for today 科学に目を向けよう

短文


我是三四六岁 
(旅の相棒募っています 乙女)

マイキッチンは試験場

2021年04月30日 08時08分19秒 | 日記
と、パン作りの度にいろいろ実験をしている。

そば粉やオカラ・オートミールを少しミックスしたり、

ドライフルーツやスパイスを時々入れて変化を楽しんだり、

色も触感も違ってくる。

昨晩は何も入れない食パンを久しぶりに作った。

自家製は変化に富み、やっぱりわずかの塩と砂糖だけでもとても美味しい。

と言っても、だれもお米を焚くように同じに出来上がる品。

出かけていたらお気に入りを買ってしまうだろうけれど、これもコロナ恩恵のうち。




まあ、のんびり行きましょう。マスクを宙に向かって外す時もくるだろうから。

2021年04月25日 09時32分46秒 | 日記
非常に感染力の強い変異種が感染者数を急激に増し、ついに緊急宣言に入った。何故こんなことになるのだろうか。7月にワクチン接種完了予定とされたが、初心に帰り、このウイルスを知った時のように緊張するべきなのだろう。

が、緊張した報道記事は敬遠したくなる。

3年という数字が頭にあり、1年が経た。けれど、今後もスーパー変異とか、名売れたりしてねえ・・・ウイルスも私たちが活動しているように生き続ける?!

脱炭素化など気候変動に対応する政策方向は期待するところでもある。やっとこさ。


マスク着用で普段のように暮らしているようにも見えるが。
いろいろなことが隠せられて、かくれんぼうをして開けた時にどんな世界になっているや




水浴び

2021年04月25日 07時56分06秒 | 日記
カワセミが川面に伸びている弦のような枝にとまっていた。
川の中にすっと飛び込み、すぐに元の枝の所に留まった。
2,3秒すると、同じように再びさっと飛び込み、元に戻った。

「カラスの行水」というのを思い出しながら、しばらく観察していると、
3,4回ほど同じ動きを繰り返し、しばらくしてさあっと長い弧を描き、その色さえ風景の中に見えなくなった。
あれがカワセミの行水とでも言うのだろうか。カラスの行水をyoutubeで見ると、カワセミはそれ以上に短い。体が小さいからほんの一瞬でも十分潤うだけの水浴びなのだろうか。

散策は目にも多いに優しい。

この季節は樹々が嵩を増し、山が迫っているようだ。



父のユーモア

2021年04月21日 20時25分11秒 | 日記

二つ覚えている。
「人にできない難しいのがある。
蜘蛛の巣をつくるのと、坊主が髪を結うこと。」

だなんて、確かにそうだとは思ったが、後の方は確かにユーモアだ。
自分を菊池寛だ、なんて、それ風貌を言ったの?武田信玄の末裔だとか言われて、家紋を調べたけれど、何にも関係なかった。受け狙いだっただろうけれど、聞かされても歴史にうとかったのです、はい,小学生。

まだテレビを買う前だったが、裕福な家ではテレビがあって、当時力道山のプロレスに大人もこぞってよその家に見にでかけただろう。
きっと私は言ったかもしれない。
「うちにはどうしてテレビがないの?」
「アメリカに注文したから、今頃は船で海を渡っている」とか言われて、信じるしかなかったねえ。

が、テレビは電気屋さんが届けた。炊飯釜と洗濯機も顔なじみの電気さんが運んできた。
電気が働いてお米を炊くんだって~ 私は炊飯釜にお米と水を入れたところ、
「お米は人間がとがなくちゃならないんだよ」と電気屋さんは笑いながら言った。電気が全部してくれると思ったのだけれどね、小学生。

(凍瘡にもかかったそうだ。見事にぼろぼろのすっからかん。タンスに蛇の抜け殻を忍ばせていたのが、今になってよおく理解できる。)

歳を経て男の更年期では「鶏みたいにすぐに物を忘れる」と言って、いつも母を怒鳴っていた。怒鳴られれば、覚えられないのに決まっているじゃない!
でも、鶏の仕草をうまくつかんでいるねえ。

小学生の頃だっただろう。古い家に住んでいた頃に母に言われて一升瓶を抱えて逃げ回り、部屋の暗がりに潜んだこともあった。父とお酒の捕り物ごっこだ。

脳梗塞をおこし、言葉がうまく操れなくなり、可愛そうだった。母には甘えていたのだろう。だから感情をもろに吐いていた。(知人も父が涙を流していたのを私は聞いている。)クルミを幾つか手の中で動かして、殻の角もとれていた。

言葉を操れないのを自覚して、「豚が飛んでいる」と、口から出てしまった途端にそれでも、照れ隠しをして脚を揺すっている風な仕草もあった。

私が学生の頃は、冬場には、肌むき出しで皮膚も傷ついていた。寒いからと心配されたり、部活からまだ帰ってこないか、と冬の夕暮れ時、面の路まで出て待っていた。と、私は部活をやめたこともあった。

歳を経てまあるくなった。父と母は逆転し、母が父をちゃらかすのもときどきあった。それも嬉しがっていた。

パバチャン、どんなもんだね?聞こえた~ 嬉しい? 
今度はどんなお土産かね~ひさしぶりに楽しみにしているわよ~!
(集まりに行くたびに茶菓を食べずに紙に包んでポケットに入れて家に持ち帰り、母が包み紙の中でくずくずになったのを見つけたそうだ。)

内輪の故人の話やどうでもない話が罪がなく、和むように感じているのだが・・・



エンヤこら  私のおとうさん ♬ 

2021年04月20日 08時15分44秒 | 日記

気が付いたときは、白髪のおとうさんだった。
何のきっかけだったか、小学生の中学年の頃に成績が全部5になったら自転車を買ってあげる。と、言われて、私はたぶん頑張ったのだろう。父の提示どおりでもなくても、認められたのか父は自転車を探してくれた。中古だったけれど青い子供用の自転車で、とても嬉しかった。が、その後の勉強がとても苦しかった。同じに維持しなくてはいけないと子供心に感じたのだろう。勉強はつらいね。

チョコレート饅頭が好きだった。姉がすでに働いているときは、買ってきたのだろうか、同じようなケーキを食べる時にクリームが口の周りについて、それでも椅子に座って脚を(ごく自然に)揺らして和服の裾からも嬉しさが伝わっていた。

庭に棗の木があって、「これ、うまいよ」とか言ったけれど、子供の私にはそうも感じなかった。中年になってそれがわかり、父は異国を知っていたのだと今になって知る。

若いころは痩せていたから医者がお酒を薦めたそうで、それが後年になって悪い影響になった。フグもさばいてくれた、と母が話したこともあった。

私たちは、周りの人も父をパバチャンと呼んでいた。髪は綺麗な白髪でウェーブがあり、整えやすい髪質だっただろう。

ケンタッキーの人形を見た時に、あっおとうさんだ!と私は思った。