キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

ヨハネの洗礼

2010-09-19 17:44:08 | 聖書原典研究(共観福音書)
前回の投稿記事において、同じ福音書・同じ記事といえども、

書いている著者によって、その意味あいは随分異なることを書いた。

今回も、マルコ伝とマタイ伝における意味あいの違いを一つ。


どの福音書にも記述されている、イエスがヨハネから洗礼を受ける場面。

マルコにおいては、イエスが水から上がられることに強調点が置かれ、

ヨハネの洗礼は「イエスの復活」という意味あいが与えられ、

マルコ伝そのものを、復活したイエスの記録として位置づけている。
(16-7の「ガリラヤへ行け!」は1-9の「イエスはガリラヤから来られ」に接続される)


しかしマタイにおいては、全く違う意味あいが込められている。

洗礼者ヨハネの宣教の言葉は、イエスの福音宣教の言葉と全く同じである。
(3-2と3-10)

しかも、パウロが福音の本体として強調した死人の復活を、

洗礼者ヨハネの口から語らせている(3-9と3-12)。

すなわち、マタイ伝においては、洗礼者ヨハネの劈頭の言葉は、

福音そのものとして提示され、イエスという神の福音の一歩手前の宣教としては、

語られていないのである。

とすれば、パウロが死人の復活の後に、キリスト者の具体的生を述べたように、

マタイも死人の復活の後に、キリスト者の具体的生を述べたと想像することもできよう。

それを裏書きするかのように、マタイにおいては水に沈むことに強調点が置かれ、

イエスという強い者(ισχυροτεροσ)が、

ヨハネという弱い者の前に謙る状況を描いている。

パウロが福音宣教の結論として、強い者が弱い者を受け入れる神の国を主張したように、

マタイも福音宣教の結論として、強い者が弱い者を受け入れる場をもって、

今ある神の国の状況を描いているのである。
(3-15「すべての義を成就する」)


マルコはマルコ、マタイはマタイである。

マルコは、ヨハネの洗礼をもって、イエスの復活を描いている。

そして、「あなたは(συ)わたしの愛する子」(1-11)という宣言をもって、

イエスこそ約束されたメシアだと主張している。

しかしマタイは、ヨハネの洗礼をもって、キリスト者の生きるべき生を描いている。

そして、「この人は(ουτοσ)わたしの愛する子」(3-17)という宣言をもって、

イエスこそキリスト者の模範であると主張している。

同じ記事、同じ資料であっても、強調しているポイントが違うのである。


マルコは、権威主義にふんぞり返る使徒及び原始キリスト教団に対し、

徹底して批判をする。

「イエスにある者ならば、イエスの如く弱い者を受け入れる筈だ」と。

しかしマタイは、「主よ、主よ」と口だけは達者なのに、

一向にイエスの精神を実行しないキリスト者たちを批判する。

「イエスにある者ならば、イエスの如く神の御心を実行する筈だ」と。

故に、同じヨハネの洗礼という記事にしても、その意味あいが変わってくるのである。


聖書研究の醍醐味は、かかる著者の強調点の違いの奥に、

イエス・キリストという方の本来の精神を読み取ることにある。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿