Junのきまぐれ食卓模様

オット・猫3匹・カメ1匹との生活日記。

避難

2011-07-23 12:13:11 | 普段の事

続きます、とか言って、書くの面倒になってきたな。

あの地震の後、色々のことがいっぺんにおこって、思い出すとすごい疲弊する。
でも、思い出せる分はこないだ夫と話して手帳に書いておいた。
福島県民だから、いずれ健康調査があるだろうから。
3月11日~25日だかまでの自分の行動を細かく書いて提出し、被曝の程度をはかるらしい。

地震で断水し、3月12日から公園での給水に行かねばならなくなった。
水がないとまったく生活が成り立たない。
しかしまず水を入れる容器が家にはない。
市で備蓄していた水を入れる袋を数枚もらったが、とても足りない。
ポリタンクを買いにいきたくとも、そもそも店が開いていない。
最初に水をもらいに行ったときには2時間も並んだ。
原発が心配だったので、ラジオを聞きながらん並んでた気がする。
水を1日1回~2回貰いに行くことが日課になった。
コンビニも開いてない、開いていても商品がない、スーパーが開店を始めたのは
地震の翌々日くらいかな。
もちろん長蛇の列だし入店の人数制限はしているし。
ガソリンスタンドは開いてない。
水をもらいに行くにも貴重なガソリンを使って車で行ってた。

3月15日までそんなこんなで自宅で過ごした。
この頃には兄の家族(奥さんと子供1人)、弟の家族(奥さんと子供2人)が
我家に集合していた。
兄一家は仙台で被災し、建物の被害がない我家に避難してきていた。
いわき在住の弟の家族は原発を心配して我家に来るように私が言ったのだ。
今考えれば、我家の方が線量が高いのだが。
これは結果論だから、いまさらどうしようもないけれど。

原発がいよいよどうしようもなくなった。
っていうか、これも後出しだけど、もうとっくに駄目だったのだ。

兄は一足先に奥さんと子供を新潟経由で東京の実家に帰した。
なかなか足が確保できず、15日まで我家に居た。
本当はもっと早く帰してあげたかった。
彼女は地震の数日前に二人目の妊娠が分かったばかりだったのだ。

私たち夫婦と弟一家は、悩んだ結果16日に新潟に向けて出発した。
ガソリンがなかったので、新潟まで無事に到着できるかどうかも分からなかった。
でも、小学生の甥と姪がいるのだ。
とりえず数日だけでも、と思った。
両親はいわきに残ったままだ。
猫三匹もカメも郡山の我家に残した。
断腸の思いだったが、現実的に連れて行けない。
ドライフードと水を家中に置いた。
避難が一週間以上に及ぶようなら迎えに戻ってくると心に誓った。

目に見えない恐怖、ほんとに恐ろしい。
今自分が危険な場所に居るのか、そうでないのか全く分からない。
今でこそ毎日1時間ごとに発表されている空間放射線量測定値だが
この時はまだそんな状態ではない。
限られた僅かな情報しかなかったのだ。

約1週間を新潟の避難所で過ごした。
避難所に居るんだから普通の生活とはいえないけれど、
外に出ればガソリンも入れられるし、スーパーも開いてる。
本屋も開いてるし、お茶だって出来る。
蛇口からは水が出るし、水洗トイレはレバーを押せば流れる。
今までの当り前の生活がこんなに有難いものかと実感した。

原発の状況は、当然だけど目に見えて改善されるわけもなく
その状態で郡山に戻ってきた。
今確認できる空間線量で郡山市の値が高かったのは15日の14時過ぎ。
あの日は午前中会社に行ってて、昼過ぎに帰ってきた。
どのくらい被曝をしているか微妙なところだ。
当然マスクはつけていたけれど。

その後新潟に行ったのは、正解だったと思っている。
こちらに居ればまず毎日水を貰いに外に出るし、買い物にも行かねばならない。
当然その間、家の中に留まるよりもより多くの被曝をするのだから。

新潟は大好きな街になった。
ほんと色々有難くて、何度も避難所で涙が出そうになった。
ありがとうございました。


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