きょうは詩人の平田俊子さんの誕生日である(たぶん)。
なんでそんなことを知っているかというと、この間のメキシコ朗読会のあとの打ち上げで、同じテーブルにいた平田さんと小池昌代さんとわたし、三人とも蟹座だということがわかって、お互いの日にち情報を交換したのだった。記憶違いもあるかもしれないから(たぶん)としておくけど。
『詩七日』という詩集はずっと気になっていて買おう買おうと思いながら買いそびれていた本で、先日の朗読会でもそのなかから朗読されていたのを聴いて、あらためて「買おう」と決意していたのに、もったいなくもその日ご本人からいただいてしまった。ありがたいことであったので、お誕生日を言祝ぎながら読ませていただいた。
毎月7日を「詩を書く日」と決めて、二年間書き綴った日記風の詩集。七日に書くから「詩七日」というのと、「自分が書いているのは果たして「詩なのか?」という疑問があった」(あとがきより)というところから来ている。とてもいいタイトルだと思う。わたしも「短歌七日」を書こうかな。でも、「なのか?」という疑問は、短歌よりも詩につけられるのがふさわしいように思う。短歌だったらさしづめ「短歌なんか八日」といったところかしら。
詩には、「一月七日」から「二十四月七日」までのタイトルがついている。そのどの七日の詩も好きだと思った。
一月七日の「男になろう/旅に出るのが難しいなら/詩を書くためにだけ男になろう」、二月七日の「ポリープ 柔らかな半濁音を/濁音のわたしは受け入れられない」、六月七日の「この日がくるのを待っていた/この人がいつか ひとを殺して/匿ってほしいといってやってくる日を/そしたら命がけでこの人を守ると」、十月七日の「雨にぬれながら歩く権利は/女にだってあるだろう」、十一月七日の「片耳がなくても空は見える/両耳そろっているよりむしろ/空の広さを実感できる」、十五月七日の「目にするものと耳にするもの/どちらかひとつは正しいといえるだろうか」、十七月七日の「花を散らすのは風の殺意/それとも枝の裏切りだろうか」、十八月七日の「鵜だよ これは鵜であるよ/名前の最初の一音が/最後の一音でもある母音の水鳥」、二十三月七日の「あまりに対象が愛しくて一歩も歩き出せないのです」……こんな素敵なフレーズたちがたくさん詰まっている。
平田さんの詩には、ほんの少しの悪意のようなものがある。「毒」というほどきついものではない。誰でもが心に持っている、他人には見せたくない棘のようなもの。それを平田さんの詩はさりげなく見せてくれる。その棘は、見ているだけでしくしくと痛い。自分に刺さる棘なのだもの。
平田さん、お誕生日おめでとうございます。