橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

なにをいまさらだけど。つまらないぞ「’先生’たちによる朝生・原発問題審議会」

2011-05-30 11:37:21 | メディア批評

出会いの無くなった朝生

ここんとこ朝生がつまらない。

3月以降、震災と原発がテーマで、今もっとも身につまされる話題にも関わらずつまらない。

なにをいまさら、と言われるだろうか。


原発事故が起こった今、かつてのように原発をテーマにすることはタブーでもないし、

インターネットという表現の場ができたことによって

これまでテレビでタブーとされていた発言は広く流布してありがたみが減っている。

にもかかわらず、まだテレビにとってそこはタブーなのか、

インターネットやCS朝日ニュースターなどではすでにおなじみで、

参院の委員会でも証言した脱原発派の京大の小出氏、元東芝で原発設計やっていた後藤氏、

ソフトバンクの孫正義氏らは呼ばれていない(ほかの理由かもしれないが)。

それがどういう理由にしろ、かつて朝生が担っていた、

タブーに挑戦という役割はもう終わっている。

もちろん視聴者が桁違いに多い地上波テレビという意味はあるが、

逆にその限界のほうが露になっている。


それでも、これまで私は、結構朝生をチェックしていた。

それはなぜか。


朝生は、ネット的言論人と、ネットなんて信用できんといわんばかりの政財界および

その関係先のおじさまが相まみえて意見を戦わす唯一と言っていい場だったからだ。

新興勢力と既得権益の出会いの場だ(楽天三木谷氏が経団連脱退を口にしたらしいが、

三木谷さんあたりは、この場合の新興勢力には入れてませーん。

もっと不安定で後ろ盾の無い人、あるいは非主流派的な人です)。


だいたいこの2つの勢力は常に別の場所で活動していて、

その話を聞く場にいるのはそれぞれを信奉する人々たちであり、そこにはバトルも摩擦もない。

あるのは拍手と喝采。頷くたくさんの頭。

 

2つの勢力が共にまみえる場があるとしたら、

それは皮肉にも、政府の記者会見がフリー記者にも一部解放されたことで、

会見場がクラブ記者とフリーの(互いに言葉を交わしはしないものの)

無言のバトル場になっていた。そんくらいのもんだ。


昨年の夏、若者不幸社会というテーマの回の朝生

東浩紀氏と堀紘一氏がぶつかって、東氏は一時退場、また戻ってくるということがあった。

マングースとハブのごとき異種格闘技、それによる対立と和解は、

生放送の番組としては、おおよそほかでは見られないものだ。

2人のあまりの話の通じなさにどんよりする一方で、東氏のいらだちが伝わって、

おじさんたちにも目に見えない何らかの変化を与えるかもしれない、

なんて淡い期待を抱いてしまった。

まずは、動かなかった空気を動かす所からだ、なんてね。

普段どう考えても同席しないだろうと思われる人たちを集める効果は

こういうところにあると思った。

もちろん東氏は、世代間対立は望んでいないだろうし、

バトルやろうとしてやったわけじゃないので、

私が勝手に盛り上がっただけですけど。


しかし、震災後、そんな私の淡い期待も泡と消えそうだ。

朝生は、そんな異種混合の可能性を捨ててしまったのだろうか。

いや、震災前からその兆候はあった気もする。


震災直後、一瞬日本は「戦後」だった。復興の機運で希望も生まれかけていた。

しかし、原発事故が深刻だということが分かるにつれ時間は巻き戻り、

日本は「戦中」になってしまった。

それ以前、震災前のある期間から「戦前」のような雰囲気だったと思う。

社会と経済は閉塞し、解決方法が見いだせない。

既得権益を持つ人々はそれを守ることに汲々として、自分たちだけの殻に閉じこもっていた。

資産を回して有機的に世の中を動かしていこうなんてこれっぽっちも思ってなくて、

仲間だけのインナーサークルで、嵐が去るのを待っていた。

自分たちが問題を大きくしている台風の目であることに気づきもせず、

政府が、日銀が、アメリカが、世界の自浄能力が何とかしてくれるだろうと淡い期待を抱いていた。

でもそんなわけもなく・・・。そして震災。

色んな問題を他人事みたいに考え、責任転嫁してきたツケは原発事故という形で返ってきた。

そして、「戦前」殻に閉じこもっていた人たちの守る姿勢はさらに強化された。

既得権者は自分の権益を守ろうとしてよりいっそう堅い殻の中に閉じこもり、

自分たちの仲間内でだけ資源を融通し合っている。

そこには意識的なものもあれば、無意識で行われるものもある。

それが、このところの朝生のキャスティングにも表れている気がする。

政治家、学者、経済評論家・・・、なんとか審議会の席に座っていそうなメンツばかりだ。

ほとんどのパネリストが「先生」と呼ばれたことがあるんじゃないだろうか。

今回も、脱原発vs脱原発懐疑派、違う立ち位置の人間を呼び、対立軸を作っているようではあるが、

あくまでもネットではなく地上波テレビに出そうな人の範囲の中からの人選のように見える。

まるで、「朝生原発問題審議会」みたいだ。


なんだかんだいってみんな「先生」だから、基本的に物わかりが良い。

本質的ないらだちなど抱えていない人がほとんどだ(のように見える)。

だから、喧嘩になることもなく、ちょっと怒鳴り声が聞こえても、

それはその場の議論を覆すような本質的な問題を含んではおらず

(東浩紀のいらだちはそういう本質的な問題を含んでいたと思う)、

それぞれの意見が順に述べられて討論(討論とは言わないか・・・)は終わる。

結局、その意見を掬うか掬わないかは官僚の胸先三寸である審議会と同じようなことになっている。

審議会は、先生方の単なる意見表明の場であり、その意見が通ろうが通るまいが、

自分は政府に対して意見を述べられるような立場であることを表明する場でしかなくなっている。

つまらないときの朝生はそんな感じだ。

もちろん、パネリストの人それぞれが悪いわけじゃない。

場を設ける側の問題だ。


いまや、保守だとかリベラルだとか、右とか左とかの対立はもはや有効な対立軸ではない。

今、有効な対立軸があるとしたら、新興勢力と既得権益(とその取り巻き)の対立だ。

別の言い方をすると

「何か新しいことをやろうとしている人vsあるものを守りたい人」の対立軸だ。

田原総一朗という人のテレビ的な感性は、

これまで、出る杭や変わり者、ある意味での嫌われ者、お騒がせ野郎などなど、

「あいつなんなんだ」ってやつを呼ぶことで

朝生をいい意味でテレビ的な異種格闘技戦の場にしていたと思う。

玉石混淆。石がだめなわけではなく、一般的には石と思われるものに、

時には驚くべきものも混ざっているという意味も込めて。

そういう玉と石や、玉なんだけど石の味方をする人や、玉になりたい石や、

石の道をまっとうしたい石や、玉同志でつるんでる人などなど、

普段の社会生活では、あまり接点の無い人々をごった煮のごとく同じ席に座らせて、

あーだこーだ言わせるのが朝生だったはずではないだろうか。

それとも私の思い過ごしか。


一方で世の中を見渡すと、自分と同じような階層や収入の人としか付き合わない、

そんな社会になっているような気がする。

そして、自分でも気づかない間に、仲間内の基準でしかものごとを判断しなくなっている。

そのことで、社会全体への無理解が広がっていると思う。


先日、被災地に復興住宅を建てようというNPOの会合に、

被災地から東京に避難してきたという女性が参加していた。

震災前までは漁師民宿をやっていたという。

30人くらいの人が参加して活発に発言していたが、

彼女の話が一番面白く、発見があった。

頭で考えただけでは出てこない発言である。

今の朝生にはこういう部分も足りない。


最後にもう一点。経済合理性だけの基準はどうよ


朝生だけでなく、最近の報道番組の出演者は

この10年くらい弁護士と並んで経済学者が多い。

これは、経済合理性の面から様々な事象を考えることが

日常となっていることの現れだ。

今回の原発問題にしても、文化や思想の面からエネルギー政策を語る人がテレビには出てこない。


このところのテレビの討論やニュース番組がつまらないのは、

全てが経済合理性という板の上で、良いだの悪いだの言ってるに過ぎないからだ。

その経済合理性の追求が、今の破綻をもたらしているにも関わらず、

私たちは懲りずにその判断基準でものごとのほとんどを斬っている。


突然、「判断基準は美です。」とか言ったら頭おかしいと思われるのだろうか。

「判断基準が美であるとはどういうことか」を説明するのはちょっと面倒だ。

経済的指標、つまり儲かるか儲からないかは、

数字の大きさという誰にとっても分かりやすい指標だから理解されやすい。

しかし、私たちは経済合理性の追求によって快適さや安心など数値では表せないものを失った。


人間の快適や安心というものが一体どこから生まれるのか。

生活というものを構成する要素をいま一度考え直してみるべきだ。

生活=お金の動きだけでは決してない。


朝生、来月はどういうテーマで誰が出るんだろうな・・・。