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ごろりんブログ

雫石鉄也のブログ

SF作家は予言者じゃない

2023年09月05日 | SFやで
 NHKアナザーストーリイ 「運命の分岐点 小松左京 『復活の日』の衝撃 コロナ予言の書」を観た。豊田有恒さん、筒井康隆さん、乙部順子さんといった人たちを出演させて、おおむねけっこうな番組であった。ただ、強く否定したいことがある。
「復活の日」はコロナ予言の書では決してない。小松さんはかような感染症が、将来まん延してえらいことになる、ということを書きたくてあの作品を書いたのではないと思う。人類を絶滅に追い込む状況を設定し、そういう事態になれば人々は何を考えどう行動するか。それによって文明とは世界とはいかなるモノかを考察する。それが小松さんが「復活の日」を書いた目的ではないのか。そういう状況に人類を追い込むための手段としてまったく新しいウィルスを考えだしたのではないだろうか。「復活の日」がコロナを予言したのではなくて「復活の日」で小松さんが描写した「イタリアかぜ」の様子がわれわれが現実に体験した新型コロナウィルスの感染まん延の様子にそっくりだっただけである。小松さんはコロナを予言したわけではないだろう。
 この番組を観た後、映画「復活の日」を観た。角川春樹が執念をかけてつくった映画だけあって、壮大なスケールと木村大作撮影の映像美は見ものであるが、映画では原作のキモとなるべきものが抜けている。ヘルシンキ大学の文明史担当ユージン・スミルノフ教授の「最後の講義」が映画ではない。ソ連の潜水艦の艦長代理がスミルノフ少尉となっていたから、角川か脚本の高田宏次あるいは監督の深作欣二が意識をしていたかと思うが、映像的に面白くないからはぶいたのだろう。なんとかしてこのシーンは映像化して欲しかった。小生はこのスミルノフ教授の最後の講義を読むたびに感動する。小松さんはこれを書きたいがために「復活の日」を書いたのではないか。コロナを予言するために書いたのではない。
 小松さんのもう一つの代表作「日本沈没」も予言の書あつかいされている。あの小説での地震の描写が現実の阪神大震災や東日本大震災とそっくり。小生の住まいおる神戸市東灘区は阪神大震災で甚大な被害を受けた。あの大震災の象徴的な映像で阪神高速が横倒しになった映像がある。小生は阪神高速が倒れるところを生で観たのである。あの地震のあと「日本沈没」を読みなおし映画も見直した。高速道路が倒壊するシーンが現実とそっくりなので驚いた。
「日本沈没」は大震災を予言するために小松さんは書いたのではないだろう。小松さんが書きたかったのは、日本人から日本列島を取り上げてしまったら日本人はどうする/どうなる。を書きたかったのだ。で、日本列島を沈没させる手段として、当時最新の理論であるプレートテクニクスによるマントル対流に着目し、架空の話として日本列島地下のマントル対流がとつぜん流れを変えたら日本列島はつっかえ棒を失って海に沈むという理屈を考えた。作中の田所博士もいっていた。「地震はその付属にすぎない」その付属の所がリアルに描かれていたから小松さんは予言者あつかいされていたのだろう。このことが小松さん自身の精神に大きな負担となった。これは小松さんの作家としての誠実さのあらわれだろう。
 ある日、日本は海に沈んだ。という書き出しで、そのあと小松さんが書きたかったことを書けばよい。「日本は海に沈んだ」という一言を書くためだけに「日本沈没第一部」の大半を費やしたのである。一時SFファンダムで、小松さんに「沈没の第2部は?」との質問をすればぶん殴られてもしかたがないといわれた。小松さんが本当に書きたかったのは第2部だったろう。その第2部を実際に筆を立てて書いたのは谷甲州だ。
 小松左京に限らず予言者あつかいされているSF作家は多い。クラーク、ハインライン、ガーンズバックなど。彼らは衛星通信や家庭用ロボットを予言したのではなく、そういうモノが実現したら、出現したら、人間は、社会は、世界は、文明はどうなっていくだろう。を書きたかったのであって、決して予言したのではない。

第25回日本SF大会顛末記 その4

2023年07月31日 | SFやで
 と、いうわけで、第25回日本SF大会の予行演習としてSFフェスティバルを行うことになった。これは柴野拓美先生のアドバイスによるモノで、柴野先生には的確な助言をいただいたと感謝している。
 この時、柴野先生のご自宅におじゃまに上がったのは、小生、清水、山根、沖田の4名であった。みんな若く貧乏であった。旅費を節約するためレンタカーを借りて東京まで走って行くこととした。
 小生の下宿に集合。近くのレンタカー屋でスカイラインを借りた。名神、東名と小生が運転した。東京の沖田のマンションに到着したのは深夜だった。翌朝、沖田宅で朝食をごちそうになって、レンタカーを返却後、電車で神奈川県二宮の柴野先生宅に午前中に訪問した。
 次の実行委員会で、SF大会前年にSFフェスティバルを開催することを提案して了承を得た。そして、次のことが決まった。
 第11回日本SFフェスティバルを1985年の夏に開催する。開催場所は神戸。実行委員長は不肖小生が任じられた。こうして1984年の夏、来年のSFフェスティバル、そして再来年の日本SF大会に向けて、小生たち第25回日本SF大会実行委員会は動き出したのである。

第25回日本SF大会顛末記 その3

2022年07月04日 | SFやで
 1986年に第25回日本SF大会をやることになった。第14回大会の神戸でのSHINCONの実行委員長だった清水宏佑ら何人かのSF大会実行委員経験者はいたが、実行委員会のほとんどがSFイベント実行委員未経験者だ。ごあいさつを兼ねて、柴野拓美先生に相談にあがった。神奈川県二宮の柴野先生のご自宅を訪問した私たちに柴野先生は、ある提案をされた。
「SF大会をやるなら、予行演習としてSFフェスティバルをした方がいいですね」
 実に的確なご提案であった。清水、岡本、山根らSF大会実行委員の経験者はいた。また小生も星群祭の実行委員長は経験があるが、1000人規模の大きなイベントであるSF大会は経験がない。他の実行委員たちはイベントの実行委員の経験がない者がほとんであった。
 SFフェスティバル。1977年の中断をはさんで1969年から1979年まで毎年行われていた。日本で一番大きなSFのイベントは、いうまでもなく年次の日本SF大会である。日本SF大会は2年前の大会で立候補して、日本SFファングループ連合会議の承認を受けなければならい。日本SF大会はファンが自主的に行うイベントではあるが、日本SFファンダムのオフィシャルなイベントといっていい。SFフェスティバルはSF大会より規模も小さく、気軽に開催参加できる、「てごろ」なSFイベントであった。
 柴野先生の提案を持ち帰った、私たち4人はさっそく次の実行委員会で実行委員諸君にはかった。  

眉村卓の異世界通信

2021年07月17日 | SFやで
 眉村卓の異世界通信刊行委員会

 この11月で眉村卓さんの三回忌となる。2019年11月3日。その日は星群の面々と国立民族学博物館へ「驚異と怪異」展を見に行く。さて出かけようかとしていたら、眉村さんご逝去の報を受ける。入院され病状は良くないと聞いてはいたから、覚悟はしていたが、大きな喪質感を感じたまま民博へ。道中で何人かへ訃報を拡散する。
 11月9日。眉村卓さんご葬儀に出席する。友人、知人の多くと会う。久しぶりの人も多い。何人かと精進落としの飲み会をする。
 あけて2020年になった。「眉村卓を偲ぶ会」をやらなあかんなという話が出てくるのが、自然の流れである。で、一度打ち合わせのために集まろうということになった。2020年1月18日、大阪は谷町の創作サポートセンターに6人が集まった。もうこのころはコロナ騒動は始まっていた。一周忌の2020年の11月にイベントを行うのは不可能との判断をこの時の6人はした。目標として三回忌にイベントを行い、その時参加者に配布する小冊子を制作しようよいうことになった。
 そのごコロナ禍は、ご存知のごとく拡大。リアルな打ち合わせはできなくなり、ZOOMで打ち合わせを重ね、イベント開催から追悼本発刊に方向転換。そして本年の6月30日に発刊となった。そういうわけで小生も、少しお手伝いさせて頂いたのである。
 眉村さんとは長年ご厚誼をいただいた。創作に関する教えも賜ったこともあまたある。
「小説のキャラクターは真球を創らなくてはいけない。読者に見せるのは半球でも、作者はキャラクターを真球として扱わなくてはいけない」と、いうことも教えていただいた。
 この本の執筆者は65人。プラス関西在住の作家二人、眉村さんのコピーライター時代の同僚。総勢68人が眉村卓という作家を語っている。68台のカメラで眉村さんを映している。まさに真球の眉村さんだ。これほど立体的に追悼対象者を表現した追悼本はないだろう。

 この本はオンデマンド出版です。ご購入はこちらから。


第25回日本SF大会顛末記 その2

2020年08月29日 | SFやで
 とにもかくにも第25回日本SF大会DAICON5は動き出した。週に1回は大阪は梅田の喫茶店ホワイトローズで実行委員会をやっていた。メンバーもだいぶん増えてきた。女性の委員も増えてきた。その中には、のちに日本SFファングループ連合会議議長となり、SFファンとしては位人臣を極めた、みいめさんこと田中紀子(現牧紀子)もいた。ちなみにSF大会が開催されたところではSFファン同士の夫婦が多くできるといわれる。当然だろう、数年にわたって健康な(健康の定義はさまざまであるが)男女が同じ目標に向かって活動しているのである。DAICON5終了後の関西でもSFファン同士のご夫婦が何組も誕生したのである。
 小生、星群祭の実行委員長は経験があるが、日本SF大会のような1000人規模の大きなイベントの経験はない。DC5実行委員会の委員には、第14回日本SF大会の実行委員長だった清水宏佑や実行委員の岡本俊弥、DAICON3の実行委員の山根啓史など、何人か経験者はいたが、DC5実行委員会の委員のほとんどは日本SF大会をやったことのない者がほとんどである。
 こういう時は先達に相談するのが一番である。日本のSFファンダムの最も偉大なジェダイマスターともいうべき大先達は、いうまでもなく柴野拓美先生である。柴野先生は星群祭には毎年ゲストで来ていただいていたから、小生は以前より懇意にしていただいていたが、日本SF大会を関西で行うことになったとは、この時点で柴野先生のお耳に入れていなかった。もちろん、柴野先生は北海道でのSF大会内でのSFファングループ連合会議で次々回日本SF大会の開催地が大阪になったことはご存じだろう。ここは早急に私たち実行委員が柴野先生に直接ごあいさつする必要があるわけだ。
 実行委員の山根、沖田郁夫、清水、小生の4人で柴野先生宅に行くこととなった。4人で頭割りすれば新幹線や高速バスより安いだろうと判断してレンタカーで行くこととなった。小生が近くのレンタカー屋でスカイラインを借りて、名神東名と走って沖田の東京の自宅に到着したのは、確か深夜だったと記憶する。それからちょっとだけ仮眠して、神奈川県二宮の柴野先生のお宅へ向かう。柴野先生はいつものとおりのニコニコ顔で出迎えてくださった。大阪でSF大会を開催するというと、たいへんに喜んで、激励してくださった。そして柴野先生から、ある提案がなされた。

第25回日本SF大会の顛末記

2020年04月29日 | SFやで
 と、いうわけで第25回日本SF大会DAICON5は動き出した。当初の実行委員会の人数は20人ほど。日本SF大会は参加者1000人を超える大きなイベントである。とてもこの人数ではできない。実行委員会としてまずやるべきことは委員の人数を増やすこと。最低100人は欲しい。
 当初の中心メンバーは、姫路で同人誌「S&F」を主宰し星群の会員でもある山根啓史、京大SF研で現東京創元社編集部の小浜徹也、菅浩江と同じく子供のころからの星群会員で今は三村美衣の高橋章子、第14回日本SF大会SHINCON実行委員長の清水宏佑、元神大SF研で神大四天王の一人岡本俊弥、そして小生である。
 よくしたもので、メンバーはだんだん増えていった。何回かホワイトローズで会合を重ねるうちに、出席者数はだんだんと増えていった。
 このころは、小生たちが主催する日本SF大会で、この時点で決まっていたことは、1986年に大阪でSF大会をやる。これだけである。あとは何も決まっていない。それをこれから決めていこうというわけである。
 まず、どういう日本SF大会を、やるか/やりたいか/できるか。で、ある。
そもそも第25回日本SF大会を大阪でやるきっかけは「ゼネプロうっとしいな」という小生のひとことだった。
 ゼネプロ=ゼネラル・プロダクツ。大阪は桃谷に店を構えていたSF関連専門のギフトショップである。小生がなぜ、なぜ上記のごとき言葉をはいたのか。なぜ小生がゼネプロを嫌っているのかは、ここに書いたので、ここでは繰り返さない。
 大阪でやるSF大会だからダイコンという。大阪のダイとコンベンションのコンでダイコンというわけ。
 最初の大阪でのSF大会は、1964年の第3回日本SF大会DAICONで実行委員長は筒井康隆氏だ。2回目の大阪でのSF大会は1971年の第10回日本SF大会DAICON2だ。このDAICON2の実行委員長は悠々遊さん。そして1981年DAICOM3と1984年DAICON4がいわゆるゼネプロ一味がやった大阪でのSF大会である。DAICONという大阪でのSF大会の愛称は連中だけのものではない。それなのに彼らは、自分たちの自主映画を創るグループをダイコンフィルムなどど称していた。われわれが第25回SF大会の事務局を設置した時、連中のファンと思われる若いのから「ダイコンという名前を使わないで」と電話があった。何度もいうDAICONはゼネプロ一味だけのモノではない。

嗚呼。SFマガジン

2019年10月30日 | SFやで
 小生にはコレクションの趣味はない。モノを集めるということにあまり興味がない。だいいち、ウチはうさぎ小屋マンションなので置き場所がない。小生がゆいいつ集めてるモノといえば上方落語のコレクションぐらいだ。落語会に行った時に買ってきたものもあるが、ほとんどがテレビ放映された落語を録画したモノだ。DVDに収めてあるから場所は取らない。特にブルーレイになって記憶容量が大きくなったから、落語50席ぐらいは入る。
 小生の同好の士であるSFファンには本を大量に保存している人もいる。水鏡子先生のように2000万円かけて書庫を作った人もいる。小生は原則として読む本しか買わない。読んだ本で本棚がいっぱいになれば処分する。
 そんな小生でもSFマガジンは保存している。小生が初めて買ったSFマガジンは1967年9月号だ。それから増刊号も含めて最新号2019年12月号まで1号も欠かさず持っていた。本棚には入らないからボテ箱に詰め込んである。そのボテ箱が6箱ほど。このボテ箱、小生にとっては思い出がつまった箱であるが、そうでない者にとってはじゃまなだけである。そこで思い切って処分することにした。
 星群の会ホームページで「SFマガジン思い出帳」を連載している。最新で1978年9月号まで取り上げた。それ以降の号はこの連載のため読む必要がある。それ以前の号はもう読むことはない。そこで1978年9月号以前を処分することにした。知人に古書店をやっている人がいるので、その人に引き取ってもらおうと算段して、休日を1日費やして古いSFマガジンの総点検をやった。保存状態が極めて悪いことが判明。これじゃ、その古書店に持ち込んでも迷惑なだけだと判断して、古紙回収に出した。もちろん、創刊号と思い出深い1967年9月号とそのあとの10号分は残してある。思えば、これらのSFマガジンを読んでいる時が、小生の長いSFマガジン読書歴の中で最も楽しい時期であった。
 ボテ箱が1箱だけ空になった。残った5箱もいずれどうにかしなければならない。
 小生の人生の大きな区切りをつけた気分である。すっきりしたような、さみしいような、複雑な思いである。