キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

ああ、聖書研究

2010-07-11 16:06:28 | 人生の慰め
原典にてマルコ伝を15章まで読了した。

あと2、3日あれば、読了することになる。

5月の半ばから始めたマルコ伝研究であるから、

実に2ヶ月かかったことになる。

毎日毎日、夜な夜なわけのわからんギリシャ語を見つめて、

たいていは意味が不明瞭のまま終わるのであるから、

我ながら頑張ったものだ。


聖書を研究することは、実に至難の業である。

コイネーギリシャ語の文法を一旦学び、

辞典を引きつつ時制や語形を確認し、

語と語の関係を吟味しつつ訳してみる。

ギリシャ語は幾通りもの訳し方があるし、

一つの単語に複数の意味があるから、

当時の歴史的状況(古代史)を確認し、

パウロならパウロの言葉使いを考慮しつつ訳す。

多くのたとえ話があるから、古代ユダヤの動植物や祭儀の知識もなければならぬし、

聖書の記事は神話ではないから、地理的な配置の確認もせねばならぬ。

自分なりに訳してみたとはいえ、私は神学の素人であるから、

もしかしたら、見逃し誤解している点があるかもしれぬ。

故にその道の専門家である、聖書学者や宗教改革者の解釈を確認する。

そうまでしても、やはり意味不明な文があるのだから、

聖書研究は実に骨の折れる業である。

だが、何ヶ月も何ヶ月もかかる無駄に思える読解を続けて、

一片の真理を発見したときの喜びは、何ものにもかえ難い。


今思えば、私の高校生の時の恩師に、

改めて感謝せざるを得ない。

この人、英語の講師であったが、英語の単語を覚えさせるのに、

常に語源に遡って覚えさせる。

そして語の根底にある意味を把握し、著者の思想的背景をしっかり学ばせ、

大学受験の長文読解をさせる。

「この語の根本の意味は何か?この人のイデオロギーは何か?」と。

出来の悪い私とすれば、大学受験では実を結ぶことはできなかったが、

今聖書を原典から研究するようになって、この人に学んだ姿勢が大いに役に立っている。

わからない単語を調べるにも、英和辞典をひかせずして、

ロングマン(英英辞典)をひかせ、英語で英語を解釈するようになり、

英語圏の思考形式によって文を解釈するまで、辞典を引き続けろという。

随分無理なことを言う講師だと思っていたが、

今になってかかる難行苦行が役に立っているのだから、人生不思議なものだ。


しかしながら、大学受験と聖書研究には、一つだけ異なる点がある。

大学受験はどんなに難しくても解けるように設定しているから、

いつかはその努力は実を結ぶだろう。

しかし聖書研究は、なにせ2000年前の古代人の著述であるから、

誰が正解で、それが本当に正しいのかは、誰にもわからないということだ。

明治・大正時代の著作でさえ、その時代感覚や言葉使いの差に、わからない箇所が多いのだ。

それが、2000年前の、しかも文化的背景の全く違う人間の書いたものであれば、

ある意味で「わからない」ことが当たり前なのかもしれぬ。


聖書研究を続けるコツは、どんなに努力し時間をかけ知識を積んだって、

最後には「やっぱりわからない!」が待っているかもしれぬという、

一種の諦めがなくてはならぬ。

かかるある種の自己の能力に対する不信なくして、

こんな難儀な業は到底続かないのである。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿