毎週土曜日、いるかくらぶのクラスを終えて、第二京阪を走り京都へ。
師にお会いしに参ります。
1週間の学びに行くのです。そこは清々しい雰囲気が漂う凛とした京町屋です。
私の活動は
親子を守り、次世代を通じて人が幸せに暮らせるように活動させてもらっています。
この活動は、いつも幸せになります。
少しのお足をいただき今日の糧とする活動はいただいた命を生きる日々なのです。
その命のことを教えていただいています。
昨夜は
4月3日に大阪の一心寺まえ路上で行う、リーラーダンスの仲間が演じる「ブッダ」についてのエピソードでした。
ブッダがある母親から我が子を生き返らせて欲しいと懇願され、街の家々に行き「死人が出ていない家から芥子の実を三粒もらってきたら生き返らせてあげよう」と約束をします。しかし、死人が出ていない家など一軒もなく、母は色々なことに目ざめていき、ブッダの弟子になったお話しです。
ブッダの教えは
私たちが日頃迷い、苦痛を感じている心の苦しみは自らが作りだしたことです。
決して特別なことではないと説いています。
例えば
待望の赤ちゃんの誕生、家族はもちろんお母さん自身も赤ちゃんの温もりを感じ幸せな時を過ごします。
しかし、一日、二日と過ぎれば、昼夜泣きます。
母乳が足りないのか、何処か具合が悪いのかと心配もするが、
今までにない状況は、「こんなはずじゃなかった」と愚痴を言いかける。
四、五日すれば、おっぱいも足りてくる、ひと安心した、それもつかの間。
訳も分からず・・・抱っこぜめ。何故????
寝ることもままらない状態は、困惑が隠せないですよね。
そんなこんなで、一、二ヶ月が過ぎ少しずつ赤ちゃんが自分の存在に目ざめ始めるので
一人遊びをしてくれるようになり、お母さんは少し余裕がでてきます。
このようにして、子育ては24時間年中無休が続きます。
永遠です・・・ね。
その都度、ひとつの言葉ややさしい手がお母さんを救いますが
それらは、子の成長が一日、一日変わるように、
子育ても日々変化します。
つかの間の他者からの手助けという癒しも絶対はありません。
しかし、この間にお母さんはかけがえのない「愛」に目ざめていきます。
愛に目ざめたお母さんは永遠の幸せを感じるでしょう。
ブッダが母に伝えられたこと。
一人だけが特別でもなく、
悲しいのも嬉しいのも皆が同じだということ。
心の苦しみは自らがつくりだし、執着したためにおこるもの。
したがって、自らが取り除くしかないということになりますね。
その結果、至福に満ち充ちた心が得られます。(無償の愛)
皆はつながっています、安心をいっぱい持っている人が親子を支えることは大事なことだと思います。
この悲しい被災の中で
この赤ちゃんの「何もものにも疑うことのないまなざし」の
私はささやかな 「癒しのひと」 でありたいと。