ドアが開いた。ふらりと男が入ってきた。体重を感じさせない男だ。風に押されるようにカウンターにつく。
「いらっしゃい」
マスターの鏑木がおしぼりを出す。四〇代後半、彼自身の体重を感じさせないが、なにか肩に負荷がかかっているように鏑木には見えた。この海神では初めての客だ。
「いかがいたしましょう」
「日本酒ありますか」
海神はバーである。洋酒を楽しむ店だ。日本酒をリクエストする客は珍しい。
「ございます」
「ひやでください」
鏑木は呉春をグラスに注いだ。クーと半分ほどあけた。
「ほんとはスコッチが好きなんだ。バーボンも好き。ウィスキーが好きなんだ」
男は、コップの残りをあけた。
「おかわり」
「呉春でいいですか」
「まかせるよ。日本酒はよく知らないんだ」 鏑木は別の一升瓶を開けた。
「ん。この酒もうまいな」
「石川県の天狗舞です」
男は二杯目の天狗舞もあけた。空のコップを持ってじっとしている。
「なにかおつまみを、めしあがりますか」
「いや、いい」
鏑木は天狗舞を横の戸棚にしまうと、グラスをふきはじめる。男に視線を向けないように心がける。
男と鏑木はカウンターを挟んでいるが、二人とも気配がない。静寂が流れている。
ふっと、男が息をはいた。
「マスター、おだいりさまって知ってるか」
「ひな人形のですか」
「いいや。なんでも人の代理やってる人のことだ」
「はい?」
男は空のコップを手に持って、ながめている。
「おれ、会社では課長代理なんだ。同僚はみんな『代理』がとれて課長や次長になってった。おれだけまだ課長代理なんだ」
「は」
「家では父代理なんだ」
そういうと空のコップをカウンターに置いた。
「おかわり」
「天狗舞でいいですか」
「うん」
戸棚から天狗舞を出してコップに注いだ。「なぜコップなんだ」
「徳利とお猪口は置いてないんです」
「このコップもおだいりさまか」
そういうと天狗舞の入ったコップを愛おしそうに持って傾けた。
男のポケットでスマホが鳴った。
「はい。いま、商店街の中のバーで飲んでる。海神というバーだ」
「娘からだ」
鏑木に話しかけた。話を聞いて欲しいのだろう。
「娘さん、来られるですか」
「うん。あと一〇分ほどで来る」
若い男女が入ってきた。
「かおり」
「おとうさん」
「娘さんですか」
鏑木が聞いた。
「うん。血はつながってない。再婚した女房の子だ」
「でも、おとうさんはおとうさんです」
「代理のオヤジだ」
娘の横に若い男が座った。
「義彦さんです」
「知ってる。名前だけは。女房から聞いてた」 若い男はこくりと、男に頭を下げた。
「で、娘をどうする」
「しあわせにします」
若い男は顔を上げ、男の目を見ていった。「結婚するのか」
「はい。おとうさん」
「で、かおりは」
「式は秋にしようと思うの。おとうさん」
「わかった。父親代理はおれがやるよ」
「だいりじゃないよ。おとうさん」
「マスター、うんと上等のスコッチ出して」「マッカランの十八年がございます」
「それをロックで三杯」
「かおりは飲むな。義彦君は」
「ぼくもいただきます」
三人はロックグラスを持った。
「二人の結婚を祝して乾杯」
三人はグラスを空けた。
「おれは『代理』がとれるまで好きなウィスキーを断っていた。こんどの移動で課長になる」
「おめでとう。おとうさん」
「いらっしゃい」
マスターの鏑木がおしぼりを出す。四〇代後半、彼自身の体重を感じさせないが、なにか肩に負荷がかかっているように鏑木には見えた。この海神では初めての客だ。
「いかがいたしましょう」
「日本酒ありますか」
海神はバーである。洋酒を楽しむ店だ。日本酒をリクエストする客は珍しい。
「ございます」
「ひやでください」
鏑木は呉春をグラスに注いだ。クーと半分ほどあけた。
「ほんとはスコッチが好きなんだ。バーボンも好き。ウィスキーが好きなんだ」
男は、コップの残りをあけた。
「おかわり」
「呉春でいいですか」
「まかせるよ。日本酒はよく知らないんだ」 鏑木は別の一升瓶を開けた。
「ん。この酒もうまいな」
「石川県の天狗舞です」
男は二杯目の天狗舞もあけた。空のコップを持ってじっとしている。
「なにかおつまみを、めしあがりますか」
「いや、いい」
鏑木は天狗舞を横の戸棚にしまうと、グラスをふきはじめる。男に視線を向けないように心がける。
男と鏑木はカウンターを挟んでいるが、二人とも気配がない。静寂が流れている。
ふっと、男が息をはいた。
「マスター、おだいりさまって知ってるか」
「ひな人形のですか」
「いいや。なんでも人の代理やってる人のことだ」
「はい?」
男は空のコップを手に持って、ながめている。
「おれ、会社では課長代理なんだ。同僚はみんな『代理』がとれて課長や次長になってった。おれだけまだ課長代理なんだ」
「は」
「家では父代理なんだ」
そういうと空のコップをカウンターに置いた。
「おかわり」
「天狗舞でいいですか」
「うん」
戸棚から天狗舞を出してコップに注いだ。「なぜコップなんだ」
「徳利とお猪口は置いてないんです」
「このコップもおだいりさまか」
そういうと天狗舞の入ったコップを愛おしそうに持って傾けた。
男のポケットでスマホが鳴った。
「はい。いま、商店街の中のバーで飲んでる。海神というバーだ」
「娘からだ」
鏑木に話しかけた。話を聞いて欲しいのだろう。
「娘さん、来られるですか」
「うん。あと一〇分ほどで来る」
若い男女が入ってきた。
「かおり」
「おとうさん」
「娘さんですか」
鏑木が聞いた。
「うん。血はつながってない。再婚した女房の子だ」
「でも、おとうさんはおとうさんです」
「代理のオヤジだ」
娘の横に若い男が座った。
「義彦さんです」
「知ってる。名前だけは。女房から聞いてた」 若い男はこくりと、男に頭を下げた。
「で、娘をどうする」
「しあわせにします」
若い男は顔を上げ、男の目を見ていった。「結婚するのか」
「はい。おとうさん」
「で、かおりは」
「式は秋にしようと思うの。おとうさん」
「わかった。父親代理はおれがやるよ」
「だいりじゃないよ。おとうさん」
「マスター、うんと上等のスコッチ出して」「マッカランの十八年がございます」
「それをロックで三杯」
「かおりは飲むな。義彦君は」
「ぼくもいただきます」
三人はロックグラスを持った。
「二人の結婚を祝して乾杯」
三人はグラスを空けた。
「おれは『代理』がとれるまで好きなウィスキーを断っていた。こんどの移動で課長になる」
「おめでとう。おとうさん」