キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

信仰の秘儀

2010-10-03 16:53:43 | 聖書原典研究(共観福音書)
わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です(マルコ伝9-40)。

わたしたちの味方でない者は、わたしたちに反対しているのです(マタイ伝12-30)。


同じ資料、同じ口伝を用いていても、それを受け取る側の態度によって、

その内容は、天地ほども違う意味となる。

その良き例が、マルコとマタイの記すイエスの言葉である。

マルコ伝におけるイエスの言葉は、イエスの寛容性を示している。

マタイ伝におけるイエスの言葉は、イエスの排他性を示している。

マルコとマタイの矛盾を知るために、

我々は、どんな脈絡でこの言葉が記載されているかを確認せねばならない。


マルコ伝においては、この言葉は、

弟子の一員ではない人(イエスの名によって奇跡を起こす人)の存在を見て、

それをイエスに非難混じりに伝えている使徒に言われている。

故に、使徒たちの「他人に対する」排他性が、イエスによって攻撃されている。

マタイ伝においては、この言葉は、

弟子たちがイエスのみを見、そして従うことの推奨として語られている。

故に、弟子たちの「キリストに対する」不服従が、イエスによって非難されている。

イエスが実際に発したであろう言葉を、マルコは他人を受け入れることの寛容性として、

マタイはこの世の生き方ではなくイエスのみに従う排他性として、受け取ったのだ。

そしてこれ、矛盾することではなく、本質的には一致する解釈の仕方である。


我々は、イエス・キリストに排他的に従うときにのみ、

他人に対して恐ろしく寛容になることができる。

神が人の形をとり、人の罪を背負って十字架に上ったのだから、

彼に従う人間が、他人のために生きんと欲することは当然のことである。

イエス・キリストに対する排他独占性は、

すぐさま、他人に対する犠牲的寛容性となって具現化するのである。

キリスト教神学においては、前者を恵みとして、後者を律法として、

分けるくせがあるが、まったくの無知蒙昧としか言いようがない。

恵みと律法は、相反するものではない。

パウロが言うように、恵みも律法も、同じ神の御心である。

恵みと律法が対立しているのではなく、

律法を「自分が行なうこと」と、律法を「他人の裁きの基準として用いること」が、

対立しているのだ。

恵みを受ける者は、律法を行なう筈である。

同じように、キリストのみを排他的に信じる者は、他人を受け入れる寛容性を示す筈である。

マルコとマタイ、恵みと律法を対立的に考えてしまうのは、

己自身がそもそも恵みの内にいないのである。



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