神の栄光のためにキリストがあなた方を受け入れて下さったように、
あなた方も互いに受け入れなさい。(ローマ書15-7/新共同訳)
上記の聖句の「神の栄光のために」とは、聖書原典においては、
「キリストがあなた方を受け入れた」にも
「あなた方も互いに受け入れよ」にもかかる句である。
新共同訳では前者にかかるように訳されているが、
私はパウロの意図からすれば、後者にこそかけるべき句であると思う。
すなわち、訳しなおせば、下記のようになる。
キリストがあなた方を受け入れて下さったように、
あなた方も神の栄光のために互いに受け入れよ。(ローマ書15-7/私訳)
神の栄光(δoξα:ドクサ)とは何なのだろうか?
それは自然的人間が決して有していないものであり(ローマ書3-21~31)、
我々の想像だにできないものである。
その想像だにできないものとは、
審判者である神が不敬虔で不義で神御自身に反逆する人間、
すなわち、パウロ的に言えば弱い人間(ασθενων:アステノーン)に対して、
それを受け入れ、恵みの対象としたことである(ローマ書9-6~29)。
そのような神、すなわち、
弱い者(ασθενων)を受け入れて御自身の栄光(δoξα)を顕す神に受け入れられた者であるからこそ、
神の栄光(δoξα)のために弱い者(ασθενων)を受け入れよとパウロは主張するのである(ローマ書15-7)。
さて、この箇所はパウロにとってどれぐらいの重要度があったのだろうか?
パウロのいう福音にとって、どういった位置を占めていたのだろうか?
私が思うに、この箇所は、福音の絶頂であり、福音の帰結であり、
パウロのいう福音の本体そのものなのだと思う。
人は普通、この箇所を、パウロが福音を語った後に付け加えた、
小問題に対する解決策であると考える。
ルター然り、内村鑑三然り、バルト然り。
しかし、かかる解釈こそ、誤解中の誤解であると思う。
その根拠は?
まず第一に、パウロにとって弱い者を受け入れることが、
パウロの生涯を決定的に左右するほど、大事なことだったことだ。
(ペテロ・バルナバが弱い者を受け入れなかったことに対する抗議として、
パウロの独立伝道は始まっている/アンティオケア事件)
第二に、我々がパウロのローマ書を救いのテキストとして読んでいるように、
パウロは救いのテキストとして旧約のヨブ記を念頭に置いていることだ。
このヨブ記の引用もしくは暗示は、5章から15章に及び、
14・15章はその結論部分に属するということ。
また、コリント書Ⅰおよびピリピ書の内容から判断すれば、
11・12章に続くべき箇所は、実に14章であって、
教会及び国家に対する倫理を説いたとされる12・13章は、
人が普通解釈するほど、重要な位置を示していないこと。
すなわち、12-2の後に14-1を読むことによって、
よりパウロの本心が理解できるということだ。
そして最大の根拠は、我々現代人の思考様式が、
自然と12章以下を軽んじる傾向にあること。
我々は心と体を分けて考える。その帰結として、信仰と倫理を分けて考える。
それはギリシャ的思考様式にきわめて根深く影響されていることだ。
(ギリシャ人は、プラトン・アリストテレスに代表されるように、
心と体、魂と肉体を二元的に思考する)
しかしユダヤ人であるパウロにとって、心なき体、体なき心は思考の対象にはなっていない。
これ、イスラエル人、唯一神信仰の誕生したユダヤ人独自の思考様式だと思う。
同じように、我々は信仰と倫理を分けて考え、倫理を一段低い概念として捉えるが、
パウロにとっては、倫理なき信仰、信仰なき倫理は問題外なのである。
すなわち、パウロにとっては、福音は我々の言うところの信仰でもあり、
倫理でもある。
いや、信仰であるからこそ倫理であり、倫理であるからこそ信仰なのである。
そういう観点からすれば、倫理道徳を説いたとされる12章以下も、
パウロにとっては福音の論述なのである。
パウロの福音の帰結・絶頂・本質は、「弱い者を受け入れる」ことである。
これを、「ああ、やっぱりキリスト教とは愛を語る宗教であり、
結局は我々の想像するような愛に行き着くのだろう」と、
浅薄に考えないほうがよいだろう。
コリント書Ⅰ及びピリピ書の内容から判断すれば、
パウロの言うところの「弱い者を受け入れる」とは、
「自分の権利を放棄する」(コリントⅠ9-1~27)ことを意味する。
弱い者-偶像を慕い、神に反逆し、不敬虔と不義に沈倫する人間に対して、
己の主義、己の立場、己のアイデンティティーを放棄して、
彼の救いのために己を捧げることを意味する(コリントⅠ8-7~13)。
自然的人間の愛とは、自分の権利の主張である。
他人を愛せば自分に返ってくる、他人を愛することは気持ちいい、
そういった権利主張の延長に、普通人間の愛はある。
しかしキリスト者の愛とは、自分の権利の放棄である。
キリストに従う者には、権利を放棄する義務がある。
パウロの本心からすれば、私はあえて「義務」という必要があると思う。
神が救い難き人間のために己を捧げたのである。
人も救い難き人間のために己を捧げる「べき」である。
パウロがなぜ自分をイエス・キリストの友と言わずして、
イエス・キリストの奴隷(δoυλos:?)と言ったのか、
パウロがなぜ自分の為す伝道を「強制される必然性(アナグケー)」と言ったのか、
パウロがなぜキリスト者こそ「恐れおののきつつ救いを完うせよ」と言って、
明白に自力・努力を主張したのか、
キリストに従う者は一考する必要がある。
現代人は、心と体、信仰と倫理を分離して考えることによって、
福音をきわめて観想的に、きわめて自分勝手に解釈し、
福音の恵みを限定する危険性があることは確かである。
あなた方も互いに受け入れなさい。(ローマ書15-7/新共同訳)
上記の聖句の「神の栄光のために」とは、聖書原典においては、
「キリストがあなた方を受け入れた」にも
「あなた方も互いに受け入れよ」にもかかる句である。
新共同訳では前者にかかるように訳されているが、
私はパウロの意図からすれば、後者にこそかけるべき句であると思う。
すなわち、訳しなおせば、下記のようになる。
キリストがあなた方を受け入れて下さったように、
あなた方も神の栄光のために互いに受け入れよ。(ローマ書15-7/私訳)
神の栄光(δoξα:ドクサ)とは何なのだろうか?
それは自然的人間が決して有していないものであり(ローマ書3-21~31)、
我々の想像だにできないものである。
その想像だにできないものとは、
審判者である神が不敬虔で不義で神御自身に反逆する人間、
すなわち、パウロ的に言えば弱い人間(ασθενων:アステノーン)に対して、
それを受け入れ、恵みの対象としたことである(ローマ書9-6~29)。
そのような神、すなわち、
弱い者(ασθενων)を受け入れて御自身の栄光(δoξα)を顕す神に受け入れられた者であるからこそ、
神の栄光(δoξα)のために弱い者(ασθενων)を受け入れよとパウロは主張するのである(ローマ書15-7)。
さて、この箇所はパウロにとってどれぐらいの重要度があったのだろうか?
パウロのいう福音にとって、どういった位置を占めていたのだろうか?
私が思うに、この箇所は、福音の絶頂であり、福音の帰結であり、
パウロのいう福音の本体そのものなのだと思う。
人は普通、この箇所を、パウロが福音を語った後に付け加えた、
小問題に対する解決策であると考える。
ルター然り、内村鑑三然り、バルト然り。
しかし、かかる解釈こそ、誤解中の誤解であると思う。
その根拠は?
まず第一に、パウロにとって弱い者を受け入れることが、
パウロの生涯を決定的に左右するほど、大事なことだったことだ。
(ペテロ・バルナバが弱い者を受け入れなかったことに対する抗議として、
パウロの独立伝道は始まっている/アンティオケア事件)
第二に、我々がパウロのローマ書を救いのテキストとして読んでいるように、
パウロは救いのテキストとして旧約のヨブ記を念頭に置いていることだ。
このヨブ記の引用もしくは暗示は、5章から15章に及び、
14・15章はその結論部分に属するということ。
また、コリント書Ⅰおよびピリピ書の内容から判断すれば、
11・12章に続くべき箇所は、実に14章であって、
教会及び国家に対する倫理を説いたとされる12・13章は、
人が普通解釈するほど、重要な位置を示していないこと。
すなわち、12-2の後に14-1を読むことによって、
よりパウロの本心が理解できるということだ。
そして最大の根拠は、我々現代人の思考様式が、
自然と12章以下を軽んじる傾向にあること。
我々は心と体を分けて考える。その帰結として、信仰と倫理を分けて考える。
それはギリシャ的思考様式にきわめて根深く影響されていることだ。
(ギリシャ人は、プラトン・アリストテレスに代表されるように、
心と体、魂と肉体を二元的に思考する)
しかしユダヤ人であるパウロにとって、心なき体、体なき心は思考の対象にはなっていない。
これ、イスラエル人、唯一神信仰の誕生したユダヤ人独自の思考様式だと思う。
同じように、我々は信仰と倫理を分けて考え、倫理を一段低い概念として捉えるが、
パウロにとっては、倫理なき信仰、信仰なき倫理は問題外なのである。
すなわち、パウロにとっては、福音は我々の言うところの信仰でもあり、
倫理でもある。
いや、信仰であるからこそ倫理であり、倫理であるからこそ信仰なのである。
そういう観点からすれば、倫理道徳を説いたとされる12章以下も、
パウロにとっては福音の論述なのである。
パウロの福音の帰結・絶頂・本質は、「弱い者を受け入れる」ことである。
これを、「ああ、やっぱりキリスト教とは愛を語る宗教であり、
結局は我々の想像するような愛に行き着くのだろう」と、
浅薄に考えないほうがよいだろう。
コリント書Ⅰ及びピリピ書の内容から判断すれば、
パウロの言うところの「弱い者を受け入れる」とは、
「自分の権利を放棄する」(コリントⅠ9-1~27)ことを意味する。
弱い者-偶像を慕い、神に反逆し、不敬虔と不義に沈倫する人間に対して、
己の主義、己の立場、己のアイデンティティーを放棄して、
彼の救いのために己を捧げることを意味する(コリントⅠ8-7~13)。
自然的人間の愛とは、自分の権利の主張である。
他人を愛せば自分に返ってくる、他人を愛することは気持ちいい、
そういった権利主張の延長に、普通人間の愛はある。
しかしキリスト者の愛とは、自分の権利の放棄である。
キリストに従う者には、権利を放棄する義務がある。
パウロの本心からすれば、私はあえて「義務」という必要があると思う。
神が救い難き人間のために己を捧げたのである。
人も救い難き人間のために己を捧げる「べき」である。
パウロがなぜ自分をイエス・キリストの友と言わずして、
イエス・キリストの奴隷(δoυλos:?)と言ったのか、
パウロがなぜ自分の為す伝道を「強制される必然性(アナグケー)」と言ったのか、
パウロがなぜキリスト者こそ「恐れおののきつつ救いを完うせよ」と言って、
明白に自力・努力を主張したのか、
キリストに従う者は一考する必要がある。
現代人は、心と体、信仰と倫理を分離して考えることによって、
福音をきわめて観想的に、きわめて自分勝手に解釈し、
福音の恵みを限定する危険性があることは確かである。