for today 科学に目を向けよう

短文


我是三四六岁 
(旅の相棒募っています 乙女)

医師でもないのに、これ捨てられない話題

2016年02月12日 08時34分19秒 | ニュースを読んで

コレステロールをいろいろ調べると、理想値に迫る食事の影響力は2割ぐらいで、大方が遺伝体質要因のようだ。

けれど、リバロで100以下にLDLが一挙に下がり、経験したことのない数値になった。薬は本当によく効いてくれる。

が、ひと月の服用後、服用しないで、元の160ぐらいになった。

その後、筋組織に影響が出たのか、カーテンをもって立ち上がるほどCPKがとんでもない数値に上昇していた。これをミオパシーという。確か、

甲状腺の機能不具合に生じる現象だと記載されていた。

「3か月もするともう残っていませんよ」とは、警戒して尋ねた時に返ってきた医師の声。

 


あっ  たぬきだ!

2016年02月09日 20時32分21秒 | 日記

子育て中でも、雑木林の間から狸が顔をだしたそうな話を聞いたことがある。雑食だからだそうだ。

町は、10年の内には、道路も拡張し、歩きやすくすっきりと景観が整った。

最近、座を発つ人を見つけては、たぬきじゃないかと後で思うこともある。

共通会話が発生しているのに、あらっ そそそ と後ろ姿に冷気が漂う。これこそ、どこか怪しい妖術使い?

と後になって、やはりキツネだろうかと、あまり動物園も行かなくなり、見分けがつかない。

朝方の夢だっただろうか。とても可愛かった。

2012年の申し立てのダウンロードをたまたま整理中に見つけた。


健康の話題は、

2016年02月07日 22時09分25秒 | 日記

誰かの何かの情報の助けになるのを望んで書いていくつもりである。

12月にも、そして1月にも気づいたちょうど薬ほどの大きさの赤い色の混じった・赤い血に包まれた痰はどこから?← 80%の回答で、鼻の摩擦(ティシュを円錐状にして

回すにしても、今までもそうしてきた。けれど、毎日するわけでもない。そして、今日久しぶりの鍼灸の時に、血が出たようで、内服薬を訊ねられた。と、私の回想、ああ、この血がついた小さな塊は、12月頃で、ゼチーアを処方され、内服してからの時期に相当する。と、なれば、ずっと飲み始めている、小腸で吸収されてコレステロールを下げるこのゼチーアが体に回った時に血が出やすい状況を作っているのではないだろうか・・・・初めて処方される薬は、必ず反応が起きる。

検査をしている途中。それほど多いわけではないけれど、再度、と今までになく肺の検査をしたこともないので、たずねてみた。

(80代ぐらいの年長者でも、喫煙家族の影響なのだろうか、肺を患っている人がいるのを思い出したから)

昨日思い出したのが、サプリメントのアスタキチンサン。これは特段変わっていないそうだ。ひょっとしたらゼラチンが融けないで

痰になっているのではないか・・・と。 まあ、胃酸は強そうだから。顔上部からのお残りもあるだろう。←鼻の炎症無し。今、さっきも、小さな血液の塊が喉からあがってきた。どこ?甲状腺?(左右の大きさはかなり差異がある。)

朝方、寝返りを打ち、場所になんとなくうなづけた。(肺に小さな炎症があり、この影響とは考えられないそうだ)

運動の拍子(?)に血に囲まれた痰が上がってくる。まるで剥がれたような爪ぐらいの大きさで。今日は、久しぶりにバランス靴を履いてお散歩。

水中で脚を充分に開脚・上・横とあげていた効果か、寒気がやや遠のいたためか、捻挫後遺症から解放されたかのような心地でいたから、試してみた。

上海・慶州と、この靴を履いていた。底が厚いから疲れない。

 


吉備大臣入唐絵巻   解説 小松茂美

2016年02月01日 16時48分24秒 | シノイラニカ

えっ!「 呵梨勒丸の服用」と解説の出だしがあり、少しばかり読む。

吉備真備(693~775)が716年24歳で入唐し、力試しに碁を唐人と対戦させられたけれど、真備はなんと唐名人の黒い碁石のひとつを隙を見て飲み込んで勝利に結びつけたようだった。

占い師にずばりと占われ、その対応策として唐人が真備に強制的に差し出したのが、下剤(収斂)効果のある呵梨勒丸だったそうです。

これを真備は堪え、難を逃れたそうで、絵巻には対戦の様子が表情豊かに描かれています。

拡大版には、当時の沓らしいのが二つ描かれ、真備は礼服も脱ぎ、着流し姿で何やら呵梨勒を飲む羽目になった光景、長い頚の水瓶と容器が描かれています。

足りなかったひとつの黒い碁石を見つけて納得とは、至らなかった。 そんな様子も描かれ、まさにヒーローの漫画版、ユーモアたっぷりで、古の人たちはおおらかだと感じます。

「シ」の項目、ミロバランの中に浮上したローファーさんが記したkarirokuでした。この丸薬は藤原明衡(990~1061)「新猿楽記」に舶来品のひとつとして記されているそうです。

正倉院にも献上され、「種樹薬帳」に一千と記されている。

鑑真から至寂に至るまでの事跡を著した淡海三船(722~785)著「唐大和上東征伝」によると、この呵梨勒の実は、日本に渡航する積み荷(食糧・仏具・仏像・経典・香薬等)の品目に名前がある。が、渡航に成功した時の、奈良の都にはその実の名前は挙がらなかったそうだ。 広州大雲寺で見かけた、樹木の様子は「棗の如し」と記されている。

絵巻と史実を突き合わせ、小松さんの解説を楽しみました。

淡海三船と吉備真備との年齢差は30歳で、当時の高官の生涯は大凡60年。

小松さんの解説はすばらしい。この絵巻は対象13年にボストンに渡り、昭和39年に戻った日本の遺産。