えっ!「 呵梨勒丸の服用」と解説の出だしがあり、少しばかり読む。
吉備真備(693~775)が716年24歳で入唐し、力試しに碁を唐人と対戦させられたけれど、真備はなんと唐名人の黒い碁石のひとつを隙を見て飲み込んで勝利に結びつけたようだった。
占い師にずばりと占われ、その対応策として唐人が真備に強制的に差し出したのが、下剤(収斂)効果のある呵梨勒丸だったそうです。
これを真備は堪え、難を逃れたそうで、絵巻には対戦の様子が表情豊かに描かれています。
拡大版には、当時の沓らしいのが二つ描かれ、真備は礼服も脱ぎ、着流し姿で何やら呵梨勒を飲む羽目になった光景、長い頚の水瓶と容器が描かれています。
足りなかったひとつの黒い碁石を見つけて納得とは、至らなかった。 そんな様子も描かれ、まさにヒーローの漫画版、ユーモアたっぷりで、古の人たちはおおらかだと感じます。
「シ」の項目、ミロバランの中に浮上したローファーさんが記したkarirokuでした。この丸薬は藤原明衡(990~1061)「新猿楽記」に舶来品のひとつとして記されているそうです。
正倉院にも献上され、「種樹薬帳」に一千と記されている。
鑑真から至寂に至るまでの事跡を著した淡海三船(722~785)著「唐大和上東征伝」によると、この呵梨勒の実は、日本に渡航する積み荷(食糧・仏具・仏像・経典・香薬等)の品目に名前がある。が、渡航に成功した時の、奈良の都にはその実の名前は挙がらなかったそうだ。 広州大雲寺で見かけた、樹木の様子は「棗の如し」と記されている。
絵巻と史実を突き合わせ、小松さんの解説を楽しみました。
淡海三船と吉備真備との年齢差は30歳で、当時の高官の生涯は大凡60年。
小松さんの解説はすばらしい。この絵巻は対象13年にボストンに渡り、昭和39年に戻った日本の遺産。