わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です(マルコ伝9-40)。
わたしたちの味方でない者は、わたしたちに反対しているのです(マタイ伝12-30)。
同じ資料、同じ口伝を用いていても、それを受け取る側の態度によって、
その内容は、天地ほども違う意味となる。
その良き例が、マルコとマタイの記すイエスの言葉である。
マルコ伝におけるイエスの言葉は、イエスの寛容性を示している。
マタイ伝におけるイエスの言葉は、イエスの排他性を示している。
マルコとマタイの矛盾を知るために、
我々は、どんな脈絡でこの言葉が記載されているかを確認せねばならない。
マルコ伝においては、この言葉は、
弟子の一員ではない人(イエスの名によって奇跡を起こす人)の存在を見て、
それをイエスに非難混じりに伝えている使徒に言われている。
故に、使徒たちの「他人に対する」排他性が、イエスによって攻撃されている。
マタイ伝においては、この言葉は、
弟子たちがイエスのみを見、そして従うことの推奨として語られている。
故に、弟子たちの「キリストに対する」不服従が、イエスによって非難されている。
イエスが実際に発したであろう言葉を、マルコは他人を受け入れることの寛容性として、
マタイはこの世の生き方ではなくイエスのみに従う排他性として、受け取ったのだ。
そしてこれ、矛盾することではなく、本質的には一致する解釈の仕方である。
我々は、イエス・キリストに排他的に従うときにのみ、
他人に対して恐ろしく寛容になることができる。
神が人の形をとり、人の罪を背負って十字架に上ったのだから、
彼に従う人間が、他人のために生きんと欲することは当然のことである。
イエス・キリストに対する排他独占性は、
すぐさま、他人に対する犠牲的寛容性となって具現化するのである。
キリスト教神学においては、前者を恵みとして、後者を律法として、
分けるくせがあるが、まったくの無知蒙昧としか言いようがない。
恵みと律法は、相反するものではない。
パウロが言うように、恵みも律法も、同じ神の御心である。
恵みと律法が対立しているのではなく、
律法を「自分が行なうこと」と、律法を「他人の裁きの基準として用いること」が、
対立しているのだ。
恵みを受ける者は、律法を行なう筈である。
同じように、キリストのみを排他的に信じる者は、他人を受け入れる寛容性を示す筈である。
マルコとマタイ、恵みと律法を対立的に考えてしまうのは、
己自身がそもそも恵みの内にいないのである。
わたしたちの味方でない者は、わたしたちに反対しているのです(マタイ伝12-30)。
同じ資料、同じ口伝を用いていても、それを受け取る側の態度によって、
その内容は、天地ほども違う意味となる。
その良き例が、マルコとマタイの記すイエスの言葉である。
マルコ伝におけるイエスの言葉は、イエスの寛容性を示している。
マタイ伝におけるイエスの言葉は、イエスの排他性を示している。
マルコとマタイの矛盾を知るために、
我々は、どんな脈絡でこの言葉が記載されているかを確認せねばならない。
マルコ伝においては、この言葉は、
弟子の一員ではない人(イエスの名によって奇跡を起こす人)の存在を見て、
それをイエスに非難混じりに伝えている使徒に言われている。
故に、使徒たちの「他人に対する」排他性が、イエスによって攻撃されている。
マタイ伝においては、この言葉は、
弟子たちがイエスのみを見、そして従うことの推奨として語られている。
故に、弟子たちの「キリストに対する」不服従が、イエスによって非難されている。
イエスが実際に発したであろう言葉を、マルコは他人を受け入れることの寛容性として、
マタイはこの世の生き方ではなくイエスのみに従う排他性として、受け取ったのだ。
そしてこれ、矛盾することではなく、本質的には一致する解釈の仕方である。
我々は、イエス・キリストに排他的に従うときにのみ、
他人に対して恐ろしく寛容になることができる。
神が人の形をとり、人の罪を背負って十字架に上ったのだから、
彼に従う人間が、他人のために生きんと欲することは当然のことである。
イエス・キリストに対する排他独占性は、
すぐさま、他人に対する犠牲的寛容性となって具現化するのである。
キリスト教神学においては、前者を恵みとして、後者を律法として、
分けるくせがあるが、まったくの無知蒙昧としか言いようがない。
恵みと律法は、相反するものではない。
パウロが言うように、恵みも律法も、同じ神の御心である。
恵みと律法が対立しているのではなく、
律法を「自分が行なうこと」と、律法を「他人の裁きの基準として用いること」が、
対立しているのだ。
恵みを受ける者は、律法を行なう筈である。
同じように、キリストのみを排他的に信じる者は、他人を受け入れる寛容性を示す筈である。
マルコとマタイ、恵みと律法を対立的に考えてしまうのは、
己自身がそもそも恵みの内にいないのである。
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