前回の投稿記事において、同じ福音書・同じ記事といえども、
書いている著者によって、その意味あいは随分異なることを書いた。
今回も、マルコ伝とマタイ伝における意味あいの違いを一つ。
どの福音書にも記述されている、イエスがヨハネから洗礼を受ける場面。
マルコにおいては、イエスが水から上がられることに強調点が置かれ、
ヨハネの洗礼は「イエスの復活」という意味あいが与えられ、
マルコ伝そのものを、復活したイエスの記録として位置づけている。
(16-7の「ガリラヤへ行け!」は1-9の「イエスはガリラヤから来られ」に接続される)
しかしマタイにおいては、全く違う意味あいが込められている。
洗礼者ヨハネの宣教の言葉は、イエスの福音宣教の言葉と全く同じである。
(3-2と3-10)
しかも、パウロが福音の本体として強調した死人の復活を、
洗礼者ヨハネの口から語らせている(3-9と3-12)。
すなわち、マタイ伝においては、洗礼者ヨハネの劈頭の言葉は、
福音そのものとして提示され、イエスという神の福音の一歩手前の宣教としては、
語られていないのである。
とすれば、パウロが死人の復活の後に、キリスト者の具体的生を述べたように、
マタイも死人の復活の後に、キリスト者の具体的生を述べたと想像することもできよう。
それを裏書きするかのように、マタイにおいては水に沈むことに強調点が置かれ、
イエスという強い者(ισχυροτεροσ)が、
ヨハネという弱い者の前に謙る状況を描いている。
パウロが福音宣教の結論として、強い者が弱い者を受け入れる神の国を主張したように、
マタイも福音宣教の結論として、強い者が弱い者を受け入れる場をもって、
今ある神の国の状況を描いているのである。
(3-15「すべての義を成就する」)
マルコはマルコ、マタイはマタイである。
マルコは、ヨハネの洗礼をもって、イエスの復活を描いている。
そして、「あなたは(συ)わたしの愛する子」(1-11)という宣言をもって、
イエスこそ約束されたメシアだと主張している。
しかしマタイは、ヨハネの洗礼をもって、キリスト者の生きるべき生を描いている。
そして、「この人は(ουτοσ)わたしの愛する子」(3-17)という宣言をもって、
イエスこそキリスト者の模範であると主張している。
同じ記事、同じ資料であっても、強調しているポイントが違うのである。
マルコは、権威主義にふんぞり返る使徒及び原始キリスト教団に対し、
徹底して批判をする。
「イエスにある者ならば、イエスの如く弱い者を受け入れる筈だ」と。
しかしマタイは、「主よ、主よ」と口だけは達者なのに、
一向にイエスの精神を実行しないキリスト者たちを批判する。
「イエスにある者ならば、イエスの如く神の御心を実行する筈だ」と。
故に、同じヨハネの洗礼という記事にしても、その意味あいが変わってくるのである。
聖書研究の醍醐味は、かかる著者の強調点の違いの奥に、
イエス・キリストという方の本来の精神を読み取ることにある。
書いている著者によって、その意味あいは随分異なることを書いた。
今回も、マルコ伝とマタイ伝における意味あいの違いを一つ。
どの福音書にも記述されている、イエスがヨハネから洗礼を受ける場面。
マルコにおいては、イエスが水から上がられることに強調点が置かれ、
ヨハネの洗礼は「イエスの復活」という意味あいが与えられ、
マルコ伝そのものを、復活したイエスの記録として位置づけている。
(16-7の「ガリラヤへ行け!」は1-9の「イエスはガリラヤから来られ」に接続される)
しかしマタイにおいては、全く違う意味あいが込められている。
洗礼者ヨハネの宣教の言葉は、イエスの福音宣教の言葉と全く同じである。
(3-2と3-10)
しかも、パウロが福音の本体として強調した死人の復活を、
洗礼者ヨハネの口から語らせている(3-9と3-12)。
すなわち、マタイ伝においては、洗礼者ヨハネの劈頭の言葉は、
福音そのものとして提示され、イエスという神の福音の一歩手前の宣教としては、
語られていないのである。
とすれば、パウロが死人の復活の後に、キリスト者の具体的生を述べたように、
マタイも死人の復活の後に、キリスト者の具体的生を述べたと想像することもできよう。
それを裏書きするかのように、マタイにおいては水に沈むことに強調点が置かれ、
イエスという強い者(ισχυροτεροσ)が、
ヨハネという弱い者の前に謙る状況を描いている。
パウロが福音宣教の結論として、強い者が弱い者を受け入れる神の国を主張したように、
マタイも福音宣教の結論として、強い者が弱い者を受け入れる場をもって、
今ある神の国の状況を描いているのである。
(3-15「すべての義を成就する」)
マルコはマルコ、マタイはマタイである。
マルコは、ヨハネの洗礼をもって、イエスの復活を描いている。
そして、「あなたは(συ)わたしの愛する子」(1-11)という宣言をもって、
イエスこそ約束されたメシアだと主張している。
しかしマタイは、ヨハネの洗礼をもって、キリスト者の生きるべき生を描いている。
そして、「この人は(ουτοσ)わたしの愛する子」(3-17)という宣言をもって、
イエスこそキリスト者の模範であると主張している。
同じ記事、同じ資料であっても、強調しているポイントが違うのである。
マルコは、権威主義にふんぞり返る使徒及び原始キリスト教団に対し、
徹底して批判をする。
「イエスにある者ならば、イエスの如く弱い者を受け入れる筈だ」と。
しかしマタイは、「主よ、主よ」と口だけは達者なのに、
一向にイエスの精神を実行しないキリスト者たちを批判する。
「イエスにある者ならば、イエスの如く神の御心を実行する筈だ」と。
故に、同じヨハネの洗礼という記事にしても、その意味あいが変わってくるのである。
聖書研究の醍醐味は、かかる著者の強調点の違いの奥に、
イエス・キリストという方の本来の精神を読み取ることにある。
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