江戸を指す最西端の道標です
撮影日;2010.2.14
高見越え伊勢街道と東熊野街道が交わる要衝に立てられてます
江戸時代の文政11年(1828)建立の銘があり、上部に常夜燈がとりつけられています
当初は、現在より約4m程前の三叉路の中心に近い道路上に有りました
昭和17年頃、軍用材運搬の際障害となり、現在あたり迄後退させたそうです
鷲家は当時紀州藩領で、本陣・伝馬所・旅籠がありました
宇陀地方と熊野を結ぶ交易の中継として賑わったそうです
参勤交代路として、江戸と和歌山間の七里役所の所在地でした
(東)右紀州 かうや 左大峯山 たかはら 道
(南)右いせ 江戸 左はせ 大坂 道
(西)右小川谷 河上 左いせ くまの
(北)文政十一戌子年 施主当村岩井庄兵衛と刻まれています
大和に現存する道標のなかでは、一番遠方の江戸を示す注目すべき道標です
★所在地;吉野郡東吉野村鷲家
★交通;近鉄榛原駅より バスで鷲家下車 徒歩1分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;0746-42-0441(東吉野村教育委員会)
すぐ北には、鷲家八幡神社が有ります
境内のツルマンリョウ群生地は昭和49年3月26日に天然記念物の指定を受けています
鷲家川を渡って少し坂を登ったところに有る小さな寺院の墓地に
『松尾芭蕉副碑』が有ります
【参考】
伊勢街道南街道
(伊勢)南街道は吉野川沿いに伊勢出て櫛田川沿いに下る道で、一方、五条(五條市)からは西へ川を下って紀州にも出るので紀州街道、紀州では大和街道ともいう
橋本(和歌山県橋本市)から五条へ入った道は吉野郡吉野町の大字上市・三茶屋、同東吉野村の大字鷲家・杉谷と進み、高見峠を越えて三重県に入り、波瀬(現飯南郡飯高町)を経て末は本街道と合する
南北朝時代、北畠親房が興国4年(1343)吉野の行宮へ向かい、正平2年(1347)楠木正行の使僧寂恵が伊勢へ向かった道である
江戸時代に和歌山藩主が参勤交代の道としてからは、鷲家には宿場の本陣や宿屋が並び、伊勢参や行商の人で賑わったという
また海産物の道でもあった(平凡社 「奈良県の地名」)
伊勢街道南路
江戸中期にかけて和歌山藩は参勤交代路として利用したほか、江戸と和歌山を結ぶ伝馬所と七里役所を街道筋に設けた
小川郷の住民にとっては生活の道であり、熊野地方の海産物が宇陀郡松山町や十市郡桜井村など大和の内陸部に運送する魚荷道・塩道としての機能を果していた
南路は高見山を越えることから高見越え伊勢街道とも言います
伊勢からは和歌山を指向するので和歌山街道ともいい、伊勢側の川俣(かわまた)を経由するので川俣街道とも呼ばれました
伝馬所
伊勢国内では松坂・大石・粥見(かゆみ)・滝野・七日市・波瀬(はぜ)、大和国内では鷲家・越部・土田、紀伊国内では橋本・名手(なで)・岩出に設けられました
この伝馬所には人馬を常備して、藩役人の往来、公用文書や荷物の逓送を行なっている
七里役所
七里役所の制というのは江戸と和歌山の間の交通を円滑にすりために七里ごとに七里役所を設けるとともに「七里の者」を配置した
役所では毎月、江戸では五の日、和歌山では十の日に公用の書状を発送するほか、人馬の継立てなど普通の宿駅と同じような業務を行いました(東吉野村史)
撮影日;2010.2.14
高見越え伊勢街道と東熊野街道が交わる要衝に立てられてます
江戸時代の文政11年(1828)建立の銘があり、上部に常夜燈がとりつけられています
当初は、現在より約4m程前の三叉路の中心に近い道路上に有りました
昭和17年頃、軍用材運搬の際障害となり、現在あたり迄後退させたそうです
鷲家は当時紀州藩領で、本陣・伝馬所・旅籠がありました
宇陀地方と熊野を結ぶ交易の中継として賑わったそうです
参勤交代路として、江戸と和歌山間の七里役所の所在地でした
(東)右紀州 かうや 左大峯山 たかはら 道
(南)右いせ 江戸 左はせ 大坂 道
(西)右小川谷 河上 左いせ くまの
(北)文政十一戌子年 施主当村岩井庄兵衛と刻まれています
大和に現存する道標のなかでは、一番遠方の江戸を示す注目すべき道標です
★所在地;吉野郡東吉野村鷲家
★交通;近鉄榛原駅より バスで鷲家下車 徒歩1分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;0746-42-0441(東吉野村教育委員会)
すぐ北には、鷲家八幡神社が有ります
境内のツルマンリョウ群生地は昭和49年3月26日に天然記念物の指定を受けています
鷲家川を渡って少し坂を登ったところに有る小さな寺院の墓地に
『松尾芭蕉副碑』が有ります
【参考】
伊勢街道南街道
(伊勢)南街道は吉野川沿いに伊勢出て櫛田川沿いに下る道で、一方、五条(五條市)からは西へ川を下って紀州にも出るので紀州街道、紀州では大和街道ともいう
橋本(和歌山県橋本市)から五条へ入った道は吉野郡吉野町の大字上市・三茶屋、同東吉野村の大字鷲家・杉谷と進み、高見峠を越えて三重県に入り、波瀬(現飯南郡飯高町)を経て末は本街道と合する
南北朝時代、北畠親房が興国4年(1343)吉野の行宮へ向かい、正平2年(1347)楠木正行の使僧寂恵が伊勢へ向かった道である
江戸時代に和歌山藩主が参勤交代の道としてからは、鷲家には宿場の本陣や宿屋が並び、伊勢参や行商の人で賑わったという
また海産物の道でもあった(平凡社 「奈良県の地名」)
伊勢街道南路
江戸中期にかけて和歌山藩は参勤交代路として利用したほか、江戸と和歌山を結ぶ伝馬所と七里役所を街道筋に設けた
小川郷の住民にとっては生活の道であり、熊野地方の海産物が宇陀郡松山町や十市郡桜井村など大和の内陸部に運送する魚荷道・塩道としての機能を果していた
南路は高見山を越えることから高見越え伊勢街道とも言います
伊勢からは和歌山を指向するので和歌山街道ともいい、伊勢側の川俣(かわまた)を経由するので川俣街道とも呼ばれました
伝馬所
伊勢国内では松坂・大石・粥見(かゆみ)・滝野・七日市・波瀬(はぜ)、大和国内では鷲家・越部・土田、紀伊国内では橋本・名手(なで)・岩出に設けられました
この伝馬所には人馬を常備して、藩役人の往来、公用文書や荷物の逓送を行なっている
七里役所
七里役所の制というのは江戸と和歌山の間の交通を円滑にすりために七里ごとに七里役所を設けるとともに「七里の者」を配置した
役所では毎月、江戸では五の日、和歌山では十の日に公用の書状を発送するほか、人馬の継立てなど普通の宿駅と同じような業務を行いました(東吉野村史)