3197 小企業だが、日本では、まだ、他の会社がやっていない、特殊な仕事だった。海外での仕事、石油コンビナートの設計やフェライトのような窯業を夢見ていたが、この世界もいいなと思った。そして、いくつかのプラスチックの成型部門を経験し、仕事を選ぶ権利と義務は、私に与えられていたとい空気を感じていた。そして、一番、問題児の押出成形を選んだ。その部門に労働組合長をしていた、30歳くらいの習志野空挺部隊の出身の猛者がいた。その人が係長だったが、私は三交代の班長に志願してなった。化学の仕事ではなく、電気や機械の仕事だったし、西ドイツからの装置を使いこなせず、まともな製品がなかなかできない、お荷物の部門だった。それが、私にあっていた。
半年もしないうちに、すべての製品での立ち上げは私が一番うまくなっていたし、装置の改良の提案をし、実行し始めていた。とにかく、誰も何もできないのだから、私がやるしかなかった。組合長にも、猛者の後を引きついて、なっていた。日本での新原料が続々と現れた。それらの全てを、使って、素材、プルファイル、テューブを作る仕事の依頼が次々と入った。アミド基の組合わせによって、無限にできることは、知っていたが、ナイロンも、幾つかのメーカーからの、いくつかの種類を試す機会もあった。ナイロン樹脂だけでも組み合わせで、10種類以上あった。製品として、使えるかどうか、成形性はどうか、私の腕に掛かっていた。ほかの樹脂もそうだった。PVCやオレフィンは勿論、PC,POM,PMMA,エラストマー、アロイ、日本では、私しかやらせてもらえないだろうと思うトライを次から次へとやっていた。
成型方法も、それらに合わせるように、編み出した。プロファイルやチューブを作るだけでも、何種類かを自分で作った。冷媒だけでも、エアー、水、各種油、化学液それらの単独、あるいは二種以上、それと、温度、これも、組み合わせ、とにかく、いろいろ、試して、合った成型方法を見つけていった。
完全に、面白いし、やりがいがったし、道楽化していた。
今から思うと、よくまあ、動いたと思う、休日の12時間夜勤も私が繋げた、寸暇を惜しんで、車で箱根を越えて、横浜にも通った。明け方まで試作品を作り、三島駅から新幹線に乗り、大阪や神戸の依頼元に届け、その日の夜、また、試作を繰り返した、そんな、無茶をし、倒れてしまったこともあった。
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道楽で、何十年前のものから、つい最近のインドネシアでのもの。
無茶 無限大 道楽