橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

20ミリシーベルト問題から考える~取材におけるセカンドクエスチョンの重要性と問題解決を求める姿勢

2011-05-11 13:25:18 | 東日本大震災

記者会見やインタビューの映像を見て常々思うことがある。

なんでそこで追求をやめるのだ、聞きたい事はその先ではないか・・・

プリーズ ワンモア クエスチョン!!


昨日見た映像にもこんな場面があった。

フジテレビ「とくダネ」の一コーナー。

福島県の幼稚園や学校の屋外活動を制限する放射線量が

年間20ミリシーベルトとされた問題の是非を問う内容で現地で取材していた。

ツイッターなどではフジテレビでこうした企画が放送された事を評価する声もあり、

私もこの取材を批判するつもりは無い。

ただ、聞きたい事はその先ではないかと思う一場面があった。


福島県では現在、放射線の専門家がアドバイザーという形で、

放射線の許容量についての講演会を行っている。

この日は、長崎大学の山下俊一教授が登壇していた。

そして、20ミリシーベルトの許容を求め、

「我々日本国民は日本政府の指示に従う必要があります」と述べていた。

えーっ!いつの時代の話だよという発言なんだが、

ということは、専門家も20ミリシーベルトを安全な線量だと

思ってないんじゃないか?という疑問が残る。

そう思ったんだろう、講演後、番組のディレクターもぶら下がり取材を行っていた。


その時のやり取り。


山下教授       「20ミリシーベルトは過渡的なレベルだと考えた方が良いです」

ディレクター「分からないという事は安全とも言い切れない?」

山下教授       「もちろん、もちろん。グレーゾーンでどこに線引きをするか

                        ということが今議論されていることです」

ディレクター「福島に住んでいる方は、その値を耐えて下さいという事ですか?」

山下教授       「もし耐えなかったら、逃げなくちゃいけないですね。

                        避難どこにさせますか、あなたは。」


山下教授は、ほら、あなたも答えられないじゃないかといわんばかりに

ディレクターに質問を振って満足げな顔をした。

そのあとも、すこしディレクターは食い下がっていたようだが、

それはナレーションベースのノイズになっていて、山下氏の発言は聞き取れず、

かろうじて一言、「それはご本人の希望によると思います」という部分だけが

オフレベルで聞こえてその場面は終わった。


え~!


そもそも、山下氏は放射線健康リスク管理アドバイザーという立場で、

取材をしているディレクターに向かって「あなたならどうする?」と

逆質問するのは反則である。悪いディベートの見本みたいなもんだ。

政府のアドバイザーという直接に問題解決に関わる立場にいる人間が、

その職務に無い立場の人間に「あなたならどうなんだ」といって黙らせてはいけない。

意見を求める事はいいけれど。


ディレクターも開き直られてひるむことはない。

「それはあなたたちの仕事であって、危険が少しでもあるのならば、

政府に様々な手を尽くして一時避難を検討させるのが使命ではないのか?

なぜ避難する事が無理なのか?なぜそういう前提で考えるのか?」ということを聞いて欲しかった。


20ミリシーベルトを肯定する学者も、明らかにこの基準値が妥当でないことは認めている。

こうなると、知りたいのは、政府がなぜ「避難は無理」と考えているかだ。

避難が必要な人口は何人で、それを日本国内の自治体で分散して適当な時期まで受け入れる

としたらどういう方法があるのか。たしかにとても面倒な作業だと思われるが、

原発事故は人災の部分もある。対策を考えるのは政府の義務ではないか。


20ミリシーベルトという数値には学者も半信半疑である事が取材の中ではっきりしたのなら、

取材者は次の質問を投げかけなければならないはずだ。

この場合なら、「なぜ、避難は無理という前提に立つのですか?」ではないか。

聞き返していたのかもしれないが、そこを放送で使わなければ意味が無いのではないか。


政府が、避難を大した検討もしないで無理と断じているなら批判に値する。

一方、もしそこで、「避難は検討したが、これこれこういう理由で、

耐えてもらうしか無いという結論に達した」という答えが出てくるのだとしたら、

またそこから解決策にむけての議論ができるはずだ。

「無理だ」という理由を政府内だけで囲っていたのでは何の解決にも繋がらない。


質問者が一瞬ひるむのは、

 自らも「避難は難しいかもしれない」とどこかで考えているからだろう。

もちろん、私自身も、住民避難を検討した時に起こりうる困難をいくつも想像出来る。

しかし、それを誰が検証したというのだろう。

途中で起こると思われる混乱にひるんで、多くの人が検討する事さえ自主規制している。

しかし、本当に混乱するかどうかはやってみなければわからないのだ。


多くの報道を見ていて思うのは、問題点を批判するための取材手法ばかりで、

その問題を実際に解決するにはどうしたらいいかという視点が取材者にあまり見られない事だ。

メディアは中立でなければならないという考えに縛られているのだろう。

メディアが中立であらねばならないのは当然だが、

「なぜ問題解決に至らないのか?」を問うことはできるのではないか。


政府や東電は、反対もある中、

みずから推進してきた原子力発電で起こった事故にも関わらず、

批判されれも事情をきちんと説明して理解してもらうという謙虚な姿勢を忘れている。

どう考えても、上記の山下氏は開き直っている。

「あなたならどうしますか?」と突然振って、ディレクターを黙らせる。

それで質問合戦に勝った気でいる。そんな不誠実を許して良いはずが無い。

自分が不誠実でないならば、なぜ避難の道筋をもっと真剣に考えようともしないのか?

取材者はそこを突くべきだ。


とくダネでも、政府の対応の問題点は伝わってきたけれど、

じゃあ、どうすればいいの、という疑問が残る事も事実だ。


そんな被取材者の不誠実を突くために、

記者やディレクターはぐっと踏ん張って、

セカンドクエスチョン、次の質問を忘れては行けないと思う。


記者会見やぶら下がり取材などでは、たいて第一の質問はかわされてしまうことが多い。

しかし、なんとなく慣習的に、記者は次の質問をかぶせて食い下がる事をしない。

記者クラブの記者会見を見ていると、一人一問という暗黙の了解があるのか、

回答に対するさらなる質問はしてはいけないことになっているように見える。

やりとりになるのをあまり見た事が無い(最近の開放された会見ではそういう場面もたまに見かけるが)。

大抵の場合、最初の質問に対する答えは腑に落ちなかったり、疑問が残る事が多いのだが、

それはそのまま放置されている。もちろん時間の制約もあるとは思うが、

一言、的確な切り返しのセカンドクエスチョンができないものかと思う事が多い。


ニュース番組のキャスターがスタジオにゲストを呼んで話を聞く時の様子を見ていても、

最初から答えを想定していて、それ以外の話の展開にはついていけてない。

自分の用意した質問をして、思ったような答えが返ってこないと、

すぐにその方向をあきらめてしまう。

批判する事には慣れていても、問題解決しようという視点が無いから、

批判をかわされた時に、次の質問が出てこないのではないかという気がしてしょうがない。


最近の「朝まで生テレビ」を見ていてイライラするのも、

司会者の田原氏ほか、インサイダーを自認するパネリストが、

自分は政府内部の事情を知っているとか、そういったことを臭わせて

暗黙に実現不可能の線引きをして議論しているように見えるところだ。

問題解決をめざす意見がないわけではないが、

そういう意見が、軽くスルーされたり、途中でつぶされてしまう傾向にあるように見える。

番組は「本当にそれは実現不可能なのか?可能性は無いのか?」という

国民の側の疑問には答えてくれない。


多くのメディアの取材者は、最初に設定した取材テーマ

ーーとくダネの場合は、20ミリシーベルトは是か非かだったがーーに対する答えだけを

求めようとしがちだ。取材によって、その答えは「ほぼ非である」と分かっても

非難するばかりで、その先を求めようとしないのだ。


危ないという答えを出されて、じゃあ、そこに住む人はどうすればいいのか?

その政府の言い分を覆すためには、

批判する先の解決方法の議論に行かねばならないはずである。


原発報道に限らず、これまでの様々な事象におけるメディアの報道の多くが、

加害者側を非難する事に費やされ、被害者側の具体的な救済を模索する方向にいっていない。


意味のあるセカンドクエスチョンができる能力は、

問題の解決を求める姿勢の中でこそ培われるのではないだろうか。