岡本太郎、小松左京、彼らの著作を今再び手に取ろうとしている(初めて読むものもあるが)。
岡本太郎と小松左京はあの大阪万博テーマ館のプロデューサーとサブプロデューサーだ。
万博のテーマプロデューサーでありながら、単純な未来志向にノーを突きつけ、
「人類の進歩と調和」というテーマにも異を唱え、
太陽の塔の中に石器時代や縄文時代を思わせる空間を作った。
「人類は進歩なんかしていない。(中略)みんなで妥協する調和なんて卑しい」と語った
太郎の言葉を、原発事故という事態に至ってしまった現在を生きる我々は重く受け取るべきだ。
大阪万博公式ガイドには万国博協会会長のこんな言葉も掲載されている。
「科学と技術さえも、その適用を誤るならばたちまちにして人類そのものを
破滅にみちびく可能性を持つにいたった。このような今日の世界を直視しながらも、
なお私たちは人類の未来の繁栄をひらきうる知恵の存在を信じる。
多様な人類の知恵がもし有効に交流し刺激しあうならば、
全人類のよりよい生活に向っての調和的発展をもたらすことができるだろう」
40年後、私たちは、その人類への希望的観測が
はかないものだったことを思い知らされている。
小松左京の「日本沈没」や「首都消失」は言うに及ばず。
それから40年、彼らが危惧した「科学の進歩の暴走」である原発事故が起こった。
40年前に彼らが危惧した事態が現実となった。
かつてSF小説が鳴らした警鐘を今あらためてこころに留め置きたい。
そして再び岡本太郎。
今年は岡本太郎生誕100年で、彼の著作が書店に並んでいる。
これまでに読んでいなかった「今日の芸術」と「日本の伝統」を購入。
ついでに「沖縄芸術論」も購入。あらためて、彼の先見性と本質を見る力に驚いた。
特に、彼の言う「芸術はけっきょく生活そのものの問題」というところに強く共感する。
どういう世界に住みたいか、何に囲まれて暮らしたいか、どういう気分で生きたいか、
そしてどう死を迎えたいか。どう弔うか。
それらは「美」の問題だ。その中には宗教や思想も含まれるかもしれない。
私は、原発を受け入れるか否かも、結局は「美意識」の問題ではないかと思っている。
原発の見た目が美しいとか美しくないとかいうだけの話ではない。
人間の五感、第六感も含めて、厭な感じを持たず、
体全体で受け入れられるものかどうかということである。
ちょっと話は飛ぶが、
内田樹氏がブログでこんなことを書いている。
「内田樹の研究室~弁慶のデインジャー対応について」
http://blog.tatsuru.com/2011/05/07_1001.php
危機にはコントロール出来る「リスク」と
人間の能力では避けられない「デインジャー」の2種類あるが、
「デインジャー」は人間の力では防げないのだから逃げるしか無い。
現代の人間の多くは「リスク」のヘッジばかりをやって、
「デインジャー」を察知してはやいこと逃げるというあり方を忘れている。
「厭な感じがするから今日はやめとこ」みたいな能力だ、というような内容だ。
そしてさらにこう続ける。(以下5行はそのまま引用)
「デインジャー対応」というのは事故前の福島原発を見て、
「なんだか厭な感じがする」能力のことである。
その「厭な感じ」が消えるように設計変更を行ったり、運転の手順を換えたり、
場合によっては操業を停止したりする決断を下せることである。
それができる人間がそこにいれば、そもそも事故は起こっていない。
この内田氏の話にでてくる「デインジャー対応」能力をそのまま美意識というのは飛躍し過ぎかもしれないが、「美しいなあ」を初めとして、「いい気分だ」とか、「この雰囲気は好きだ」とか、「抱きしめたい」とか、逆に「これは厭な感じがする」とか、「離れた方が良い気がする」とか、証拠や理由を上げての合理的な説明は上手くできないけれど、自分の存在に影響を及ぼしそうな何かを敏感に見極める能力をひっくるめて「美意識」というのではないだろうか。
私たち日本人は、本来なら身の回りに溢れ、
自らの身体感覚ととともにあるはずの「美」を、
いつのまにか、何か特別なものにしてしまった。
「美」を体現するものではなく、鑑賞するものにしてしまった。
そこに現代の不幸がある気がする。
そして、311後の世界では、
その不幸を解消する方向に日本は向かうべきだと思う。
そこでは、岡本太郎が自らの著書の中で訴えている
『美を祀り上げない』生活の中の美を見つめる精神が必要だ。
出島プロジェクトでやりたいことはそういうことだ。
椎茸売ったり、火鉢にあたったりしているけれど、
それもそういうことのひとつというつもりでやっている。
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