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南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆踏切通過バトル

2010-07-03 23:31:33 | 体験
昨日は、仕事中に日付が変わったことを知らなかった。一旦家に戻ってマンディをし、会社へ直ぐ戻った。06:30でした。頭がふらふらしていて、朝のブリーフィングも上の空、もうそろそろ終わりにしたい。
争うと言えば、踏切で、列車の通過と争うことです。日本人で、こういうことを知っている人は少ないでしょう。知っているからと言ってどうだ、と、言うこともないが。
貨車の上に乗ることを一種の勇気を誇示するように争って乗る。客室に余裕があっても屋根に乗る。バスでも同じこと、屋根や後ろのバンパーの上に乗る、入口のドアにつかまってステップに乗る。通過するトラックの上によじ登る。大人も子供もそういう行為をすることが、自己主張になるのです。見ている人に存在をアピールしているのです。そして、注目されていると思っているのです。流石に女性はやりませんから、男どもは男らしさを主張しているのです。ヒドイ勘違いをしていると私は思うのですが、彼らにとっては物心着いたころから、そういう光景を見ているし、小学校のころから習慣になっているのです。

それと同じように自己主張の場所が踏み切りです。遮断機がとっくに下りて間もなく列車が来るというぎりぎりのところを隙間があればバイクで線路上に侵入して通過するのです。ぎりぎりであればある程、自己満足が大きいのです。踏切と言えば、向こう側もこちら側も道一杯に人や車が広がってしまうのです。遮断機が下りたばかりは左側だけに列を作るのですが、踏切が下りてから、5分以内に列車が通過することは無い。それでないと、遮断機が下りかかっても、通過しようとする車が多いので、下ろす人がそれを見ながら、止めたり下ろしたりを繰り返して下ろすので、時間がかかる、そこで、どうしても、早めに下ろし始めなければならない。だからかどうか、自動の遮断機は無い、全部、人間が操作をする。そのうち、空いている右側にバイクも人も車も入ってくる。列車が通過する頃には、お互いの道全体に隙間が無くなるほど対面状態になる。
遮断機が上がるか上がらないかの瞬間、右側の方から隙間が広くなる方から、進みだす。方向はまっすぐではなくお互いに左側へ向かう、線路の中央で綺麗にお互いに左側半々に交差する。最初から左側でより長い時間待っていた連中はスタートが遅れる上に、右側からの連中が自分たちの前を塞ぐので、なお、遅れる。後から右側で待った人は先に踏切を通過して、もう、大満足なのです。そういう、日常的なちょっとしたことで争う、勝った負けたで、うれしくなったり、悔しかったりするのです。こんなことはどうでもいいことだと思うのだが、インドネシア人にとっては重要なことなのです。
モラルの向上などということで、地域同士が争うとか、ゴミ臭くない街並みを作ろう等とかで、争ってほしいものです。

故障車の目印はそこら辺の草木を取ってきてぶら下げること。インドネシア全土共通です。これならどこにでもある。
いきなり渋滞、レバラン休暇に入る頃に工事が終わって渋滞が無くなるでしょう。後、二か月の我慢です。
列車  踏切  得意げ
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(^_-)-☆車でぶっ飛ばす

2010-06-29 21:14:39 | 体験
 多忙な一日 よせばいいのに、要望にこたえて、約束をしてしまった。仕事の手伝いの約束です。4~5カ月先の話ですが、今から話し合いを始めないと客先の要望にこたえることができないので、早いうちに機会を作らなければならないと思ってはいた。
 押出の営業と射出の営業は違うし、一緒に行っても、どちらかの話をしているときにどちらかは黙っていなければならない。押出の説明に射出の人に口を挟まれると邪魔なので、私も、口を挟まないようにしている。それが、分からない人が射出の営業をしても仕方がないし、無駄な時間が多いので、今後は、射出の人が行くと言うなら、私は遠慮することにする。それに、射出の営業は、今、しても、海の物とも山のものとも分からないのだから、客先も、もっとはっきりしてから来てよという態度をはっきり表す人もいる。

 ブキットインダーやスルヤチプタへ営業に行った折、チカランバラッのはるか手前から、渋滞になっていた、ここは道路工事中で何カ月も前から渋滞は日常的だった。例によって路肩も車が一杯で緊急車両は中央寄りの隙間を通過するのが習慣になっている。今日もどうだが、白バイが露払いをし、道を開けさせる、その後にパトカーが警報を鳴らしながら来る、その後に救急車(死体を運搬)、その後、関係者の車が点滅ランプで10台以上付いてくる、その後ろに関係ない車がやはりハザードランプを点灯して便乗してくる。私は、そういう車の邪魔をするのが常で、明らかに便乗と分かるので、右へ寄って邪魔をする、そしてわざと速度を落として、渋滞の状態に戻してやる。

処で、渋滞の中、のろのろと進んで、チカランバラッの導入道の手前あたりから、渋滞が解消する、これも、決まっている。渋滞を抜ければガラガラ状態になるので、約束の時間に間に合わせるために速度を100Km以上に上げる。5kmほど進むと、先ほど渋滞の車を押しのけ、けたたましく強引に抜いて行った緊急車両が目に入ってきた。追い越していないで、抜かれるばかりなのに相変わらず中央の追い越し車線を占拠している、速度は80Km以下である。瞬く間に走行車線側から、私も抜き去る。
どうも変ですよね。さっき、大騒ぎで抜いて行ったのは何のためだったのでしょうか。渋滞の中で一緒に走っていても同じことだと思う。急いでいないと思うが?緊急車両ではないのでは?約束通りの時間に着かなければならない私の方が緊急車両?
これが、今日初めてではない、以前にも何回もこういうことがあった。緊急車両なら、渋滞から抜けて、フリーになった時には120Kmくらいでぶっ飛ばしてもらいたい。その時もパプーパプーと鳴らせばいい。

静岡は鞠子の宿、とろろ汁で有名、にある私の隠居所の居間で孫たち。困ったときの孫の写真
大いに変  のろのろ  緊急車両
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(^_-)-☆いよいよ近い

2010-06-26 21:06:29 | 体験

斜めからインドネシアを眺めよう 648
 1996年8月6人の北川社員と私が、赴任して、まだ、工場の影も形もない敷地の片隅の小屋の一角を借りて、準備のためのミーティングをした。それから、14年、今月いっぱいで、北川の人は完全に去る。この顛末をインドネシアにいて、つぶさに見てきた私としては、非常に感慨深いものが在る。そして、間もなく、仕事の場ではないが、同じ会社の分工場として、その、改築や衣替えのお手伝いをすることになると思う。来月初めから、動き出すでしょう。長くいれば色々な巡り合わせができるもので、追い出された場所に戻るという運命的な状況に遭遇するのがいよいよ近くなった。去るものに会うのは私の方は一向に構わないが、去るものは私の顔を見たくないと思う。そこは、承知している。
PT.KITAGAWAの後工場から、元社長がいよいよ、今月末で去ることになるでしょう。なにもしなかった四代目の社長さんは、最期の一年、従業員が居なくなった会社でいったい何をしていたのでしょうか。釣りだけ、それも、自分がセッティングするのではなく、他の人が全部お膳立てした同好会に参加するだけ、で、他にすることがない、あ、もう一つ合唱団に参加していたようです。釣りと合唱で一年過ごす優雅さは心地が良かったでしょう。仕事はなにもすることがない。私なら、我慢ができずに、会社を辞めて、自分で何かしていると思う。我慢をしているのではないのでしょうね、なにもしないで、じっとしていることが許されて、きっと、満足していたのでしょう。
 
経理のことも、税金のこともなにもかもコンサルタントに丸投げでいいのですから、いつになるか分からないが、時間が過ぎれば、会社を閉じることができるし、買ってくれる会社は私が本社に紹介してあったし、買う会社は、空く時期を待っていたし、このことでも、元社長さん、何もすることはなかった。自分では出来るわけがないことを、回りが全部お膳立てしてくれてあった。

PT.KITAGAWA創業時代から、勤めていた従業員の再就職について、殆ど全員を私が面倒みた。苛めて、放り出したはずの人間が、解散して職が無くなった元従業員の再就職先の面倒を見たのです。ご本人、それも気に入らなくて、辞させた従業員の行動について怒っているという。何の権利が在って彼らの行動を束縛しようとするのでしょうか。元従業員はその怒りに首をかしげている。当然である。

というわけで、PT.KITAGAWAの後に入る会社の従業員と言うか、リーダーとして入社する元KITAGAWAの人もいます。これは、オリエンタルキョーワの元従業員が、再雇用されることと同じことです。

私の仕事を引き継いでやってもらう人が、多分、9月頃に来てくれることになったようで、なんとなく、ホッとしている。この仕事と、いま、日本でやっている仕事とが同じということは無いし、あらゆる面で、条件が違うので、それに、順応するなり、対応するなりできる、腕と柔軟な考えを持っている人だと、なおいいと思っている。会長推薦とのこと、間違いないと思う。
新しく導入するナイフ式自動カッター付き引取機と、なぜか、高速道路に大きな袋を担いだ男が現れた。良くではないがたまにあることです。こちらの高速道路をまたいだりくぐったりする道がほとんど見当たらない。完全に地域が分断されている。だから、当り前のように歩いて横断をする。高速道に垣根や塀はない、誰もが自由に入ることができる。
発つ鳥  終始  証人


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(^_-)-☆Hujan sepanjan hari

2010-06-17 19:21:15 | 体験

一日中、日本の梅雨のような雨が降り続きた。泥濘が干上がるほどの晴天が続かない。デコボコは増えるし、深さも日増しにます。乾季に補修をするのがこの国の習慣だが、補修をしたくても出来ない状態だ、このままの状態が続けば、レバラン帰省(民独大移動)までに修復ができないと思う。
新たに分かったことが沢山あった。一番は製品表面の艶の出し方。これもまた、コロンブスの卵で、ひらめきを実際に確認して出来ることが分かった。
 もう一つ、内部にリブがある製品の引け具合の程度が、色々な条件で変化することも分かった。それが、外観に大きく影響することも分かった。
 出来てしまえば、何でもない、これを、インドネシア人に教えれば、また一つ、技術者の能力を増やしてやることができる。インドネシアは彼らにしかできない大きな財産になる。
 後一歩の処で、進み具合が遅いが、とにかく、後一歩、頑張らないが、努力もしないが、もう一歩である。金曜日前にサンプルを納めるのが新たな目標になった。
 
MM2100の工業団地の入り口の一つ付近、あさ07:30頃、バイクにおびただしい数が我先にとバスや車を追い抜いてくる。私はその道で、金型の修理屋へ向かうので反対車線にいる。危ないが気にしない。
 オジェックを使っての通学、女学生の制服はセーラー服は無いがよく似ている。イスラムの学校でも、ミニスカートも超ロングスカートもある。問題になっているのでしょうが、とにかく、自由のようだ。

 大変  行ったり来たり  水たまり
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(^_-)-☆Say no to IJIME

2010-06-11 20:50:16 | 体験
  インドネシアのあちこちにSay no to Drugという看板が掲げられている。いじめ、パワーハラスメントについて、思うことを書きます。
私が、インドネシアでアドバイザーをしている間、強烈ないじめの対象にされた理由ははっきりしています。私の存在が、彼らの立場を危うくする、自分の立場を奪われるという、被害妄想です。彼らの共通した性格は臆病で、他人に接する時、不自然なくらいに丁寧。鳥肌が立つくらい丁寧。一旦、他人の目が無くなると、今度は、ひどく怒りやすくなる、すぐに、プッツンして怒鳴り出す。仕事はできないので自分自身でやることは殆どない、怒鳴ってやらせることが得意である。白を黒だと言って押し付ける。言いぱなしで、相手の意見を聞こうともしない。始末が悪い、駄々っ子が間違って経営者に押されてしまった。自分から、経営者になれる人ではない。
そういう人が牛耳る会社に居てしまったのです。私が選ぶことはできない。
置かれた状況は、
1 アドバーザーという地位であって、直接的な上から下への組織の中に入っていない。
2 押出という仕事では、私以外は全くの素人。
3 品質管理や経営能力、営業能力、人の使い方、接し方、言葉を覚える速度、生活順応等は全て私が上。
4 日本の社長からの依頼
アドバイザーとして、私が持っている知識や行動、部下たちへの指導力、外部との接触力、これらを、見習ったり、うまく使ったりして、自分も勉強し、自分の能力を高めると同時に、会社を外部関係や内部的にも安定させる方向にもっていけばいいと思うのだが、その、能力が無いので、私を目の上のたんこぶに思ってしまうのです。苛めても、いじめても、すごすごと引き揚げないので、いじめがどんどんアカラサマになるのです。
第三者の日本人が見ていない閉鎖された特殊な環境なので、誰に気を使うこともない、やりたい放題がエスカレートする。彼らは、いじめてなどいない、と、言い訳を外に向かって言う必要もいないし、私がパワハラにあっていると叫んでも、誰もが、確認する方法がない。事実、北川工業の本社は、パニック障害で居たたまれず、逃げ帰ったことを、私のわがままで逃げ帰ったと思っている。そういうものです。ですから、今回は会社の名前も、はっきり出しました。若社長にとって徹底的に膿を出すにはこの方が良いと思うからです。
 遡って、14年前、初めて、PT.KITAGAWAに赴任して、一ヶ月後、北川工業の当時ナンバー2と言われていた小川常務が会社へきた。そして、私を見つけるなり、「太田さん、余計なことはしないでください、何もしないでください、なにか、問題があった時、私が責任を取らなければなりません、営業もしないでください、北川工業の方針は下請けをしないことです。あなたみたいな立場で外部から北川社長が呼んだ人は大勢います。役に立った人は一人もいません。契約期間が終わるまで、じっとしていて、終わったら、直ぐに帰ってください」とはっきり言われた。例のインドネシア産を隠そうと徹底的にインドネシア人を(製造地偽装を)指導した人です。いきなり、大逆風である。それを、当時の本社の社長や副社長は知らない。
 すぐ後に知ったことだが、多くの途中入社の人が、彼から無視され、また、社員には、其の人と接触するなと言う命令が多くでいた。生え抜きの社長の側近の人もその被害にあって苦しんでいる人もいた。
 その後、私がPT.KITAGAWAから去るまで、彼と仕事の話をしたことは一度もないし、皆さんがよく誘われる食事会に誘われたこともない、射出のインドネシア人も時々、昼食会に誘われたが、押出の私の部下が誘われたことが無い。徹底的にシカトされたし、差別をされた。
彼のお気に入りにならないと何をされるかわからないという北川工業の人は彼に逆らえないでやむ負えず彼に合わせる若い人もいたが、本質的に常務と同じ考えなのでしょう、ヒラノ、イトウからも無視されていた。仕舞いには、押出の仕事からも外され、客先との接触も禁止された、私の居場所は事務所の入り口近くのコピー機の近くに移された。小川元常務の命令である。彼が何回目かに来た時の翌日、出勤していったら、私に何の予告もなく、机の場所が入り口近くへ移されていた。サラリーマンの世界ってこうなんだ、いじめいじめと聞いていたが、こういうことなんだと、妙な納得をした。

私がPT.KITAGAWAを去ってから、間もなく、この常務は、社内の内部告発やネットでセクハラやパワハラの事実を明かされ、やめさせる羽目になった、今は、北川工業とは切れている。発表された退任理由は違うと思うが、実際は、私が書いたことが正確です。それに伴い、元常務派の人も、会社に居辛くなっている。当然である。
 自分たちがやったことは正しかったと思う人はいないと思う。その時は、ただただ、狂っていただけだと思う。冷静になって、自分が、何をしてしまったのか、考えてほしい、そこから、多くの人々に迷惑を掛けた。そして何も貢献しなかったことを知ってほしい。

 私に何をしたか、そして、その結果、何か得るものがあったのか、何もなかったはずです。そして、今、私は反撃をしています。彼らはそれを予想できないのです。世の中のパワハラは、私のようなケースともうひといつ、自分より能力が低いと判断した人をいじめるケースです。これは、学校での苛めに似ています。このケースの方がはるかに多いだろうし、あらゆる年代や場所であると思う。苛められた側は、泣き寝入りをするしかないが。何年か過ぎても私のようには、反撃できない人の方が多い。いずれにしても、いじめた側は、永久に続けられないし、いつか、自分がみじめになる時が来るはずだし、社会的にも制裁を受ける時が来るはずです。

ですから、今自分が誰かをいじめているかどうかを、いつも、考えてほしいと思う。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
私がインドネシアに居た、そして、今もいる理由(根拠)はインドネシア人の若者に私の技術を伝えること、そして、そのためには仕事を見つけなければならない、そこで、自然に発生する責任は、その仕事を依頼してくれた会社に迷惑を掛けないということだけでなく、貢献しなければならない。だから、何があっても、何をされても、すごすごと、逃げ出すわけにはいかないし、何より、そういう、理不尽な扱いをする人を許せないからです。PT.KITAGAWAには、私が尊敬する人の力で入場することが時間の問題ということが明らかになった。もう一社については、私の力で、二年後を目標に入場するよう行動をする。理不尽にいじめをした人には必ず、しっぺ返しがくる。
会社の食堂(キャンティーン)です。バナナの配送
泣き寝入り  逆襲  気の毒
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(^_-)-☆執拗ないじめパワハラ

2010-06-07 21:27:39 | 体験
(明らかな動揺)
いよいよ、物語はクライマックスに差し掛かってきました。
月曜日に退院し、メディカロカに向かった。彼らは遅い、私が先に着き、菊池先生と相談したが、結局、以前と同じく、原因はわからず、「帰国を勧めることはできない」、「じゃあ、どうすればいいの?」と聞いたら、先生は、「ほかの検査、(まだの、MRI+MRA)などの検査をできるところで、してもらってください、」だけだった。そんな検査はとっくにやっていて、この医師には結果も伝えてあった。ご本人忘れているのだ。専門が循環器なので、どうしてもそっち方向に行ってしまう。「モルヒネは何の意味がない」とか、「三半器管に障害が在るのではないか」と、見当違いのことしか言わない。何度も言っている、脈拍が飛んでしまうことや息苦しくなることについて何も説明しない。この医者じゃ、どうしようもないと思っていたので、帰国前の単なる確認だった。

ヒラノとイトウが遅れてきて、入ってきて、話しを聞き始めた。二人とも、「問題ないです」という言葉を期待しながら、「どうですか、日本へ帰すことができますか?」
菊池医師曰く、「危険です。責任は持てません、シンガポールでも、だめです。チャーター機で行くにしても、医師や看護婦の付き添いが無ければ無理です、帰国を強行し、途中で引き返したり、途中の国に着陸したりすれば、何億円もの損害賠償金が発生する可能性があります。」彼らにとっては予想しなかった、ショックな言葉だった。
 下手ノの戸惑いが、顔に現れた。下手ノとうどウの、大落胆したように態度がガラッと変わった。私の体が持つか持たないかより、悲しいかな、その損害賠償金のことが、今度は最重要綱目としてインプットされてしまった様だ。基礎知識や行動手段を何も持たないので、態度が単純に見え見えに現れる。帰国など、とんでもないと、180度考えがひっくり返った。今度は、「キタガワ社長が飛行機に乗るなと言っているから、悪いことを言わないから、帰らないで、病院でじっとしていてくれ」。というのです。「悪いことは言わないから帰れ、」といった、根拠を聞きたい。
朝、退院してきたにもかかわらず、また、入院を押し付けられたが、菊池医師もヒラノもイトウもインドネシアの病院事情などなにも知らない。「どこの病院がいい?」と私に聞くのです、MRI+MRA機器病院を選ぶのは私でした。私は、インドネシアから脱出しやすいように、空港に一番近い、国立心臓センター(ハラオアンキタ)に行くことにした。私にとっては、皆さんが側にいることが邪魔なだけ、いれば、分かってもらえるわけが無いのに、説明をしなければならない。
どこの病院へ行くにしても、彼らが一緒ということになれば、時々、気絶しそうになる病人の私が、彼らの世話をしなければならない。私にとっては病気で苦しんでいるうえに、厄介者が付いてきて、彼らに気を使わなければならない。
その日の夕方も、マリアさんに手伝ってもらって、入院手続きをして入院した。その間大男の彼らは何もしないで、見張るように、くっついてきているだけである。私から厄介者と思われている事に気が付かない。
しかし、私の帰国決行の決意は変わっていなかった。インドネシアにいたらどうにもならないことが分かった。決行するしかない。
(覚悟の脱出劇)
この前後の何日かの投稿を、ぜひ、ジャカルタ新聞やジャカルタ日本大使館、日本領事館、ジャカルタ日本人会の方々にも読んでいただきたいと思う。弱い人、自分で行動できない人なら、自殺でもしかねない状況だと思います。普通の人では同じようにはできません。私だから出来た行動でした。

彼らが見張っているので、どうしようもない。その日のチケットをキャンセルし木曜日13日の予約をした。彼らは、ハラパンキタの入院手続きを待ちながら、うろうろしているだけで、何をしに来たのかわからないが、「ここから、出ない様に」と言い残していなくなった。私の病気については何も考えていないのである。
11、12,13日、経理の大津さんが総務のユッサ君と共に、AIUから医療費を受け取るための書類などのことで、見舞いに来てくれていた。直ぐに、今まで払った全額が払いもどされた。約20万円ほどだった。脱出前に受け取れた。感謝です。

別の話だが、経理の手伝いに来ていた大津さんもパワハラの対象になっていた。一年くらいいて日本へ戻った。私とは三カ月ほどオーバーラップしただけだった。しかし、彼には世話になった。事務所でヒラノやイトウから大声で、どなられているのを何回か目撃した。怒っている理由が、やはり、二人の知識なしだったことは明らか。

決行について、もし、ヒラノに話せば、今度は帰国なんて、とんでもないと妨害される。既に一度邪魔されているのですから、退院手続きをした後、病院に頼んで、出発時間まで、居させてもらった。そして、誰にも告げず13日、22時病院から抜け出し、直接空港に向かい日本へ出発した。そこまで、マリアさんが献身的な世話をしてくれた。空港で、感謝感激で分かれた。再会を誓った。インドネシアからの決死の脱出劇でした。
私がヒラノに言ったことに耳を傾けず、自分で医者に確認することもしないで、「帰れ、帰れ」と言っていた人が、医者からの話を聞いたとたんに、「帰ってはならない、」になってしまった。
私が、彼らを無視して、帰国してしまったことを、今度は、他の日本人に、「太田はとんでもない奴だ」と、話したそうです。帰らなくてもトンデモナイ、帰ってしまってもトンデモナイ。今でも、彼が、可愛がっている通訳のデウィからの話でした。どこまでいっても、底抜けにおバカさんで、手の打ちようが無い重病人ですな。 通訳の意識的な間違った噂を吹き込まれ、操られていた操り人形(ワヤン)であることに気が付いていない。ヒラノは現在でも、其の通訳の紐を切られたくないので、唯一の頼りだから、仕方が無い。

サテライトでも機内でも、何度も脈拍が飛んだ、其のたびに、もうだめかと思った。真夜中のフライトで一睡もできなかった。14日朝成田着、頭ががんがん痛む、ふらふらしながら、日本医大成田空港クリニック(ココでもAIUが効く)に転がり込んだ。CTスキャン、心電図、頚部レントゲン、結果、悪いところなし。一時間半ほど点滴を受けながら横になった。なんとなく歩けるようになったので、また、頭がふらふらしながら、成田エクスプレスで、東京駅へやっと着いた。しかし、頭ががんがんして新幹線ホームまで行けない。警備の警官に連れて行ってもらい駅の旅行者診療所で、一時間ほど横にならせてもらった。家まで、よく、自力でたどり着いたと思う。普通は12:00前に家に着くが、この時は17:00過ぎていた。妻には知らせてあったので、あまり深刻に考えていなかったようだった。生きて、自力でたどり着いて、コンナほっとしたことはなかったが、これから、また、試練が待っていた。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
(パニック障害から脱出成功)
胃癌の切除の麻酔から目が覚めた時以来のまだ、生きていたという感動でした。しかし、自分の苦しみのほかに、邪魔な余計な苦しみが在っただけに、試練は長かったし、精神的に理不尽を強く感じていた。生き返ったという感覚は数段大きかった。
 まず、何とか早く、日本で、体を治し、次にやるべきこと、やらなければならないことができる体に戻さなければならないことを直ぐに意識した。 再起を課して、必ず治すと誓った。しかし、現実は厳しさが続いた。もうだめだと思ったことが何度あった。

 早速、いくつかの、近所の開業医を回ったが、何の改善もなく、やはり、息苦しくなったり、気絶しそうになったり、ヒドイ、症状は続いた。約、一か月の間に、三回、タクシーで総合病院の救急外来へ夜中に駆け込んだ、しかし、いずれも、原因付いて明快に答えを出してもらえなかった。何より厳しかったのは、頻繁に心臓の鼓動が休んでしまうことでした。必ず、また、動きだすから生きているわけですが、其の都度、もうだめだと思わされた。約、一か月経過後、過呼吸になって、死ぬかと思うくらいに、体が冷たくなり、ガタガタ震えが来て、気が遠くなることを感じた。小康状態で、救急外来に駆け込んだが、其のベッドで待っているとき、また、ヒドイ症状になって、大声で、苦しみ、不安を叫んでしまった。他の優先患者の方にいっている看護婦がすっ飛んできて、私の顔の上に紙袋を被せた。「すぐ、良くなるから、そのまま、呼吸を出来るだけしないように」と言い残して、直ぐ、いなくなってしまった。
その通り、二三分で、震えも冷えも、嘘のように無くなってしまった。ほっとしたところへ、医者がやってきた、症状と私がとった行動を説明した。そして、今は、症状が消えてしまっていることも話した。医者曰く、「今日はもう帰っていただいて、明日、総合診療科で受診してください」とアドバイスを受けた。
この病院の精神内科、外科、耳鼻咽喉科、心臓外科には相談に行っていたが、総合診療科というのがあることを知らなかったし。それらの科の医者から勧められもしなかった。
うつ病など、精神的な原因がはっきり数字で出てこない病気の相談に乗る科だった。簡単にいえば精神病の診療に当たるところでした。神経の誤動作は何を検査しても分からない、症状だけから病名を割り出し、治療に当たるのです。前にも書きましたが、ここで、パニック障害と宣言され、薬を飲んで、其の時から心臓が止まることは全くなくなった。それ以来、何年か後の今も、止まることはない。それだけで、私にとっては十分でした。その他の症状はまだ続いていたが、もうそれで、行動できる、出来ないは私の気持ち次第になったと感じた。発病から約三ヵ月間の苦闘でした。
死んだ気になったのだから、しばらくの休みののち何でもできると改めて思った。

私でなければ、とっくに打ちひしがれて、引きこまされてしまうでしょうが、私で、相手が悪かった。やられっぱなしでは気が済みませんし、こういくことをされた経験のある方に勇気を持ってもらうために、迷ったが、今回は、あえて実名を出しました。中傷誹謗や作り話ではなく、事実を書いています。事実と違うなら、こそこそ、少ない話し相手に私の批判話をするのではなく、堂々と、反論の投稿をしてください。もっとも、そういう、ブログやフェースブックなどに書き込む手段を知らない人たちですから、出来ないでしょう。

PT、KGSに最後まで尽くしていた経理のAさんから6月10日にやっとPT,KGSから解放されることになったと報告があった。日本に戻っても、彼に期待することは無いので、インドネシアでもヒラノの釣り三昧を放任してきたが、その生活も間もなく終われでしょう。もう、おそらく、会社を辞めるしかないでしょう。新社長は、彼の存在に戸惑っている。
死人に口無しとばかりのインドネシアから居なくなった私を悪者にし、自分を正当化しようとしても、残念でした。死人がインドネシアに生き返ってしまったのですから、当てが外れたでしょう。私がPT.KGSの跡地に入場するのは間もなくですから、私の顔を見たくなければ、早く、帰国した方がいいと思いますよ。それとも、当時のいきさつを話しますか。説明をしてもらいたいことが沢山あります。
 私がインドネシアには戻らないと決め込んで、私が居なくなったことを、すべて私の無責任からだと、言い廻してしまったことも、自分がパワハラをしたことを、覆い隠す、愚かな手段だったのです。
 Toko bangunanといって日本ではホームセンターのようなもの、色々な、日曜大工用の道具や設備、装置を売っている。それと、移動toko bangunan大工道具、左官道具、電気工事道具を売ってまわっている。
 正当化  悲しい人達  存在が罪
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(^_-)-☆最低最悪のコンビ

2010-06-06 21:24:41 | 体験
(どうしようもない)
ずっとさかのぼって、このパニック障害発病の一年半前ころ、それ以前は、ヒトウとO社長だったのでイトウに対する歯止めが利いていたが、イラノが社長になり、かなり程度が低いお二人さん、イラノとヒトウがそろった状態で会社を任されることになった。鈍感の二人だがプッツンだけは早い。プッツンされて、説明しても、「何のことを言っているのかわからん」とまた。プッツンされる。駄々っ子のようなもの、そのうち、プッツンされても、そのまま、相手にしないようにしたので、なお、程度の低い同志が、意気投合して、勝ち誇る。おまけにインドネシア語を覚えようとしないで、作り話のゴシップを情報として伝える通訳を重用した。言っていることは全て出鱈目の言いがかりだけ、自分で確認できないのです。多数決の世界なので、こちらはどうしようもない。
彼らが私に文句を言ってくることは、自分が直接何をされたということではない。私は、彼らから頼まれれば何でも、直接手伝っていた。彼らに被害を与えたことは一度もない。私はアドバイスもした。そのようにやれば、なにもかも、うまくいくし、本社からも、従業員からも好かれるはずである。しかし、気の毒なくらい、全く、出来ないことだった。
彼らの怒りは、私が、他の誰かの手助けをした、そそのかしたという情報を通訳から聞いたという話だけである。私にしてみれば、心当たりのないことばかりだった。
他の人が、何故、私を悪く言うのか、攻撃するのかと聞いても、答えないという。PT.AFMIのナガサワは、自分が追い出されるかも知れなかった、と、言っていたそうです。
これから書くことは、この事を踏まえての話になる。
 強烈ないじめが続いた。無知の極みは、人がわざと、嫌がらせて、作らなければ出来ない状態の不具合を、イトウの自作自演で作り出し、クレームを発生させ、私の責任にし、私をクレームの話に立ちいらないようにし、その対策についても、対策にならない対策を作り出し、客先や本社に報告をして、自分が解決したという演技をして見せた。いかなる条件でも、製造過程では出来ない不良の状態を、彼自身は、再現できたと、私に、吐き捨てるように言った。押出については全く素人で、ナイロンに色々な種類があることも知らないで、射出の専門家と自称している人間が、日本で私しかできない製品について、口をだし、出来っこない、状態が、出来たと言った。私に、その出来た状態を見せない。
 イトウ自身が、良品を折ったり曲げたり、断面形状を、物理的な力を加えて、変形させてしまって、押出の検査員が三重にチェックしてOKの印を押した箱の中に、それを、混ぜてしまったのです。それが、不良発生の原因でした。対策は、押出製品の出荷前倉庫にイトウが近づけないようにすることです。
 現実にこういう状況だったのです。怖いですね。
今度は、三年半ぐらい、さかのぼって、帰国する前、とどめの、程度の低さを食らった話。2006年6月26日 月曜日の朝、8時過ぎ、ここから、私の試練が始まった。ほとんど、突然、目眩がして、立っていられなくなり、今までに無かったことでしたので、自分自身びっくりで、病院へ直行、リッポチカランのシロアムという、総合病院です。クリスチャン系でインドネシアでは指折りの有名病院です。
しかし、病気はなんだったんでしょうか、結局、医者の見立てでは、血圧も血液検査の結果も、良好すぎるくらいだという。そのほか、心電図も正常。反射神経機能も全く問題なし。歳と疲れからだという。本当かな?と思いますが、そのまま、泊まっていても、進展は無いと判断し、目まい止めの薬というものをもらって、早々、翌日12時に出てきてしまった。何度も気絶しそうになるので、退院したその足で、家の近くのアニッサ病院へ行った。貧血と診断され、増血剤を処方され家に戻った。
その後も、どうしようもないので、アニッサ、ジャカルタのSOS,竹の子診療所、メディカロカ、プルタミナ、国立心臓センター(ハラパンキタ)、竹の子診療所、アニッサ、メディカロカ、国立心臓センターの順に二週間、渡り歩いた。



(底なしおバカさん)
 
長い間、狂気の苛めが続いたが、私が分けの分からない症状になっても、それは,やむことはなかった。
発病して二日後、会社代表のイラノに状況を電話で知らせたとき、電話で最初に、日本人の医者からは「飛行機に乗ることはたとえシンガポールでも保障できない」といわれた、と話したのに、また、AIUの保険が効かない病院でも後で領収書をまとめて請求すれば全額、もどってくることはわかっていたのに、ヒラノから出た言葉は、「太田さん、悪い事いわないから、日本へ速く帰った方がいいよ。」「なんで、そんな保険が効かない病院に行くんですか」見当違いのことを言うので、「有難うございます。迷惑かけてすみません。」と決まり文句で答えておいた。(彼は、領収書とともに申請すれば即日、保険会社から振り込まれることを知らない)
 
知識、行動力が私の100分の1も無い人が、何も知らないのに、私に、「悪い事言わないから」と、上から物をいう、面白い。苦笑してしまった。日本語の使い方も知らない。自分で確認行動ができない人だから、「悪いこといわないから、自分で日本人医者に確認してよ、」と言いたい。結局、最期まで私の邪魔ばかりして、手助けになることは全くしなかった。出来ないのでした。
一週間後、国立心臓センターに入院している私の部屋へ来て、私が立って対応しているのに、件のヒラノ、いきなり、部屋にあった椅子にのけぞる様に座りこんで、「具合はどうですか」私は、現状と、今までどこの病院へ行ってどんな検査をしたかを説明し、日本人がいる病院にも二箇所行って、日本人の医者の診断を受け、どうしたらいいかも聞いた。日本人医師は、危険だから「飛行機は勧められないシンガポールでも責任は持てない」と、言われたことをまた告げた。イラノもヒトウも、ぜんぜん聞いていない。イラノ、全く私の話を無視し、のけぞったまま、「太田さん、早く日本へ帰ったほうがいいよ」と、怒るように、言った。ヒトウは「金持ちは皆、シンガポールへ行くのに」と捨てるように言った。あほか、この人らはと、改めて思った。とにかく、厄介者は早くインドネシアからいなくなって欲しい、それだけだ。葬式でも出すことになったら一大事、自分たちでは何も手段はないし、独自に情報を集める事ができない、能力が無いので、その気持ちだけ。

見舞いどころか、裏付けもなく、ただただ、早く、インドネシアから消えろと、いいに来たのです。私は、孤軍奮闘、何とか、帰国できるような状態したいと、あちこちの医者に相談しているのに、その手伝いをしようという考えも、毛頭ない。出来ないので仕方が無いが、せめて、私の邪魔だけはしないように願いたいだけなのですが。

ここから、今日の話。50日ぶりに、マリアさんが来て、安心が増えた。部屋から鼠の糞が消えて清潔になった。妊娠したのだろうか、そのことについては話題にしない。

日系の中小企業で、日本人が一人しかいない会社が多くある。その中で、何社かは長期で勤務し、本社には交代要員がいそうもない会社である。そういう会社の中で、私が把握している数社は、その日本人が独裁者のように振る舞い、従業員いじめをしている。そういう会社から、今回、何人かを救い出すことができる機会を得たので、その動きを具体的にしている。高給で引き抜くのではなく、今より安い給料で来てもらえるのです。私が仲間意識で人を使うことは、今の従業員から、保証されるからです。仕事は楽しく、リラックスしながら出来るのが何よりです。怒鳴られながら、では、インドネシア人だって手伝う気になれない。
(手柄アピール)
それから、また、ほぼ、一週間後の日曜日、呼吸困難で緊急入院していた家の近くのアニッサ病院に現れた。今度は同社の日本人のヒラノ、イトウ、大津さん、三人そろってやってきた。というのは、土曜日に私のパニック状態(過呼吸)を見て、マリアさんが、危機を感じ、私の携帯電話に登録されている人たちで会社関係と思われる人全員に電話を掛けてしまったのでした。インドネシア人スタッフも10人ほど来た。
イトウ、曰く、「メディカロカ(ジャカルタ)の日本人医師、菊池さんに相談して、OKが出たら、日本へ出発する段取りをとるから、明日、ここを出て、メディカロカへ行ってください」と、のたまった。
この時、私の決意は、明日朝早くここを出て、メディカロカへいって、改めて、菊池医師の意見を聞くつもりでいた。医師に何を言われても、その夜、日本へ帰るつもりだった。前日土曜日に、メディカロカは休みだったが、竹の子に電話で、メディカロカの予約をお願いした。アシスタントを通して、月曜日9時に予約をしてもらった。竹の子の医師が「何か事故があったら大変なので、同じ会社の日本人をどうしても紹介してください」というので、イトウを紹介しておいた。だから、竹の子の医師からイトウに電話し、月曜日の段取りを話したのだった。それを、イトウが、あたかも自分が全て、手配したような口のきき方で、のたまったのだった。あほかこいつ、こんなところで自分の手柄話をヒラノに向けにしようとしている。2人とも、厄介払いが、自分の手柄になると思っている。事実、日本の上司は、元オダワ常務のように、こういうことを評価する人たちなのです。
それを受けて、ヒラノ、してやったりと、曰く「医者が帰っていいと言ったら直ぐ帰ってください」「キタガワ社長も日本へ早く帰るように言っているから、帰った方がいい」とまだ言っていた。「飛行機に乗っていい」というに決まっていると思いこんでいる。キタガワ社長が何故そう言えるのでしょうか、私から何も報告していないきたがわ社長が「早く帰国せよ」というのは、まったく、見当はずれである。キタガワ社長が言っているといえば効き目があると思ったヒラノの口から出まかせとしか思えない。キタガワ社長がそんな無責任なことを言うはずが無い。愚かな人だ。
帰国し、挨拶にいた時、キタガワ社長に確認したが、「私はなにも状況が分からないから、帰れとも帰るなとも、何も指示していない」と言っていた。当り前の話である。

私は、アニッサ病院でモルヒネや精神安定剤を投与され、かなり、不安がなくなっていたので、どんなことを言われても、明日の夜中にインドネシアを脱出するつもりでいた。チケットも既にマリアさんに頼んで、手に入れてあった。
ゴルフ場のハチの巣
 セクハラ  社内いじめ  責任転嫁
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(^_-)-☆空の上の上の空

2010-05-31 20:44:16 | 体験

KUCHING KOTAKINABALU BRUNEIからのバスが来ていた。マレーシア領まで近いところは300Kmくらいです。一番近いマレーシアの町はクチンと言います。多くの欧米人観光客はコタキナバルとクチンをセットで訪れるそうです。私は時間が無くて国境を超えることはしなかった。
 最終日、ポンティアナックの町を縦横に流れているカプアス川から街の様子を観光しようと思っていたが、生憎の大雨、屋根付きの大型ボートを見つけることができずに断念した。フェリーボートの発着場所はそこかしこにあるし、大型の貨物船が横付けされる港も沢山ある。観光船の港は少ない、そこへ行くアクセス道がまた目立たない狭い。地元の人が遊覧船や納涼船を楽しむという習慣は内容で、場所も船も少ないから外部からの観光客もその機会を探すことが難しいようです。在りそうな岸辺に行ってそこら辺の人に聞いても、あるかないか、あってもどこなのか知らない人がほとんどである。
市内観光をすることにしたが、それも、美術館や博物館もなく、車を使って巡るところもないときき、することが無くなってしまった。ショッピンギセンターでも行ってみるかと思ったが、時間が早く、開店していない。
そこで、その辺りにある土産物の店を見て回ることにした。アロエ関係の飲み物やお菓子、薬、が氾濫していた。アロエの形が似ているのでしょう。リダー、ビヤワッといって、トカゲの舌、という意味です。その他はインドドネシアならどこにでもあるクルプック(上げ煎餅)、乾燥魚、乾燥果物などが並んでいる。煎じ薬の元になる植物や木を乾燥したものも売っている。蜂蜜もどこでも売っている。
私が求める土産物というか記念品はTシャツです。その土地の名前が入っていて、その町の有名な建造物の写真がプリントされている物を必ず手に入れることにしている。今回は、赤道を表すモニュメントとポンティアナックが印刷されている物を買った。三万から五万Rpが相場です。サイズや生地の厚さで値段が変わるようです。Tシャツは何枚たまったでしょうか、数えたことが無いので沢山だということだけです。

今回の旅は、気分転換と新しいひらめきを求めようとしていて、旅そのものは殆ど上の空だった。こんな旅は初めてであった。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
それでも、ゴムの木から採取したゴムを板状にして天日干しにし、ある程度水分を抜いてからゴム工場に出荷するということを、道端に広げて、天日干しをしていた人から聞いた。得も言われぬ臭さで二度とかぎたくない臭さだった。
イカンサルジュといってまっ白い肉の淡水魚、価格はこれで1500円くらいする。かなり高い。15Cmくらいの厚さで胴体を輪切りにしてホットプレートのような状態で出てきた。タイを柔らかく似たような感じで皮の内側にこってりと脂が乗っていて、大変おいしかった。綺麗に平らげた。このポンティアナックのカプアス川にしかいないという魚。
20:00に家に戻っている。
熱帯大魚  土産物  Tシャツ
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古い長い友達

2010-05-11 21:40:00 | 体験
日曜日から月曜に掛けて久しぶりに途中目が覚めないで朝6時までぐっすり眠れた。
今なぜかと言うと、思いついたから書く。
風邪ではなく花粉症(小、中、高、大学のころその名前はなかった)だった私は、小学校の時から、二月三月は必ず激しいクシャミと鼻水に襲われていた。ノドや頭が痛いわけではない、熱が高いわけでもない。だから、自分は風邪を引いていないと思っていたが、回りや両親は風邪だとしか思わなかった。お前は、体が弱い、直ぐ風邪を引くと言われていた。親から、学校の先生にもそういう報告をしてあったようだ。
日本にいた間、53歳まで、花粉症は友達だった。毎年、トイレットペーパーを5本以上使いきっていた。
小学校5年の終わりの時、送辞を読んだ。その時も鼻水タラタラ、涙がポロポロ、クシャミをこらえながら、読んだ、多分、卒業して行く皆さんは感激し、印象深かったと思う。年度末テスト、卒業式、入学試験この時期なので、大学を卒業するまで、集中力が無く、満足な状態ではなかった。テストは、いつも、皆さんに迷惑をかけるので、半分くらいの時間で、提出し、先生の許可を得て、外に出て、一人で、校庭をふら付いていた。一日に何科目かが有る時は一々、途中で外にでた。答案用紙を見返すことはなかった。だから、一問目や二問目の簡単な場所で、早とちりの間違いが多かった。最期近くになればなるほど、難しくなるので、間違うことや分からないことはなかった。
30歳、社長になってからも、同じである。その頃になると、花粉症が認知されてきた。効く薬が有るとか、あそこの医者が打ってくれる注射はよく効くとか、こうすれば体質が変わって花粉症が治るとか、色々な人が色々なことを言ってくれる。しかし、私は、子供のころから、色々やっていて、いずれも、効果がなかった事を知っていると思う人はいない。結局、症状を一次和らげる方法は有っても、完全に治す方法は未だに無いのです。 厳重なマスクをし、ゴーグルを掛けても、なるのです。軽かったか、そうでなかったかは、対策を取っていない時と比較できないので、効果のほどは分からないことになる。私は酒をまったく飲めないのと同じで、色々試しても無駄だということが分かっているので、なにも、しない。
 
サクラのころにすっと症状が無くなってしまうのです。後で、思い返して、何日から無くなったかを確認できないほど、なんとなく自然に治ってしまっているのでした。

風邪を引いたくらいで会社や学校を休むなよ。というのが私の精神でした。今も、風邪で会社を休み事は無い。休日でも、やっておきたいことが思い浮かべば、会社へ行く。火傷や切り傷もそうだが、風邪くらいで、同情はしない。もう一人休めば学級閉鎖になるという常態になって、友達から、お前も休めよと言われても、私は休まない。

インドネシアに杉の木は無いと思う。インドネシアへ来て、一番うれしかったことは、この花粉症と決別できたことだった。パニック障害になって、一年半、日本にいた時、やはり、ひどき、花粉症の症状が出た。その時は、20日間ほど、インドネシアに逃げた。
ドラッグでは有りません。私が処方された薬です。何に効果が有るのか書いてある、食前食後などのタイミングや一日何回何錠などとも書いてある。次第に、客先に見せられるような状態になりつつある。

長~い友達  つらかった  分かってもらえず
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超安値のカラクリ

2010-04-22 21:37:31 | 体験
三年ほど前からPT.MAKUTAでリサイクルペレットを作る仕事を始めた。そのころから、感じだしたことだが、リサイクルプラスチックの仕事は、マフィアと呼ばれているいくつかのグループが独占しているようです。そういうことを知らないで、その、縄張りを争うとすると、必ず暴力的なひと騒動があるという。ですから、日系企業はこの業界に参入することはできない。そこで、日系企業の技術力と信頼で、いくつかのマフィアと仲良くするしかない。ローカルのリサイクル業者ができない製品のリサイクルをしてあげると言うことです。そんなことで、付き合うと、安い出物を廻して貰うことができる。ということを、横に置いて、
新規に進出した企業の営業の方が売り込みしようとすると、一番戸惑うのは、価格の安さである。既に、多くの部品はインドネシア国内で調達され組み立てられ、最終製品になっている。その、部品のメーカーが、進出してきて、現存メーカーに割って入ろうとすると、異常な安さの価格を目標として示されることです。
ローカル企業ができるものはローカル企業から購入する。そして、それは安くて、使えればよい。其の、材質や外観にはこだわらないし、最低、押さえる寸法が出ていれば他の寸法は外れていてもいい。材質証明やスペック表は提出させるが、その物を使っているかはチェックしない。リサイクルであろうと、規格外品であろうと、どこから購入しようと構わない。チェックしない。それが暗黙の了解で超安値が出てくるのです。
 日系企業が手配する材料費で、製品が出来上がってくるのです。ということは、半値で原料が手にはいっていると考えられる。
 実際にPVCは私でも原料を日系メーカーからの半値で入手することができる。原料に限らず、装置は新品なら三分の一以下ではいる。ということは、ローカル装置メーカーは部品を三分の一以下で仕入れていることになる。
 
また、私たちが準備した装置は、全部380V仕様で、メイドインインドネシアですが、ほとんどはメイドインマクタであり、メイドインナンブである。その、部品は全て、日本メーカー以外を使っている。勿論、部品の価格は三分の一以下であり、220V仕様ではないので、変圧設備もいらない。
 日本人は私一人でそれも、一般的日本人にかかる費用の五分の一程度に抑えてある。
ですから、私の部門はローカル企業と同じ価格でできるのです。ただし、原料を客先の指定の日系メーカーからのもの以外の同等品と目されるものを使うという条件があります。
 ブログのタイトルから、インドネシアで楽しく暮らす、を、なくし、主題だけに簡素化した。
最近の製品PP製、と、やっと、オリエンタルからナンブに変わったメイン看板と門の看板、こちらは真っ正面からしか読むことができない。この写真では何と書いてあるか分からない。ごめんなさい。
 安値 不思議 競争力
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ピンダーハン

2010-04-19 21:56:15 | 体験
 ピーターパンではありません。引っ越しという意味です。1996年インドネシアへ初めて引っ越してきて、二日後に覚えた言葉です。
予定通り新しい家にいる。住所はチカラン(cikarang)とだけにして置きます。インドネシアで四回目くらいになるでしょうか、ピンダーハンが、最初の時には、友人に、転居案内を出しましたが、方法はハガキでした。今回は、メールで案内をしています。グログやウェブサイトでは公表しません。
 昨日今日に引っ越しすることは公表しました。面白いことに、車が二台、後を追っていたそうです。私の移転先を知らされない人で、どうしても、知りたい人がいたのでした。一台は、引っ越し先を通り過ぎた処で、停車し、30分ほど、止まっていて、立ち去ったそうです。もう、一台は、三回の往復で三回とも、引っ越しの車の後を着いてきたそうです。止まれば止まり、動き出せば動き出したそうです。わざわざ、土日で、二台も使って、私の移転先を知りたがって人がいたことが興味深い。

 今晩から、この家の住人です。KITASの住所はここに変えてあります。イミグレもいい加減だと思います。日本でいる住民登録をするときに、実際にそこに住んでいるかどうか確認しない。イミグレの管轄外ではまずいが、管轄内なら、どこか、好きな住所で申請すればそれで通ってしまう。そして、選挙権が与えられるわけでもないし、町から、何かの知らせや案内が来るわけではないので、その後、何の不都合も生じない。
日本の場合はどうでしょう、幾ら外国人でも、住民票と実際の住所が違っていれば、数々の恩恵を受けることができないし、権利を行使することができないので、一致させなくても構わないでしょうが、自分の利益のために一致させる必要がある。
 
 私が好きな写真で、私は大傑作だと思っています。パンガンダランの宣伝写真に使ったら、多くの皆さん誘うことができる写真だと思います。
 最近の製品です。樹脂名は書きませんが、この樹脂で、この形状は、インドネシアでは私の部下しかいない事を断言できます。バリを取ってないなどと無粋な上げ足を取る人は其の人にはできないはずです。

引っ越し 新居 追跡 技術

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この頃のこと

2010-04-17 21:07:25 | 体験
  頭が痛くなる状態が続いている。日本でもう生産をやめてしまった製品の試作が思うようにいかずに、客先に大迷惑をかけそうな状態まで追い込まれている。解決方法を考えてはいるが、私の決断が遅かったのかもしれない。もっと、早く、他の方法に切り変えていれば、こんなに悩まなくてもよかったかもしれないし、客先の方にも余計な心配をかけなくて済んだかもしれない。とにかく、やるしかない、明日も、明後日も、この製品の新しい成形方法での金型の設計をしなければならない。Capek!!!

引っ越しは明日と明後日の二日間で完了する予定らしい。というのも、ここへきて、私の方が引っ越しどころではなくなってしまった。仕事をしなければならなくなってしまった。全て、マリアさん任せである。会社の部下で休日出勤のない人たちが数人、応援にトラックを持って、来てくれるらしい。それも、マリアさんが仕切ってくれているので、どういう段取りになっているのか私は知らない。18日の夜から、新しい家で寝泊まりすることになるらしい。呑気なもんです、ではなくて、私は私で忙しいから仕方が無いと思っている。皆が私を応援してくれる。嬉しい限りです。
マリアさんに、一緒に住んでもらっているおかげで、昨日も書いたが、パニック障害の症状は出ないし、もし、でても、必要なら、彼女が、いつでも、病院へ連れて行ってくれるという安心感がある。家で一人ではないということがどれだけ私に安心を与えてくれているか、計り知れない。その上に、家のことは全部やってくれているので、まったくの、大助かりで感謝している。ご主人にも感謝している。運転手も秘書役もお手伝いさん役もナースの役もしてくれる。今回の家を購入する手続きは彼女が全部やってくれた。だから、私は、売り手の人とも、弁理士にも会っていない。お金を出しただけである。契約書や登記簿は結果を確認しているだけです。
これに限っては、値段の交渉も最初から彼女にやってもらったのは、私の作戦でもある。日本人の私が顔を見せては、売主が高く吹っ掛けてくることは間違いないからです。
何でもそうです。果物、野菜、魚、衣類などなど、道端で買い物をするときは、私は車から降りない。私が、降りようとすると彼女に叱られる。買い物が終わってから、降りて、その店の人と話をすることができる。私自身も、私が買うときは高く吹きかけられていると思う。
パンガンダランの西海岸とちょっと海岸から反対の山の方へ行くとこういう滝がいくつかある。これは、ジャンビの滝と言います。30m×20mくらいの規模です。
忙しい、準備、作戦、買い物

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知っている、知らない

2010-04-16 21:20:10 | 体験
努力はしない、頑張らない、一所懸命やったことが無いと言ったって、それは、自分の意識に内のことで、実際には、おそらく、1000人いても上から五番目以内に入る位の、動きと、頭を使ってきたと思う。それも、いつも、何人かの部下を置いて、私が社長だった時以外は、何人かの分からず屋の上司に気を使って、分けの分からないことを言っている人に、頭を下げなければならなかった。典型的なパニック障害になりやすい環境と性格のように思う。60過ぎまで顕著な発病をしなかったのがラッキーだったような気がする。
この病気は男女比でいくと、女性の方が多いらしい。それも、二十歳頃から発病する人もいるときいている。私の場合はハーフタイムどころかスリークオーター(三分の四)タイムと行ってもいいくらいに遅い休憩になったが、それでも、もっと年を取ってからよりの良かったのかもしれない。といっても、私の休憩タイムは一年足らずでした。そしてまた、普通の人ならストレスたっぷりの世界へ舞い戻っている次第です。

 ネットでパニック障害を検索して、どんな病気かチェックしてみてください。知っているといないとでは人の見方や自分の状態の見方が違うと思います。あなたの身の回りにも、程度の差あれ、何人かのパニック障害の人がいるはずです。
 症状も、感覚も、順番も、全く、個人個人で異なるようです。私の症状についてはパニック障害の項目で読んでもらえれば全て書いてありますが、その気持ちの上で、多くのパニック障害の皆さんと、大きく違う点があります。それは、私は、電車に乗ることはありませんが、飛行機や新幹線には良く乗ります。その、不特定多数の人が一緒にいるときには何も不安を感じません、症状もあらわれませんでした。もし症状があらわれても、どなたかが何とかしてくれると思っているからです。一人の時が、一番不安で、一人の時にかぎって症状が現れ、その程度も、ひどかったように思う。だから、病院では不特定多数が大勢いるし、ましてや何の専門か知らないが、医者がいるわけですから、症状はあらわれない時の方が多かった。だから、医者に説明するのが難しかった。体のあちこちでちくちくして、其のたびに脈が無くなって失神しそうになると、説明しても、医者は、全然、深刻には聞いてくれない。むしろ、三半規管がどうのこうのとか、脳波を取って見たら、とか、今から、思えば、的はずれの事を言っていただけだった。
 いわんや、普通の人に話しても、分かってもらえない。ですから、パニック障害の人は意外に大勢、身近にいると考えて、知識を持っていただきたいと思います。知らないのに知ったかぶりして、いろいろ、アドバイスをしようとする人が、一番たちが悪い。いちいち、受け答えをするのも面倒だし、受け答えしても、頓珍漢な的外れの思い込みを口に出すだけなので、始末が悪い。この病気の人に対しては、無知で何か言うのは罪です。どうか、私のように、ひどい目に会わないように、会わせないようにしていただきたいと思います。
  早起きは三文の徳、ジャングルの中に分け入って素晴らしい滝に出会う。その途中で、私の恋人ラルレシアに会うことができる。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
援助する会社、始まる会社PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの仮ウェブサイトです。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage%20top%204.html
インドネシアで知っていて、お得な情報です。予期せぬトラブルに巻き込まれないように、こんな知識が必要です。
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パニック障害の予兆

2010-04-14 18:28:11 | 体験
 まだ、雨季が終わっていないようで、うっとうしい日が続いている。着々と良い方向に向かっているが、まだ、完全とは言えないので、毎日、遅くまで、トライをしているし、頻繁に金型屋へ行ったり来たりしている。ワンセットとして、組み立てて見ることができる状態になったが、色合わせがまだである。今日から、順番に色合わせをしてゆく。
 この製品については、今さら、後戻りはできない背水の陣である。これは、この会社もそうだが、客先も完全にインドネシアで何とかしなければなら状態に自分を追いこんでいるので、とことん付き合う。
  自分は頑張っているとか、無理をしているという意識が無いが、多くの他人から見て、頑張りすぎとか、無理しすぎと思われるくらいに、仕事や運動で体力を使ったり神経、頭脳を使ったりする人は、私のようにパニック障害になりやすい。

 ここで、パニック障害の完全発病の前の、予兆ではなかっただろうかということを書く。2006年6月に脈が、抜けて、目まいを繰り返し、立っても坐ってもいられなかった。これが、決定的な症状で、それ以後、パニック障害という病気と宣告されるまでの約、2ヶ月半普通の生活ができなかったし、仕事などをすることなど考えないほど、深刻な色々な症状が出た。
 このことは、ブログのパニック障害を検索してもらえば詳しく書いてあります。
その、顕著化する前に、思い当たる症状が、二点あった。2004年 目まいがして、それを二三回繰り返し、立っていられなくなったので、近くの病院へ行ったら、風邪だと言われた。点滴を打って、それきり、その症状は出なかった。その、二三年ほど前から、ゴルフが終わった後、ふくらはぎやモモが釣るようになった。じっと、痛みが収まるまで待つという、やつである。その頻度が次第に多くなり、一回の症状の長く続くようになっていた。2006年前半には、足、お腹の筋肉が、ゴルフなど運動をしなくても、釣るようになっていた。2005年に一回、目まいで立っていられなくなったことがあった。2006年、完全発病する前の一週間前に目まいがして立っていられなくなったが、これも一分間ほどで、治まった。

  私が気に入っているインドネシアお勧めの風景。ヌサカンバンガン島の西海岸、http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage00087.html
http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage00086.html
泣く子も黙る、島流し島、凶悪犯のほとんどがこの島の監獄に送りこまれる。インドネシア人に、ネサカンバンガンは景色がいいし、ロブスターは、安くてうまいし、観光客がいないのでそれを独占できる、と、話をしても、信じる人はいない。それだけ、監獄島として知らないインドネシア人はいないのです。たびたび、ニュースでこの島のことは伝えられるが、すべて、監獄からみです。もう一枚は、インド洋の大うねりに現れている岩場です。うねりの高低差が少なくみても、3mほどあるので、岩場が消えたり、1m以上の高さになったりする。私たちが使う船はうねりの中で、見えなくなってしまうことが多い。

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遅いが急がない

2010-04-01 21:36:17 | 体験
 リッポチカランの日本食レストランで、また、送別会。この三月から四月にかけて、送別会、歓迎会が多いのは当然である。そして、付き合いが、比較的深くて、送別したくない方の送別会に出席するので、やかり、寂しい。今日の送別会も、旅を一緒にしたこともあるし、定期的に食事会をしていたし、仕事上でも、私の無理を聞いてくれた方だったので、かなり、寂しい。何かの折にまた会えると思うが、それでも、今後会う確率はゼロ近い。まだまだ、若いし、活動的なところは衰えていないようなので、今後の活躍を期待します。
 会社の方は一カ月過ぎた。何が軌道に乗ったかというと、何も乗っていないような気がする。ユニフォームがない、会社規則がない、時間を知らせる手段がない。何より、会社の看板が替えられていない。未だに、オリエンタル キョウーワである。一事が万事、全てが遅い、相手がいるのだから、なにもかも急がなければならないに、急いでいるどころか、普通より遅い。客先への挨拶回りもできない。インドネシア人スタッフもユニフォームがなければ挨拶に行けない。

 客先にはまだ準備ができていないので、挨拶は、もっと遅らせていただきたいとお願いしている。いつになったら、お客さんの要望をきくことができる状態になるのでしょうか。
 
新たな家の契約を終えた。いつでも、新しい家へ引っ越しができる状態になった。引っ越しは今月中旬の土日で済まそうと思っているが、どうなることか。マリアさんに、ほとんど、任せることになる。新しく必要とする、家具や道具は何もないので、新居にはお金がかからない予定である。
下の子は条件反射で、カメラを向けると、指をだす。こちらを見ていないが、横の方からカメラが向けられているのを感じているのです。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
援助する会社、始まる会社PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの仮ウェブサイトです。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage%20top%204.html
インドネシアで知っていて、お得な情報です。予期せぬトラブルに巻き込まれないように、こんな知識が必要です。
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