で、その2
検証していこうかとおもいますが、 あくまで僕の教育研究とそれにより得た知識の範囲内の話。尚かつ、文章的に完全な表現が出来るわけではないので、そのへんはご容赦の程をお願いしたく思います。
【基本姿勢編】
1)人の話を聞かず、自分の話ばかり。
これね~ 結構いるんです、 自分の話ばかりが優先で、人の話にきちんとあいずち打てない人。
他にも自分の得意な分野に話を持っていこう、持っていこうと、会話中に絶え間ない努力をする人。
結局、そうした人間の話の展開と論旨を読み取っていく事で見えてくるのは、その人の自信のなさ。
一人の人間が持ち得る話のネタや話題等、 普通の人間である限りは、範囲に限界があるのが普通なわけです。
話は、それにより自分が得る知識、相手にもたらせる知識という、いわゆるほぼ対等の情報交換の連続で、その流れの展開の中で感情の変化をキャッチボールしつつ、枝葉のように流動的に発展していく、それが会話です。
ところが、自分の話に対して、相手の反発やら自信、そして力の無さを思い知らされることに怖さを覚えると、自分の話ばかりをするようになる。
会話はコミュニケーションであり、そこには大なり小なり感情の摩擦というものが存在するわけですが、普通はそうした摩擦から、相手が何を言わんとしているのか? 伝えようとしているのか?を、自然と読み取ろうとする物。。
ところが、これが出来ないと、自分の中に防御壁(すなわち人の話を聞かない)をつくることで、少しでも自分の気持ちがかき乱されるのを嫌う。
当たり前ですが、こうした話し方をする人生を送っていると、それは常に情報遮断状態にしているわけですから、当然のように、人間的偏りが出てくる。
普通は話を通して、誰しもが持ち得る偏りやねじれを自然に修正していくわけですから、それが出来ねば、ますますネジれるし、偏りは大きくなりすぎて、最後にはバランスさえ取れなくなる。
僕の教育研究では、褒めて育てられると 間違いなくこうした人間になることが明確に分かっています。
叱られる事は、親から与えられ激しい感情であると供に、人の心のダイレクトな表現。
そしてそれを、繰り返し受け取って育つ幼児期は、これは親だからこそ澄み切って濁りがないわけでして、それを何度も与えられていくことで人として一番難しい怒りの感情が理解出来るようになる。
人のもつ最も難しい感情の中に存在する、正と負の部分を読み取ることが出来る様になるわけです。
しかし、幼少の頃から叱られたことがなく、褒めることをその代用として育てられると。
怒りその物を全く理解出来ず、それが自分の為にあるのか?それとも自分を破壊するために向けられているのか?というのが全く分から人間に成長してしまう。
怒りその物が理解出来ないとなれな、人間はその前の段階でそれに牽連してつながる物を自然と遮断しようとするのが自然の流れ。
それが会話なら、 摩擦その物を少しでもあると怖くなり、無意識のうちに避けようとすることばかりするようになる。 それが人の話を聞かないという行動になる。
正しく叱られて育ってきた子は、 怒りの種類とあり方を実戦経験しながら育つので、
それが負の怒りとして自分に向けられない限りは、防衛する必要もない為に恐れも逃げもしませんし、素直に受け取る事ができる。
褒めて育てられれば、すべて糞味噌一緒、 ただただ恐怖であって、怒りは単に自分を破壊する暴力としか理解することが出来ない。
この二つの違いは、例えるなら会社に就職し、仕事の事で上司に叱られたときなどに顕著に出ることになるのですが・・・・
例をあげれば、 叱られて育った者は、その叱りを正しい物として理解するように心が自然と働き、前向きに歩む力へと転換できる。
褒めて育てられた者は、それを単なる攻撃としてしかうけとれず、得体の知れない恐怖感に苛まれて大抵は病み、病院から処方を受け取るか下手すれば退職してニートになる。
まとめれば、人の話を聞けるという事その物は、相手の感情のもつ喜怒哀楽の全てを受け取り、それを正しい方向で判断理解して自分の物とする事の連続である。
話を聞けないというのは 、そのそもが拒絶。
自分だけの範囲に留まり、その範囲で安心感を得ることしかできないわけで、相手の事をうけ取れないものが、相手のことを理解する事など能わず。
残念なことに こうした男は結婚しても伴侶たる女性を守ることなど出来るはずなど出来はしないのですね・・・・
同姓である男の視点からみるなら至極臆病者(小さいなプライドを必死で守って傷つきたくないだけの小者)、器の小さすぎる人間その物でしかない。