しみ  嫁ぎし君を恨むこともなし戦いはかくて終わりしいまを

郷里にもどってみたものの我妻は弟の妻となり、家を保っていた。あるいは遺留品やら事実手違いだったか。

こういう哀れもあちこちであったようだ。ただただ吐露された句を読むなり、
ページを閉じた。

そしてこの本を開くたびに、義父が買った本なのだろうか、と思いやる。同居したことがあり、本人のお姉さんを法事で見かけたことがあるけれど、顔つきはよく似て、がっしりした輪郭に頬骨もあがり、目はくぼみがちだがけして小さい瞳ではなかった。
が、その義父と何かをぽつぽつと交わすのは、こうして残した本によってでもある。昭和万葉集 第7巻は昭和54年4月18日、とあった。この本を初め、どの本も手垢がなくきれいだ。新刊がでると買っていたようなかすかな記憶がある、家具職人をしていた勤め人でもある。議事堂の椅子の張替えもしたそうだ。

父にしても子供とはあまり辛い本当にひどかった話は声にもだせずに,
前に進まなければならない昭和半ば以降を過ごして語れなかったのかもしれない。これほどの本を買ったのは、癒しでもあったに違いない、とは私見でもある。が、本当のところ、この本を買った人は私の推測でしかない。

開墾と赤字で頭出しがあり、

痩せ痩せて金気水沸く我田にはタニシはおらずヒルぞ泳げる

鍬を打つすべまなび得て切り開く黒土の深さ3尺あまり  
                  菊池剣 明治26~昭和52

下に説明がある
食料の増産が急務で未開地の開墾が奨励された。都市の戦災者や外地からの引揚者を入植させ開墾に充てる方策だった。当座の食料や住居も不十分なまま苦しい生活を送ることとなった。飛行場の跡地、演習場などは大蔵省に移管され、開墾が行われた。ただ、生活のスタートが急務で耕作が行われ戦時中に買収されたため、新幹線工事のさい、土地使用権が問題となったところもあった。
とある。まさに、郷里の歴史と一致している。牛で開墾できたのは良い方だ。かの地は牛扱いにとても優れていたそうだ。同類の内容だろうタカかもしれない鳥が高校生の私をつついたのは。


飛行機のやきすてられしかたはらの土くれ拓きて植る甘藷を
         立川 敏子 大正11~
雨によってアルカリ性物質が流失したり、酸性成分が集積した結果耕作には適さない。

開墾後メロンの栽培が評価を受けたところもあったりし、珍しく開拓の歴史にページをめくっていたが、何が効率のよい収穫物になるか、試行錯誤だったのかもしれない。かつて外地の商用レターに●●農場と記された主は、引き揚げ1946年昭和21年3月28日博多より降り、12月に届けを出している。
そしてブドウ園で脚光を浴びたときにはまだ私は母のお腹の中にいた。1949年~1951年の写真が思い出される。仮住まいから始まり3,4年で実ろうとしていた。


一日の務めを帰り新墾の山畑かへすくらしに慣れつつ
               梅田 美保 明40~
拓きゆく山の畑の草陰に蘭のひともとほのかに匂ふ
               野場鑛太郎   大9~昭52

農作業

 麦踏めば麦ぞ可愛ゆし踏むにては非ず頭を撫づる心地ぞ
                小幡重雄 明36~昭47

と、ほっとするが、今や麦の国内生産はどれほどだろうか、この句を想像し同感するのは、はて何パーセント? 

パソコンを閉じるなり、同じページでみかけた。

ミレーの絵のごときやすけき様ならず夫(つま)亡き人が一人麦を刈る
               上村孫作 明28~
まさにリアリズム、よく心情を表し天晴です!





ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事