ナレーター・アナウンサー養成塾

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スポーツ実況の話・・・その1

2006年11月20日 | Weblog

昭和50年に山梨県甲府市にある山梨放送(YBS)へアナウンサーとして入社した私は、それから丸6年の間、さまざまなスポーツ実況に携わってきました。最も多かったのは、野球とサッカーですが、特に高校野球と少年サッカーの試合中継は多かったのです。地方局ですから、地元密着のスポーツが中心になるのは当然です。日本全国どこでもそうですが、高校野球は母校など自分に関係した学校の応援に熱中する人口が多いので、視聴率も上がりスポンサーも付きやすいのです。その当時山梨県内の参加校は30に満たない数でしたので総試合数が少なく、また傘下にCATV局があり放送枠が十分だったことから、全試合中継という体制です。その頃の山梨県の高校野球レベルは、決して高くありませんでした。当時は、今のような全ての都道府県から代表が出る(夏の甲子園)ようにはなっていませんでした。地方の隣同士の県が戦う予選を勝ち上がって初めて、出場できるのです。私の記憶では(もう定かではないのですが)山梨は、古くは静岡と、次は長野と、そして群馬、といった強豪のいる県の代表と戦う歴史がありました。当然、なかなか勝てません。たまさか勝って甲子園に行っても、いつも一回戦敗退だったのだそうです。それが、その頃今の巨人軍の原監督のお父さんが監督をしていた、全国的にも名を知られている東海大相模から、助監督をしていた大八木さんという方が、東海大甲府(以前は東洋大学の付属校で東洋第三といったのが昭和49年に東海大学の付属校になった)に赴任してきて、その途端に見違えるように強くなったのです。指導者でこんなにも変わるのか、と驚いたものです。そのうち全都道府県の代表が必ず出られるようになった、そうなると試合数が少なくて山梨は「甲子園に最も近い」県ということになり、しかも中でもダントツに強い東海大甲府には、他の有名校で150人もの部員の中でレギュラー争いをするよりは、と考える生徒が越境入学してきたのです。私たちの取材も当然ながら、東海大甲府が中心になってしまう。しかし、山梨という土地柄で地元の産業に関係のある学校の生徒たちに話を聞きながら中継に臨む、というのが私のスタンスでした。ヘソが曲がっているといえば、それはそうなのですが、丁度山梨の名産“桃”が実り始める頃で、桃畑のなかにある「山梨園芸高校」の取材に行った時は、それは桃の良い香りが漂っていて、これはここの高校にしか無い特徴だなぁ・・・と、翌日の中継では・・・『甘く美味しそうな桃の香りの漂う畑の中にある山梨園芸高校・・』と紹介したのを鮮明に覚えています。もっとも、地元の人にとっては、そんなの当たり前だったのでしょうけど・・・。さて、サッカーの実況話はまた今度です。

ナレーター・アナウンサー養成塾 塾長 ナレーター・伊藤英敏 http://www.mars.dti.ne.jp/~expert/