原典にてマルコ伝を15章まで読了した。
あと2、3日あれば、読了することになる。
5月の半ばから始めたマルコ伝研究であるから、
実に2ヶ月かかったことになる。
毎日毎日、夜な夜なわけのわからんギリシャ語を見つめて、
たいていは意味が不明瞭のまま終わるのであるから、
我ながら頑張ったものだ。
聖書を研究することは、実に至難の業である。
コイネーギリシャ語の文法を一旦学び、
辞典を引きつつ時制や語形を確認し、
語と語の関係を吟味しつつ訳してみる。
ギリシャ語は幾通りもの訳し方があるし、
一つの単語に複数の意味があるから、
当時の歴史的状況(古代史)を確認し、
パウロならパウロの言葉使いを考慮しつつ訳す。
多くのたとえ話があるから、古代ユダヤの動植物や祭儀の知識もなければならぬし、
聖書の記事は神話ではないから、地理的な配置の確認もせねばならぬ。
自分なりに訳してみたとはいえ、私は神学の素人であるから、
もしかしたら、見逃し誤解している点があるかもしれぬ。
故にその道の専門家である、聖書学者や宗教改革者の解釈を確認する。
そうまでしても、やはり意味不明な文があるのだから、
聖書研究は実に骨の折れる業である。
だが、何ヶ月も何ヶ月もかかる無駄に思える読解を続けて、
一片の真理を発見したときの喜びは、何ものにもかえ難い。
今思えば、私の高校生の時の恩師に、
改めて感謝せざるを得ない。
この人、英語の講師であったが、英語の単語を覚えさせるのに、
常に語源に遡って覚えさせる。
そして語の根底にある意味を把握し、著者の思想的背景をしっかり学ばせ、
大学受験の長文読解をさせる。
「この語の根本の意味は何か?この人のイデオロギーは何か?」と。
出来の悪い私とすれば、大学受験では実を結ぶことはできなかったが、
今聖書を原典から研究するようになって、この人に学んだ姿勢が大いに役に立っている。
わからない単語を調べるにも、英和辞典をひかせずして、
ロングマン(英英辞典)をひかせ、英語で英語を解釈するようになり、
英語圏の思考形式によって文を解釈するまで、辞典を引き続けろという。
随分無理なことを言う講師だと思っていたが、
今になってかかる難行苦行が役に立っているのだから、人生不思議なものだ。
しかしながら、大学受験と聖書研究には、一つだけ異なる点がある。
大学受験はどんなに難しくても解けるように設定しているから、
いつかはその努力は実を結ぶだろう。
しかし聖書研究は、なにせ2000年前の古代人の著述であるから、
誰が正解で、それが本当に正しいのかは、誰にもわからないということだ。
明治・大正時代の著作でさえ、その時代感覚や言葉使いの差に、わからない箇所が多いのだ。
それが、2000年前の、しかも文化的背景の全く違う人間の書いたものであれば、
ある意味で「わからない」ことが当たり前なのかもしれぬ。
聖書研究を続けるコツは、どんなに努力し時間をかけ知識を積んだって、
最後には「やっぱりわからない!」が待っているかもしれぬという、
一種の諦めがなくてはならぬ。
かかるある種の自己の能力に対する不信なくして、
こんな難儀な業は到底続かないのである。
あと2、3日あれば、読了することになる。
5月の半ばから始めたマルコ伝研究であるから、
実に2ヶ月かかったことになる。
毎日毎日、夜な夜なわけのわからんギリシャ語を見つめて、
たいていは意味が不明瞭のまま終わるのであるから、
我ながら頑張ったものだ。
聖書を研究することは、実に至難の業である。
コイネーギリシャ語の文法を一旦学び、
辞典を引きつつ時制や語形を確認し、
語と語の関係を吟味しつつ訳してみる。
ギリシャ語は幾通りもの訳し方があるし、
一つの単語に複数の意味があるから、
当時の歴史的状況(古代史)を確認し、
パウロならパウロの言葉使いを考慮しつつ訳す。
多くのたとえ話があるから、古代ユダヤの動植物や祭儀の知識もなければならぬし、
聖書の記事は神話ではないから、地理的な配置の確認もせねばならぬ。
自分なりに訳してみたとはいえ、私は神学の素人であるから、
もしかしたら、見逃し誤解している点があるかもしれぬ。
故にその道の専門家である、聖書学者や宗教改革者の解釈を確認する。
そうまでしても、やはり意味不明な文があるのだから、
聖書研究は実に骨の折れる業である。
だが、何ヶ月も何ヶ月もかかる無駄に思える読解を続けて、
一片の真理を発見したときの喜びは、何ものにもかえ難い。
今思えば、私の高校生の時の恩師に、
改めて感謝せざるを得ない。
この人、英語の講師であったが、英語の単語を覚えさせるのに、
常に語源に遡って覚えさせる。
そして語の根底にある意味を把握し、著者の思想的背景をしっかり学ばせ、
大学受験の長文読解をさせる。
「この語の根本の意味は何か?この人のイデオロギーは何か?」と。
出来の悪い私とすれば、大学受験では実を結ぶことはできなかったが、
今聖書を原典から研究するようになって、この人に学んだ姿勢が大いに役に立っている。
わからない単語を調べるにも、英和辞典をひかせずして、
ロングマン(英英辞典)をひかせ、英語で英語を解釈するようになり、
英語圏の思考形式によって文を解釈するまで、辞典を引き続けろという。
随分無理なことを言う講師だと思っていたが、
今になってかかる難行苦行が役に立っているのだから、人生不思議なものだ。
しかしながら、大学受験と聖書研究には、一つだけ異なる点がある。
大学受験はどんなに難しくても解けるように設定しているから、
いつかはその努力は実を結ぶだろう。
しかし聖書研究は、なにせ2000年前の古代人の著述であるから、
誰が正解で、それが本当に正しいのかは、誰にもわからないということだ。
明治・大正時代の著作でさえ、その時代感覚や言葉使いの差に、わからない箇所が多いのだ。
それが、2000年前の、しかも文化的背景の全く違う人間の書いたものであれば、
ある意味で「わからない」ことが当たり前なのかもしれぬ。
聖書研究を続けるコツは、どんなに努力し時間をかけ知識を積んだって、
最後には「やっぱりわからない!」が待っているかもしれぬという、
一種の諦めがなくてはならぬ。
かかるある種の自己の能力に対する不信なくして、
こんな難儀な業は到底続かないのである。