娘を合宿へ送った帰り、丁度帰路途中にある岡崎城を見物しました。
後ろにトレーラーを牽引しているので駐車料金はやはりバス料金。
ただ、公営であるためにやたら高いというほどでもなかったので停めさせてもらいました。
入ったはいいがトレーラの切り返しに苦労しているのをみた係りの人、特別扱い?で一番良いところに誘導してくれまして、こちらとしてはとても感謝です。
さて、入って早々に家内が向かったのは名物の味噌田楽。
味のほうですが美味いというか? 濃い目の味噌ソース?をかけたコンニャクというほうが正確というか(笑)。
さて、岡崎城ですが、丁度桜の花が7部咲きくらいでとても綺麗。
そんな中でまず向かったのは資料館。
徳川家の歴史にまつわる資料資料などが展示されてましたが、実のところ僕は徳川家康という人物が好きでない事もあって今ひとつ。
ただ、武田家と家康にまつわる不思議な関係はテレビ番組じゃありませんが、家康が信玄の息子の一人であっただろうという僕の思いは膨らむばかりなわけですが、
そうした根拠となる歴史上の逸話は三方原の戦いからはじまって多々あり、ここでその根拠と出来事、理由等を逐一説明していると際限ないのでよしますが、一つだけ例をあげるとするなら、家康がやたらと固執した血筋、すなわち源氏のながれそのものは本来の徳川家とは何ら関係なく、徳川家は単なる多少大きめな豪族程度の存在でしかなかったわけです。
さらに家康そのもの出身という面における明確性においてはじつのところこの資料館でさえもうやむやにしていて、こうした豪族が力を得るための後ろ盾としては苦渋を飲まされている近隣(今川等)ではない、少し離れて当時直接敵対することのなかった名門武田家の血が入った人間を国主にしようとすることが近隣との関係(国策?)という面ではとしては非常に重要なわけです。
しかし当時の世の中は戦国時代、その流れの中で出世の秘密というものはあやふやにされねばならなかったわけですが(ただし本人は知っていたはずです)、当然のことながら今川に人質として組み込まれた以上は武田の血を引く等とはけして言葉にする事かないませんから、彼がこうした諸本の拘束から逃れる頃になれば自分がその血筋であったという事を求めるは極自然なことであり、しかしながら別の側面として大国になればなるほどそうした事を口にする事ははばかれなくなるのは今も昔も変わらない現実なのですね。
そうした一つの流れが、その家康が膨大な財を投げ打って源氏の血筋を購入する形をとり、さらにそれそのものは彼がけして口にする事が許されなかった武田の甲斐源氏と同一の源流そのものであった。
父の遺産?でもある甲州統治を命がけで信長から譲り受け、敵対し滅ぼした(本来は憎むだけの相手)はずの武田勝頼最後の地である天目算で当時としては信じられないほど壮大な再葬儀を行い、おまけに定期的な慰霊行事を行うために同じく膨大な建設費をはたいて寺を建立、伝統と歴史のある(戦すると必ず負ける)三河流兵法指南を国から叩き出し騎馬突撃を中心にした(井伊直正等)甲州流に全て改めた、彼が歩んだ数奇な人生の裏にあったこうした別の部分を考えると、信長亡き後の家康のとった行動にある数々の謎というものが全てつながってくるわけです。
さて、そんな家康の資料館をテクテク見て歩いたわけですが、歴史の事になると、とんと疎い家内はどんどん先に行ってしまいます。
もっともすでに時刻は4時半、あまりゆっくりもしていられないので、すぐに岡崎城へと向かいます。
この城自体は当時のものが残っているはずはなく、再建築されたものですが、
まあこんな風に建っていたのだというイメージ的なものは良く分かります(笑)
城の中も資料の展示があり、つらつら見て歩きますが、僕自身は展示されている刀や甲冑、槍などというものより、基礎を構成している苔むした石垣や、空堀、水堀等を見るほうが好きで、なぜならそうした地味な部分に当時の技術力や防禦に対する考え方などがたくさん詰め込まれているからなのですね。
10万石といわれた岡崎城ですが、ほぼ同程度の石高である上田城(真田家)とはだいぶ異なり、地味ながら完全に大群と戦うに有利なように城下町まで戦略都市として造られている上田城とは大きくことなり、「これで敵勢から防禦できるの?」というのが僕の本音。
実際問題、防御性は低く、どちらかというと関所みたいな意味合いのほうが強かったのではないかと思っています。
さて約2時間ばかりの岡崎城めぐりでしたが、いくつも敷地内に余計なものがありました。
一つは花時計、違和感感じる銅像、電話ボックス、そして仕掛け時計。
見ているのは面白くてよいのですが、なんかこうした発想ってどうなんでしょうかね?
(^^)