橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

すばる6月号:中沢新一「日本の大転換(上)」を読んだ。

2011-05-18 21:12:19 | 東日本大震災

中沢氏の論旨を要約するとこんな感じだろうか

(乱暴な要約なので、是非ともあとですばる6月号を読んで下さい)。

 

原発のような原子の内部にまで分け入ってエネルギーを生むことは、

地球生態系の「生態圏」の外側である「太陽圏」に属することである。

つまり地球の誕生、生成に関わる宇宙活動の範囲の事象である。

生態圏の内部に外部を持ち込むことは、

世界(生態圏)を超越した神を設定した一神教と似ている。

そして、社会の外側に勝手に膨張する(膨張し続けなければならない宿命の)市場を

独立させた資本主義も同根ではないか。

 

現在、これら全てを包含する知の形態が必要で、

それに「エネルゴロジー(エネルギーの存在論)」という名まえを与えたい。

 

人類のエネルギー革命の歴史は、「火の使用」を発見したところから始まって、

7次の革命を経て現在に至る。

 

1)火の使用 

2)農業牧畜の発達による都市の形成 

3)炉の発達による金属の鋳造 水力風力のエネルギー利用 

4)火薬発明による「燃える」から「爆発する」火への移行 

5)石炭利用による産業革命 

6)石油発見と電気の利用 

7)原子力とコンピューター 電子の量子力学的動きの利用がもたらした技術

 

現在は、この7次にあたり、一神教的な思想から生まれた原子力、

資本主義ともに限界を露呈している。

 

こんな感じの内容だと理解した(ほんと乱暴な要約ですが)。

 

そして、中沢氏は次のように書く。

その論旨におおむね頷いたのだが、ここだけちょっと引っかかった。

引っかかったというより、どう解釈して良いかわからなかった。

 

「原子力とコンピューターによる「第7次エネルギー革命」をへた資本主義は、

 かつてないほど大きな規模に成長を遂げたけれど、

 ますます生態圏との連絡を絶たれた自閉系へと変貌をとげていったように思われる。

 この経済システムは、いまでは生態圏にとっての毒物のような存在になってしまったが、

 生態圏にはそれを薬物に変える能力はない。」(この5行そのまま引用)

 

 

コンピュータによる革命は原子力や資本主義と連動して毒薬を振りまきはしたけれど、

そこから逃れようとする人々のうめきやあがきのような声も、

そのコンピューターの一部インターネットという仕組みを利用して上げられている。

ツイッターなどは一時、新たな直接民主制へのヒントとさえ思われた

(今のツイッターからはそういう空気は減少したかに見える)。

それは薬物に変わろうとしたあがきではないのか?

それとも、こうしたインターネットの進化は管理社会につながる過程でしかないのだろうか。

ベーシックインカム論などとともに語られるソフトな管理社会を受け入れるという議論

(もう十分管理されてるんだろうけど)などを考えても、

ネット上にあるかに思われる希望はメビウスの輪でしかないのだろうか。

 

やはり、いったんメビウスの輪の外側に出ないとだめなのか?

と、パソコンで文章を書きながら、じゃあどうすればいいんだと思って、

その解決策はすぐには見つからず、

すぐに具体的な行動に関する答えを求めようとしてしまう自分に落ち込む。

 

でも、この解釈は、中沢氏の文章をちゃんと理解していないのかもしれない。

それで最初に「どう解釈して良いかわからなかった」と書いた。

分かる方コメントででも教えて下さい。

 

自然が好きで、といっても、

都会の窓から見た夕焼けでも、小さな庭の草花でも、木漏れ日の露地でも、

それを感じているだけで生きていられる自分は、人間との付き合いが下手である。

そんな私に、単純に自然に帰れなんていう資格もないし、

これから必要となる文明の大転換はそんな単純なことでもないのだろう。

いや、やっぱ単純なのか?

 

「昔に戻る」ことはありえないとどこかで思っている。

人間の進歩に向けての本能とその逆の本能の狭間にあって、

退化することと、ぐちゃぐちゃに絡んでしまった糸を解きほぐすことが、

具体的にどう違うのかが分からないでいる。

どこに向かえば良いのだろう。

とりあえず、来月号の(下)を楽しみにしよう。