勝負していた

2018-06-13 09:03:55 | 音楽
過去の練習を録音したものを聞いている。

練習の渦中にいる時は、なんてダメなの、なんでこんなに
下手なのって、できないところばかり追求していた。
練習は『できないところをできるようにする』作業だったので、
自分のいいところに目を向けられなかった。

今聞くと「よく弾いている」と思えるところもある。
音程だって、あんなに狂ったように否定するほど悪くない、
…ように今の自分には聞こえる。

だけど、技術的な限界は確かにある。
本当に明確に感じる。
例えばモーツァルトの3番のコンチェルトは、割とよく
弾けていて、昔発表会で弾いた5番もまずまず。

でも、ブルッフの3楽章は全体に結構ひどい。
技術的に全く追い付いていないし、音が必死すぎて聞いて
いていたたまれない。
どうやら技術的にはヴィニャエフスキのコンチェルト2番
1楽章あたりが自分にとっての境目のように思う。
なんとなく曲にできるかどうか(あくまで私の基準で)、
ここから先は、どれだけ練習してもきっとムリだろうなと。

先日、娘が今課題にしている2オクターブのスケールを
弾いてみた。
そしたら、私、結構上手だなと思った。
カールフレッシュを躍起になって弾いていた頃は、こういう
ところに戻ってみる余裕が全くなかった。
だから、いつもダメな自分しか感じていなかった。

振り返ってみれば、私だってちゃんと積み重ねてきたものは
あったはずなのだ。一応。
上手になりたいという思いが先走り過ぎていたのは事実で、
音楽を楽しむことより、理想の音を掲げて自分自身と勝負を
していた。

そういうやり方は自分の力量を限界近くまで引き上げたとは
思う。
だけど同時に、超えられない壁に最短距離で向かっていた。

本当は一人で突き詰めるよりも、実力の範囲で音楽を楽しむ
ような可能性を探れば良かったのだろう。
だけど私はどうしても、もっともっと難しいソロ曲を弾ける
ようになりたかった。

家族の事情などがあるとはいえ、今弾かない選択をしている
のは、本当のところ、これ以上上手になれる気がしないから
というのが8割くらいか。
要するに、私は自分との勝負に負けたのだ。

それなのに、娘のレッスンを見ていると、
「私だって弾きたい」
と衝動的に強く思うことがある。
今の先生と一対一でレッスンしてみたい、って。

でも、改めて考えると踏み出せない。
また深みにハマるのではないか、とか。
また下手な自分に向き合うのか、とか。
耐えられない。
わりと傷つきすぎたんだと思う。自分の音に。
そして、自分はまだバイオリンとそういう向き合い方しか
できない。

弾かなければ弾かないであれこれ葛藤している。
多分葛藤するのが趣味なんだな。
これはもうしばらく時間がかかるね。

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