南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆恩師宅訪問

2017-10-16 22:42:19 | 

 3194 次は、中学の同級会へのアプローチの一つ、担任だった先生宅へのご挨拶だった。何年ぶりだろうか、インドネシアへ行っている期間中、一度だけ、私も幹事の一人になって、学年会を催したことがあった。それが、15年ほど前だったと思う。全学年11クラスのほとんどの先生、多分、10人出席されたと思う、各クラス、平均20名合計200人以上の催しだった。その時、私のクラスも20人以上参加し、先生も見えられ、二次会では、会場を変えて、クラス会になった。

その後、学年会は次に主催する組が決まっていたはずが、開かれないままだし、クラス会も私がほとんど日本にいないから、他の人が主になってやることもなかった。

 

私たちに担任だった先生は、11歳とし上、85歳でした。見かけもそうだが、私たちとあまり変わらない年齢に見えるし、言葉も、表現もはっきりしているし、記憶も衰えていない。75まで、北高校で教鞭をとっていたとか、その後は、町の役員や老人会の幹事、市の手伝いとか、やることが、今でも、たくさんあるとか。やはり、動き続けている、そして、病気らしい病気のも掛かっていないことが、普通に元気でいられるのだと、ご本人も分析していた。お話、私にも、参考になった。

 

趣味は多かったと記憶している。中学一年間だけの接触だったが、昼休みに、曲の解説をして、クラシックの音楽を流していたのも先生だった。自宅から持ってきたものだった。カメラも当時では、高級な大きな一眼レフを持っていて、私たちを撮影していたことも覚えている。ちょっと、家庭が経済的に恵まれている先生だなと思っていた。当時、静岡では、ちょっと、有名な、洋裁学校の息子さんだったことを、卒業してから知った。今回、初めて、応接間に通されたが、書物とLPとCDのコレクションで溢れかえっていた。なるほどと思う。

 

三時間近く、とりとめのない話をし、同級会の確認をして、お宅を後にした。

 

先生の話によると、当時のほかの10人の同学年担任だった先生は、すべて、お亡くなりになっていた。

 

静岡の街の東側、東静岡駅の東に行ったが、コンテナターミナルになっていた。大型のショッピングモール?の脇を通ったが、出入りの車と近くの講堂に出る信号で、思いがけない大渋滞になっていて、これも、びっくり。私にとっては、この風景、新鮮に映った。今日も雨だった。

恩師 元気 活動

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