ごろりんブログ

雫石鉄也のブログ

友だちを待つ

2024年08月27日 | 作品を書いたで
のどがかわいた。公園の自販機でコーラを買おうとしたら、財布から百円玉がこぼれ落ちた。
 コロコロとベンチの方へ転がって行った。ベンチには八十近いおじいさんが一人で座っている。拾ってくれた。だれかを待っているようだ。
「ありがとうございます」
 少し休憩していこう。午前中にもう一軒取引先に行かなくては。
「ここいいですか」
「どうぞ」
買ったコーラを持ってベンチのおじいさんの隣に座る。ひと口飲んだらホッとした。
「営業ですか」
 おじいさんが話しかけてきた。
「はい」
「ご苦労ですね。私も元営業マンです」
「そうですか」
 話し好きの人のようだ。年寄りにありがちな偏屈さがなく、人当たりがやわらかなお年よりのようだ。
「何を扱っておられるんですか」
初対面の人間に立ち入ったことを聞いてくると思ったが、このおじいさんは不思議な人徳をもっているようだ。
「フォークリフトを売ってます」
「そうですか、私は工作機械を営業してました」
 現役時代の苦労話をひとわたり聞かせてくれた。
 ハッと気がつくと三〇分ほど経っていた。
「あ、いかん」
 急がないと、約束の時間に遅れる。
「それじゃ、行きます」
「気をつけてな。商談成功を祈ってますよ」
「ところでここで何をされているのですか」
 間の抜けた質問だが、おじいさんに聞いた。
「友だちを待っているんです」
 商談は半分成功した。見積もり書を出してくれという。手ごたえはあった。見積もり金額の譲歩額は、私の一存でかなりの値引きを上司は認めている。
 うまくいった。見積もり書の内容で受注した。
 ウキウキ気分で運転していると、あの公園の前を通った。ベンチで、あのおじいさんが一人でポツンと座っている。なんだかさみしそう。友だちは来ないのだろうか。この後は会社に帰って、三トンのフォークリフトを受注したことを上司に報告するだけだ。時間はある。コインパーキングに車を停めて、自販機で缶コーヒーを二本買った。
「いいですか」
「どうぞ」
「缶コーヒーどうぞ」
「ありがとうございます」
「こないだの仕事、おかげさまで、うまく行きました」
「それは良かったですね」
 しばらく会話を楽しんで別れた。
 あの客先の担当者が新規の見込み客を紹介してくれた。倉庫会社が四トンのフォークを入れたいとのこと。
 カタログを持って訪問する。先日の客先にお礼をいって行こうと思う。あの公園の前を通ると、また、あのおじいさんがいつものベンチに一人で座っている。
 新規の客先との約束の時間まで、あと一時間ほどある。喫茶店にでも入って時間をつぶそうと思っていた。
おじいさんが気になる。となりに座る。
「やあ。営業ですか」
「はい。ところでお友だちは来ましたか」
「まだです」
 これで、この人と会うのは三度目だ。この人は、ずっとここで友だちを待っているのだろうか。
「よほど大切なお友だちなんですね。どんな人ですか」
 立ち入った質問で気が引けたが、興味がかった。
「私は、若いころから友だちは少なかった。でも一人だけ親友といえる人がいる。ここで待ってればその友だちと会えそうな気がするんです」
「どんな人ですか」
「いい人です」
「その人と会えればいいですね」
 そういうと私はベンチを立った。
 新規の客から四トンのフォークリフトを受注した。今日も、おじいさんがベンチに座っている。
「こんにちは。お友だちとは会えましたか」
「今、会ってます」
「え」
「あなたが友だちです」
 

終着駅

2024年01月25日 | 作品を書いたで
 顧客を交えた会議が午後六時半までかかった。その後近くの料亭で接待。そのあとバーで二次会。ホテルに客を送っていく。
 ホテルを出たのは十一時をすぎてからだ。
 最終電車は十一時十五分。走れば間に合う。全力疾走して改札を駆け抜け、エスカレーターを駆け上がったとき、電車が滑り込んできた。十一時四十五分に自宅最寄り駅に着く。自宅は駅から十五分。急いで帰れば「今日」中に家に帰れるはずだった。

 最終電車にはそこそこ乗客はいた。
 座席の中ほどに座った。つかれた。うとうとする。三駅分。三十分は眠れる。ドスン。隣りに勢いよく座った者がいた。ウトウトしかけたのがハッと目が覚めた。
 中年の男が座っていた。静かに座れと文句をいってやろうと思ったが、ケンカになったらイヤだから黙っていた。
 ハー。大きなため息をして肩を落とした。なんだか疲れているようだ。同年配の男だ。スーツにネクタイ。営業職だろうか。ご同業と見た。
 スマホを出して、しばらくいじっていたが、すぐポケットにしまった.スマホを触る気力もないみたいだ。こくりこくりと居眠りを始めた。そのうちぐっすりと熟睡した。盛大に白河夜船だ。
 よほど疲れていたのだろう。がっくりと前に首を折り、左右にゆれだした。
 帰りの電車だ。きょう一日をふり返った。午前中は部下と二人で得意先を訪問。注文を受けたモノの納品日を部下が読み違い、相手先の希望納期と大きな違いが出た。謝罪と仕入れ先と納期短縮交渉を行うことを約束する。
 そこを辞去し、二人でファミレスで昼食。その足で隣県の仕入れ先まで移動。相手の工場長と談判。なんとか納期を一週間短縮してもらう。そのムネを部下に連絡させる。得意先は納得したようだ。
 会社に帰ったのは午後四時。四時半には顧客が来社。その顧客を交えて会議。会議はえんえんと続いた。途中退席し、総務の女子社員に顧客宿泊用のホテルの予約を指示。接待用料亭は予約ずみだ。
 会議は六時半に終わった。そのあと料亭で接待。二次会はバーでスコッチのシングルモルト。客をホテルに送っていって、やっと解放された。
  そして、私は、いま、この最終電車に乗っているというわけだ。
 そういうわけで私もたいへんに疲れている。したたか酔ってもいる。ぐるり電車の中をながめる。全員が座っている。本を読んでいる者はいない。数人がスマホをいじっている。ほとんどが座席にぐったりと腰かけて目を閉じている。みんな疲れているんだな。
 隣りに座った男は、居眠りというレベルではない。ぐっすりと熟睡している。
 私の肩に頭をもたれかけてきた。押し返そうと思ったがやめた。ずいぶん疲れているようだ。私の肩を自宅の枕と思って眠っているのだろう。平安な顔をして安心しきって目を閉じている。
お疲れのご様子だな。ご同輩。そういいたくなった。この人も私と同じ、仕事で疲れているんだ。
 おこすのが気の毒になってきた。このままにしておこう。私の肩でよければ疲れを癒やすのに使ってもらっていい。
 一駅めに電車は着いた。この人はここで降りるのだろうか。もしそうなら起こしてやるのが親切だ。
 起こしてやるべきか。私の肩でじつに気持ちよさそうに熟睡している。起こすのは気の毒だ。この人がどの駅で降りるのか私には判らない。ねすごしたとしても私の責任ではないだろう。
 疲れている時の電車での居眠りほど快楽なモノはない。できればこのままずっと、ここでねこんでいたい。環状線でないかぎり電車は必ず止まる。そこではイヤでも電車を降りなくてはならない。
 一駅目、二駅目も過ぎた。次は私が降りる駅だ。
 となりの頭はまだ私の肩にある。降りるためには起こさなくてはならない。
 線路ばたのパチンコ屋の看板が見えてきた。今はネオンを消しているが、目立つ看板だから夜目にもよく判る。この看板を目安にしていて、二駅目から私の降りる駅のちょうど中間地点だ。あと数分で電車は到着する。いつもは読んでいる本にしおりを挟んで閉じてバックにしまう。
 いまは本は読んでいない。読む気力はない。私も疲れているのだ。尻を座席からはなしたくない。できれば私の身体全体が座席に吸いこまれたい。
 電車は進む。ほどなく私が降りるべき駅だ。さて、どうする。 私が降りるにはお隣さんを起こさなければならない。気の毒だ。それに私自身も可能ならば、このままここに座っていたい。
 どうする。車掌がほどなく私が降りる駅に到着するアナウンスをした。電車が減速しはじめた。
 ええい。こいつが起きるまで肩貸してやろう。どこで降りるのか知らないが、こうなりゃ最後までつきあってやるぞ。
 はっと気がついた。私もねこんでしまったようだ。まだ肩に重みがある。
 ここはどこだ。見知らぬ駅だ。終着駅か。この路線の電車は毎日乗っているが、終着駅まで来たことはない。いや、違う。一度だけ来たことがあった。今から数年前の冬だ。忘年会で飲み過ぎた。ぐでんぐでんになって、電車の中で酔いつぶれてしまった。ハッと気がついたら終点だった。酔眼朦朧とした目で見た終着駅の風景をうっすら覚えている。
 この駅はあの時の駅とは少し違うような気がする。いまは、疲れているが酔ってはいない。アルコールは入っているが酔ってはいない。しらふの目で駅を見る。
 隣りの男も目覚めたようだ。
「ご迷惑をかけたようですね。すみませんです」
「いえ。あなたはどこで降りるのだったのですか」
「芦山です」
 私が降りる駅だ。
「どうも、降りそこなったようですね。おたがい」
 電車の中を見る。この車両に六人乗っている。みんな乗り過ごしたようだ。この六人、私、隣の男。十六個の目がキョトキョトしている。
「ここはどこだ」
「終点じゃないのか」
「この電車の終点は梅沢じゃないのか。俺は梅沢は用事でよく来るがこんな駅じゃないぞ」
 そういえばおかしい。終着まで乗っている客がいれば車掌が降ろしに来るがはずが、来ない。駅のホームには駅員が一人もいない。
「おい、あれ」
 隣の男が指差した。駅名表示盤が見える。
「なんだあれは」

「昨夜深夜。 十二時三分。G電鉄梅沢行き最終電車が脱線転覆。乗客八名と乗員二名全員が死亡しました」




サラダとごはん

2023年12月29日 | 作品を書いたで
 思いのほか時間をくってしまった。あんなにあの商談が長引くとは思ってなかった。午後はあともう一件訪問しなくては。そこは納品の日取りを決めるだけだから簡単にすむだろう。でも約束の時間まであとわずか。
 もう午後二時だ。腹が減った。手早く昼食をすまそう。ちょうどそこに牛丼屋がある。どこにでもあるチェーン店のミナミ屋だ。ここでちゃっちゃと食えば、余裕で間に合うだろう。
 カウンターに座る。私のあとから来た親子が隣に座った。
「牛丼の並み」
 三分ほどで牛丼が前に置かれた。
「サラダとごはんください」
 隣の親子が注文した。
 え、牛丼屋でサラダとごはんだけ?少し驚いた。
 母親は三〇代だろう。上品でなかなかの美人。金のかかってそうな服装だ。イヤリング、指輪といった装身具も派手ではなくセンスの良さをかんじさせる。
 子供は女の子で一〇才ぐらい。母親の遺伝子を濃く受け継いでいるようだ。有名な高級ブランドの子供服を着ている。
 ふたりで一杯のごはんと一皿のサラダを分け合って食べている。
「おいしいね」
 仲の良い親子のようだ。
 私の方が先に食べ終わった。時間がない。さっさと店を出る。車は少し離れた駐車場に駐めてある。そこへ歩いて行くあいだ、頭の周りには盛んに?が飛び交っている。あの親子のことだ。ごはんとサラダだけ。不思議だ。私自身、かような牛丼チェーンでよく昼食を食べるが、いつも牛丼一杯だけ。他のモノなど食べたことがない。
 社用車にキーを入れる。隣はえらい高級車だ。ドアを開けるとき気をつけよう。キズでも付けて弁償させられたら、とんでもない修理代がかかりそうだ。
 その高級車の主がやってきた。あの親子だった。「ごめんあそばせ」そう声をかけて母親が運転席に座った。音もなく走り去った。不思議な親子だ。
 一週間たった。あの時、商談して受注した製品の納品だ。約束の時間は午後二時。駐車場に降りる。ほとんどの社用車は出払っている。重役専用車が二台残っていた。秘書課に電話する。専務と社長が社内にいるそうだが、外出の予定はない。車を使っていいとのこと。
 商品をトランクに入れ、運転席に座る。納品先の電話番号をナビに入力。これで車は自動で目的地まで走る。
 少し走る。そういえば昼飯がまだだった。会社を出ようとしたら、課長に呼び止められて、来週に出張するようにいわれた。来週は見積もりの提出が三件と、納品が二件ある。特に見積もりの二件は他社との合い見積もりで、それなりに見積もりを出さねば、その注文は他社に行く。
 課長と話し合い、出張は課長自身が行くことになった。
 ハラがへった。あの牛丼屋が見てきた。一週間前もここで牛丼を食った。また牛丼というのも芸がないが、私は外出時の昼食はハラさえふくれればいいという考えだ。会社にいるときはどこに行くか考えるが。
 自動運転をオフにしてハンドルを握る。牛丼屋の駐車場に車を入れる。あとは駐車場の誘導システムが自動で空きスペースに車を入れてくれる。
 私の車が駐まった隣のスペースは外国の高級車だ。たしか、この車、見た記憶がある。思い出した。一週間前、この牛丼屋で見かけた親子の車だ。
 店に入る。あの親子がいた。今日は何を食べるのだろう。
 もちろん、その親子は私の家族ではない。
だから何を食べようと、当方のあずかり知らぬことだが、気になるのは事実だ。
 カウンターの椅子に座る。牛丼を注文する。親子はテーブル席にいる。注文した料理を待っているらしい。
 ウェイトレスが親子の席に料理を運んできた。ご飯が一膳とサラダが一皿だ。お金に困っているようには見えない親子だ。それがなぜ昼食がご飯一膳とサラダ一皿なんだ。
 人の昼メシを気にする。上品とはいえない。私の前に牛丼が置かれた。私には仕事がある。人のメシを気にする時間があるのなら、とっととこの牛丼を食って得意先に納品に行くべし。そう自分が私を叱っている。
 昼食をすませて車に戻る。自動運転をオン。目的地をカーナビにセット。三〇分足らずのドライブとなる。いつもは営業用ワゴンに乗っているが、重役用のセダンはさすがに乗りごごちがいい。この車は社長専用車だ。
 ん。スマホが着信音を鳴らした。いや違う。車のスピーカー鳴っている。この車の専用電話が受信している。
 携帯電話スマホの普及で絶滅した自動車電話だが、ハンズフリー機能がついた自動車電話が増えてきた。
「はい」
 返事をすれば電話が認識して電話機能をオンにする。
「パパ」
 女の子の声がする。
「後ろを走っているのはパパですか」
 ディスプレイに幼い女の子の顔が写った。その横に母親と思われる女性が写っている。
 この親子。あの親子だ。牛丼屋でご飯とサラダだけを食べる、あの親子だ。そういえば、前を走るのは、牛丼屋の駐車場にいた高級車だ。社長専用車に向かって「パパ」と電話かけてくる、あの子は社長の娘か。
「ママ、パパじゃない人がパパの車に乗ってる」
 こちらの顔も、相手の車のディスプレイにも写っているわけだ。
「すみません。営業の者ですが、社長専用車を借りてます」
「こちらこそ、娘が遊びの電話して申しわけありません」
「いえ。かわいいお嬢さんですね」
「お願いがあります」
「はい。なんでしょう」
「私と娘の昼食のことなんです」
 あのご飯とサラダだけのことだ。確かに昼食としては、いささか貧弱だ。
「私と娘があんな昼食を食べていることをないしょにしておいてください」
「どういうことでしょう」
「会社が苦しいことをご存じでしょう」
 この業界は競争が厳しい。外国のメーカーとの競争。国内にも同業者が多い。わが社は業界シュア四位だ。生き残りに必死なのだ。社内では経費節減が至上命令だ。
「主人は自分の給料を大幅に下げています」
 私たち社員の給料は、わずかだが毎年昇給している。
「判りました。奥様とお嬢さんの昼食のことはだれにいいません」
 社長の家族があんなにカネに困っているような会社はあぶないんじゃないか。そう取引先に思われると営業活動がしにくくなる。
 あの社長、因業社長と思ってたけど、けっこういい社長なんだな。

「びっくりしたで」
 トイレで隣りに立った営業課の同僚が話しかけてきた。
「きょうな、会社の車がみんな使ってて、社長専用車しかあいてなくて、それで営業に出たんや」
「あ、オレも一昨日社長専用車で納品にいったぞ」
「昼メシにそば屋に入ってん」
「ふうん。お前はそば屋かオレは牛丼屋やった」
「親子が一杯のかけそばを食べとる」
 似たような話だな。
「金持ちそうな親子やったけど、一番安いかけそばを二人で一杯を分けおうて食っとる。なんかおかしいと思ったわ」
「ふうん」
「それがびっくりで、社長の奥さんと娘さんやったんや。社長自分の給料下げてんねんて」
 それから会社の業績は上がった。自分の身を切る社長のもとで社員が一丸となってがんばったのだろう。

「今日はどこで昼食した」
「おにぎり屋で一個のおにぎりを二人で食べたわ」
「そうか。夕食はフランス料理だ」
「ごめんください」
「お、来た。フレンチの名店シェ・イノから井上シェフに来てもろて夕食つくってもらうんや」

 
                   




40年の約束

2023年10月27日 | 作品を書いたで
四〇年という歳月が長いのか短いのか私には判らない。短かったような気もするし長かったような気もする。ただ、この会社に入社して四〇年経ったことはまぎれもない事実だ。
 総務部庶務課営繕係。それが私の役職名だ。肩書はない。四〇年も勤めて主任補佐にさえなれなかったのは、会社創立以来私だけだそうだ。
 総務部の片隅に古ぼけた机が置いてある。それが私の机だ。午前八時四十五分に出社して、ロッカールームで着替えて八時五〇分に机に着く。九時の始業と同時に仕事を始める。十二時ちょうどに給湯室に行ってマグカップにお茶を入れる。家を出る前に自分で作った弁当を食べる。たいていはごはん、梅干し、卵焼き、魚の缶詰という弁当だ。変化があるのは魚の缶詰がサンマの蒲焼になるかサバの味噌煮あるいはシーチキンになるかだ。
 弁当を食べ終わると、文庫本を読む。時代劇が多い。数ページ読むと眠くなってくる。机につっぷして眠る。午後の始業一時のチャイムで眼を覚ます。
 午後の仕事を始める。三時に十五分休憩。午後四時四十五分まで自席で仕事。こんをつめて仕事をしているから、腰がこわばり眼がチラチラする。目薬をさして、う~んと腰を伸ばして、立ち上がり、今日の仕事の成果を社長室に持って行って社長に手渡す。これで私の一日の仕事は終わる。まっすぐ帰宅。どこにも寄らない。帰りしなの「ちょっと一杯」に私を誘う人はいない。この会社で私に接触する人はいない。

 初出社の日は雨が降っていた。会社の最寄り駅の改札を出る時、前のヤツが傘を水平に持っていた。普通なら後ろの人を気遣って傘は縦に持つものだ。そやつは普通じゃない男だった。その時、そんな男の持つ傘が私の胸を突いたのが、その後の私の四〇年を決めた。
「おい。そんな傘の持ち方すんな。危ないぞ」
「ごめんちゃい」
 そのときヤツが「すみません」といっておれば事なきを得た。人をからかったあやまり方にカチンときた私は「なんだ、それはちゃんとあやまれ」
 つかみ合いになった。駅員がとめてくれた。むかむかしながら会社に着くと入社式の十五分前だった。司会の総務部長が壇上に立った。
「みなさん。入社おめでとう。わが社も今日から新社長が就任します」
 なんでも前社長の息子で親父は会長となり息子が社長となるのだ。ちなみに壇上の総務部長も前社長の息子で新社長の弟だ。
 新社長が出てきた。びっくり。あの傘で私を突いた男だ。私と目が合った。
 私に渡された辞令は営業部所属となっていた。課長にいわれた席に座っていると。秘書課の女性が呼びに来た。
「社長がおよびです」
 あの男がいた。
「けさはどうも。いつもはベンツで通勤するのだが、あいにく故障でね。電車で通勤したらきみとあんなことになったんだ」
 入社式当日にクビかと思った。
「で、私に土下座でもさせたいんか。きみは」
「いえ。土下座なんかして欲しくありません。あんな傘の持ち方をこれからはしなければいんです」
「そうか。きみは営業だったね。それは取り消し。きみには総務に行ってもらう。そこで私がいう仕事を定年までやってくれたら、土下座して傘は必ず縦に持ちますというよ」
 ここでスイッチが入った。意地でもこんなヤツに負けるか。ヤツは創業家に生まれたというだけで社長。私は三流私大卒でやっとこんな会社に入れた。
「約束できますか」
「約束する。一筆書いておく。きみが定年の日に私がいう仕事を完成しておれば、その通りしよう」
 そういうと書類にサインして金庫にしまった。
 ヤツのいう仕事。鉛筆を削る。一日に百本定年の四十年後までに一万二千本の鉛筆を削ること。それが私の仕事だ。それ以外の仕事をしてはいけない。
 総務部に着任した日に一万二千本の鉛筆が納品された。朝、倉庫からその日に削る鉛筆を持ってくる。だいたい百本。八十本のときもあるし百五十本の時もある。一日中、鉛筆を削る。私の社長の関係はみな知っているからだれも私に寄りつかない。

「社長、私、定年です。これが一万二千本目の鉛筆です」
「そうか」
 そういうと社長は土下座した。
「もう傘は横にもちません」

あと二つ

2023年09月28日 | 作品を書いたで
「阪神タイガース18年ぶりの優勝」大見出しのスポーツ新聞を横に置いた。
「マスター、いま、なん時」
「7時57分です」
 中山が鏑木に聞いた。
「スマホのバッテリーが切れてしまって」
 中山は人を待っている。約束は午後8時だ。あと3分。その人は遅刻するような人ではない。
 入口のカウベルが鳴った。年配の男が入ってきた。70代の老人に見える。こちらに歩いてきた。足どりはしっかりしている。
「お久しぶりです。中山さん」
 老人が中山の隣に座った。
「中山さん、なにをお飲みになる」
「なんでもいいですよ」
「マスター。マッカランの12年を中山さんに」
「そんな上等のスコッチを」
「いいんです。中山さんは私の大恩人です」
「大恩人だなんて。もう松井さんには充分お返しはもらってます」

 阪神タイガース日本一。駅の切符売り場横の売店に並んでいるスポーツ新聞の大見出しは各紙同じだ。中山は学割定期が切れているのをすっかり忘れていた。切符買うのもめんどうだから講義をさぼってやろうかと考えた。あ、いかん。あの先生は試験より出席を重視する。大学まで行かなくっちゃ。切符をかおうとすると、隣の販売機の前の男が困っている様子だ。
「どうしました」
「Nまで行かなくてはいかんのですが。財布を落としたらしく」
「ぼくもNの大学に行くんです。切符、おじさんの分まで買いましょうか」
  男は少し考えた。決断したようだ。
「お願いします」
 そこから特急で一駅。二人はN駅の改札を出たところで別れた。あれから38年たった。

「あの時、電車の中で約束しましたね。ご恩は三つの願いを叶えることでお返ししますと」
 松井は、あの時、立ち上げたばかりの会社が危機だった。約束の時間までNの取引先まで駆けつけたことで会社は救われた。
「学費未納で大学を除籍になりかけていました。松井さんが学費を立て替えて下さったおかげで私は卒業できました」
「あなたががんばったからです」
「電車の切符を買っただけなんですが」
「金額の多寡ではありません」
 大学を卒業した中山は北海道の大学の大学院を修了し研究者の道を志望した。しかし、大学に席はなく、北海道の企業に就職した。松井は自分の会社に誘ったが中山は断った。たかが電車の切符を1枚立て替えただけで。そこまでしてもらうことはない。大学の学費を出してもらえただけで充分。松井も中山のその意志を尊重した。
 二人の交流は年賀状のやりとりだけになった。それから長い月日が経った。

「私も70になりました。10年前に社長を辞めて会長になりました。その会長も一ヶ月前に退任し、いまはまったく無役です。私は自分の人生に後悔はありません。会社は大きくなりおかげさまで家庭も円満。なんの心残りはないのですが、ひとつだけ、いやふたつか、あなたへの恩があと二つかえしていない。お願いします。私の人生を完結させてください」
 真剣な松井の訴えを聞いて中山はうなずいた。
「わかりました。では、あの時の電車賃を返してください」
「マスター、お願い。38年前のH電車UからNまでの電車賃いくらぐらいでしょう」
「ちょっとお待ちください」
 鏑木が奥のノートパソコンの前に座った。
「220円です」
 松井が100円玉2個と10円玉2個を中山に渡した。
「どうもありがとうございました」
「確かに」
 中山が財布にしまった。
「あとひとつは?」
「マッカランをもう1杯」 



二十八年

2023年07月25日 | 作品を書いたで
 あの人は?間違いない。主人だ。あれから二十八年経った。六十歳になっているはず。生きていたんだ。二十八年もどこでどうしていたのか?聞きたいことは山ほどある。どんな事情があったんだ。でも、もういいんだ。あの人がこの世にいてくれるだけで私は満足なんだ。
 そういういえばあの人、ここ数日、このあたりで見かける。よく似た人だなあと思っていた。うすいもやもやが頭にかかっていたが、いま、それが晴れた。あの人も私のことが気にかかるんだ。様子を見に来たんだ。二十八年もたってから。
 こっちを見ている。視線が合った。こっちに歩いてくる。さあ、どうしてやろう。抱きついて泣くか。胸に飛び込んで拳でたたいて怒る。知らん顔して無視する。もし声をかけてきたら「どちらさまですか」いきなりグーで顔面にパンチを入れるというのもいいかもしれない。
 なんでもいい。二十八年間たまりにたまったモノをはき出してやるんだ。私はこんなんになってしまったけど、あの人を待ち続けた二十八年だった。

 一月の未明のことだった。とつぜん下から何かが突き上げた。地下に巨人がいて大きな丸太で、下からドンと突き上げたようだ。何が起こったのか判らなかった。ガタガタと激しく上下に揺れ出した。地震だと判った。ゆっさゆっさと横に揺さぶられるのではなく、大きなピストンの上に乗せられているようだ。
 なかなか振動がおさまらない。ものすごく大きな地震だ。揺れはとつぜん止まった。シーンと静寂があたりを包んだ。光がまったくない。なにか大きなモノがすぐ目の前にある。それが何であるか判らない。粘性のある液体が手についた。なんだろう。臭いをかぎたいが手が動かない。
 主人を呼ぼう。声がでない。シーンとしていたが人の声が外から聞こえる。叫び声、ガヤガヤという声。ともかく外に出たい。身体が動かない。どうも家がつぶれて生き埋めになったみたいだ。
 うすく光が見えてきた。背中の下にごろごろしたモノがある。何かの上に寝ているようだ。
「人がここで生き埋めになっとる。手をかしてくれ」
「生きてるか」
「判らん。若い女の人だ」
 私を圧迫していたモノが取り除かれた。ずるずると何人かの手で私は引きずり出された。寒い冬の地面に寝かされた。不思議に冷たいとは感じなかった。
 マグニチュード七・三最大震度七の大地震であった。死者は七千人。あれから二十八年経ったが行方不明者がまだ三人いる。私の主人もそのうちに一人だ。
 わが家は全壊した。私は近所の人たちの手で瓦礫の中から引き出されたが、夫の姿はなかった。全壊した家の下敷きになっているかもしれない。近所の人や自衛隊や警察が探してくれたが見つからない。夫がどんな状態になっていても会いたい。結局、夫はどこにもいなかった。
 瓦礫は片付けられ、家があった所は更地になった。遺体は発見されなかった。
 こう考えるようになった。なんらかの理由で夫は私のもとを離れたかった。そこに地震が起こった。震災の混乱にまぎれて夫はこの地を離れた。
夫が行ってしまった理由は私には判らない。外に女がいた可能性は夫にかぎってないだろう。きまじめ実直を絵に描いたような人だ。会社のお金に手をつけた。考えられない。第一主人は技術部門の人だ。経理や営業ではない。こういうことも考えた。主人は大きな災害に遭遇してショックを受け記憶喪失になってしまった。私を忘れ家を忘れ仕事を忘れて、どこかへ行ってしまったのだ。
 決めた。私はここで待とう。きっとここに帰ってくる。
 あと一年だけ待とう。毎年冬になるたびにそう思っていた。それが二十八回続いた。
 こっちに来る。還暦の男としてはゆっくりした足取りだ。七十ぐらいに見える。頭はすっかり白くなっている。二十八年前の面影が残っている。
 
 なつかしい。二十八年ぶりに故郷に戻ってきた。この地での想い出は楽しいことしかない。妻と結婚して三年ここで暮らした。小さな建売住宅であったが、私のスィートホームであった。
 あの日までは。
 とつぜん家が壊れた。天井が落ちてきた。なにかが頭を強打した。
 暗い広いところで気がついた。まわりには寝ている人がたくさんいる。人がたくさんいるが、人の気配がしない。
 これだけの人が寝ているのなら、いびきとか歯ぎしり、それに呼吸しているのだから、なにかの気配があるはずだ。
 ここはどこだろう。もうろうとしていた意識が戻ってきた。意識がはっきりとしてくるとともに、暗かったまわりに薄く光がでてきた。
 どうも体育館のような所に私は寝かされている。隣りで寝ている人を見る。おばあさんだ。七十は超えているだろう。顔色が普通ではない。くちびるが紫色だ。息をしていない。
死んでいる。そのおばあさんは死体だ。
 身体が動くようになった。上体をおこして周りを見る。ここは死体置き場だ。なにが起きたんだ。
「お、あの人生きてるぞ」
 どやどやと人がやって来た。医師と思われる人が診察した。
「骨折はしてない。脳しんとうをおこしたらしい。吐き気はしますか」
 吐き気はない。
「だいじょうぶだと思いますが、しばらく安静にしてください」 
 そういうと医師は去って行った。
 少し頭がフラフラするが、家を見に行った。ぺしゃんこになっていた。自衛隊が瓦礫を片付けていた。
「おーい。人が生き埋めになってるぞ」
 妻だ。夢中で駆け寄る。
「あぶない。下がって」
「私はこの家のもんです。妻です」
 
 家があった場所は更地になった。私はそこに妻の成仏を祈って小さな石仏をまつった。
 この土地にいるのが辛くてここを離れた。二十八年経った。石仏に手を合わせる。
「帰ったよ。待たせてごめん」
 

お楽しみスイッチ

2023年06月23日 | 作品を書いたで
「はい。オサダ電機お客さま相談室です」
「はい。シャツのボタンが。はい。それはあってはいけないことです。ただちにサービスの者を修理にうかがわせます」
「はい。オサダ電機お客さま相談室です。電子レンジでお酒を燗したら熱くなりすぎた。申しわけございません」
「はい。暖房したら冷風が噴き出した。風邪をおひきになった。判りました医療費も弊社で負担いたします」
 オサダ電機の応接室。男が二人座っている。少し年かさの五〇代初老の男と、少し若い三〇代の男だ。二人とも沈痛な顔で座っている。前にはさめたお茶が。
 ドアが開いた。男が入って来た。オサダ電機の制服を着ている。しぶい顔をしている。ものすごく不機嫌な顔だ。
 先の男二人が立ち上がって深々と頭を下げた。名刺を差し出した。
 年かさの方は、ハナコニック株式会社 関西支社支社長 松上裕三。若い方はハナコニック株式会社 守山工場品質保証部出荷担当係長 花木京三。
「ウチの電話はお客さんからの苦情で鳴りっぱなしや」
「申しわけございません」
 二人は再び深々と頭を下げた。松上の頭頂部はほとんど頭髪がない。花木の方も年のわりには髪がうすい。
「ウチで扱っている商品の二〇パーセントはおたくの製品やで」
「はい、御社は弊社の最も大きなお得意さまです」
「そのおたくの商品でクレームがようけ出よる。それどういうことか判るか」
「御社には多大のご迷惑をおかけしました。いかようにも善処します」
「今後、ウチではおたくの商品はいっこも売れんようになるで」
 二人は小さくなって恐縮するばかり。
「全力をあげて原因究明と再発防止の方策を提示いたします」
「別に提示しなくてもいいから、モデルチェンジした新製品の現物を持って来てほしい」

 それから一年。ハナコニックの松上と花木がオサダ電機に向かった。連れを三人連れている。若い女二人男一人だ。二人のすぐ後ろをだまってしずかについてくる。
 応接室に松上と花木が入った。三人の男女は廊下で立って待っている。表情がない。
「おもてに立ってるのが新製品か」
「はい。旧タイプの執事ロボットスチブンは制御回路の一部に不具合がありました。指示された家電器具の操作を誤りました。ⅭPUそのものを新しいモノに入れ替えました。それから男性タイプの執事ロボットだけでしたが、女性タイプも新製品として発売します」
「女性タイプは二種類あるが」
「はい。中年女性のミズ・タサンと若い女性のミス・マナミです」
「どう違うのだ」
「ミス・マナミの販売ターゲットは独身男性です。マナミ独自の機能が付いております」
「ほう。ワシもそのミス・マナミが欲しいな」
「松上さまは独身ですか」
「いや。妻帯者やが女房はクニに帰ってしばらく帰ってこん」
「それではサンプル用という名目で一台贈呈します」

 女房はあと一週間帰ってない。「サンプル用」にハナコニックが置いて行った女性型家事ロボットミス・マナミ。ワシの女性の好みを細かく聞いて行きおった。それから一週間してマナミを送ってた。顔やスタイルがワシの好みにピッタリだ。
 さてそろそろ出かけるか。
 マナミの後頭部を開ける。掃除、洗濯ON。風呂今日は飲み会だから入らないOFF。軽くお茶漬けでも食べるか。料理ON。液晶ディスプレイが表示される。和食ON米料理ONお茶漬けON。梅、鰹節、鮭。ううん。梅ON。それから帰宅時の室温二三度。こうしておけばマナミが掃除機や洗濯機、調理器具やエアコンのスイッチをONしてすべてやってくれる。以前は各家電器具を設定しなくては自動にならなかったが、今は家事ロボット一台あればいい。
 おっと、お楽しみ設定を忘れていた。このためにミス・マナミをワシの好みの女性にしてもらったのだ。
 お楽しみスイッチONと。これが帰ってからの大きな楽しみだ。女房が留守の間の秘密のお楽しみだ。




残り火は消えず

2023年06月11日 | 作品を書いたで
 この商店街もずいぶん久しぶりだ。私、長谷行雄が、ここS市に来たのは二〇年ぶりだ。私はいま七十歳。四五歳から五十歳までの五年間、ここS市の小さな工場に勤務していた。
 JRのS駅を降りて、道路を渡ったところにS駅前商店街がある。商店街に入る。あのころも決して賑わっている商店街ではなかったが。シャッターを閉めて空き店舗の張り紙がしてある店が多くなった。
 S市の楽座電子工業を離れて、同時に久山電機を退職した。私が退職してほどなく会社が消滅した。
 楽座電子工業での五年間は私の人生では最も充実した五年であった。
 退職後、散歩を日課としている。歩くだけでなく、電車に乗り、気の向いた駅で降りて、駅の周辺を小一時間散歩する。今日は、ひとつ、S駅で降りてみようと思ったわけだ。
 あのバーはまだあるだろうか。あのころは仕事の疲れを癒やしによく寄った。
 もう夕方、たそがれ時だ。うす暗くなりかけたシャッター商店街の中ほどにポツンと灯りが見える。ランタンだ。海神と読める。
 良かったバー海神はまだやっている。ドアを押して入る。カランとカウベルの音がする。カウンターの向こうにマスターの鏑木さん。さすがに歳を取られたようだ。
 先客が一人いる。カウンターに座っている。女性の背中だ。その背中、見覚えがある。お元気そうだ。

「長谷さん、来週から楽座電子に出向してください」
 私は、外注管理担当者として、協力業社に派遣され、そこで経営から細かい技術指導まで行うのが仕事だ。協力業社に派遣されていないときは、生産管理部で工程管理を行っている。生産工程なんてモノはたいてい遅れているものだ。
 直近では五社に行っていた。
 その五社は今はない。従業員数名の小企業であった。その会社に経営指導の名目で入り、健康な企業として存続させるのが私の仕事。と、それは以前の仕事。最近の仕事は、その会社を安楽死させることだ。
 久山電機そのものの受注量が大幅に減ってきている。発注元の四葉電機は財閥系の大手総合電機メーカーで、白物家電から重電まで手がけている。久山は重電の通信機器関連の仕事を受注していた。
 久山は元々は電電公社の協力会社だった。主に電話器の修理をしていた。その仕事で大きくなった会社だ。右から来た電話器を、ほこりを払っただけで左にながしただけで金になった。電電公社が民営化してNTTとなり、電話器も自由化され、電話器修理の仕事もなくなった。
 その電話器の仕事と並行して四葉電機の仕事も受注し始めていた。
 自社ブランドを持たない久山の仕事は、一〇〇パーセント受注の仕事だ。
 久山電機資材部外注管理課。久山電機に入社して配属されたのが資材部。そこで購買仕入れを五年やって、外注管理を十五年やった。 久山電機は大手電機メーカー四葉電機の協力会社だ。四葉の通信機製作所の仕事を請け負っていた。
 衛星通信関連、ITV監視カメラ関連、列車無線関連、マイクロ多重無線、各種電子制御盤、配電盤などを受注していた。設計から部品材料の調達、組み立て品質管理まで行って、完成品にして四葉に納品する。
 久山電機は四葉電機の関西の協力業社ではトップだ。他に四葉から仕事をもらっている会社も数社あるが、いずれも図面と部品材料を支給してもらって組み立て、形にして納品、最終的な品質管理は四葉で行っていた。
 久山はこういう会社だから、エンドユーザーに直接納品設置まで行うことがある。私も一度原子力発電所のページング装置の設置に福井県まで出張したことがある。この時、たちあった四葉の担当者はクズだった。原発向けページング装置設置という重要な仕事にかような人物に担当させたことが、久山電機倒産の伏線となっていた。
 私の外注管理の仕事は、久山の協力会社に製品の筐体、あるいはユニットを外注に出すこと。
 部品と図面を供給して筐体ユニットを制作してもらう。久山の仕事の内訳は内作が六〇パーセント外注が四〇パーセントだ。
 四葉電機から受注量が大幅に減少してきた。四葉電機は品質管理部門の大幅なデータ改竄の発覚がきっかけで、全社的な怠慢隠蔽体質が明らかになった。特に原発関連のトラブルが致命傷となり、四葉の生命線、聖域ともいうべき防衛関連の仕事まで、他社に流れるようになった。受注量が大幅に減った四葉の重電部門は内作でほとんどの仕事をまかなうようになった。老舗の総合電機メーカー四葉電機は白物家電でなんとか命脈を保っているような状態である。

 明日から楽座電子に出向という夜、訃報が届いた。楽座電子工業社長、樽本良一氏が亡くなった。
 樽本社長は、外注管理担当者の私は特に懇意にしてもらった人だ。発注者と受注者という立場だが、製造業に携わる者としての基本的な心構えから、電子工業工作の技術の基礎まで教えてもらった。
 私は久山電機に入社するまで半田コテなど持ったことがなかった。
 私が初めて楽座に行ったのは、四葉電機神戸製作所から受注した鉄道用配電盤の仕事だった。楽座には表示盤のユニットを外注に出していた。指定納期三日前に進捗状況を確認に行ったのだが、工程が遅れている。表示部に取り付ける照光式スイッチが支給されたのが昨日だった。
 資材部に抗議すると、設計から部品手配表がきたのが一週間前、設計にいわせると客先からの仕様決定が三週間前。結局、だれも悪くない。しわよせが現場の最先端の外注業社によってくるわけだ。
 パネル部分に照式スイッチは取り付けられている。あとはスイッチの端子にリード線を半田でつけていくだけ。三〇〇カ所の半田付けを明日の朝までに仕上げなくてはならない。樽本社長、社長の娘蘭、徹夜ができる従業員二人。それに私、五名で半田付けをやった。そのとき私は社長から初めて半田付けを教わった。
 表示盤ユニットは納期に間に合った。
 樽本良一氏の葬儀も終わった。喪主は一人娘の蘭が務めた。
 初七日も終わらないうちに楽座電子工業は操業を再開した。新社長には蘭が就任した。 蘭は良一氏の片腕として楽座電子をよく支えていた。久山への納品、あるいは支給部品の引き取りなど、久山へ来社することは蘭の方が多い。
 私は楽座電子に常駐して、蘭を補佐し会社の経営にアドバイスを行うのが仕事だ。楽座電子工業の業務を円滑に遂行することを一番に心がけなくてはならない。そして、楽座では絶対に気づかれてはいけないことだが、久山は近い将来、楽座電子をきるつもりだ。
 発注元の四葉が大幅に受注量を減らしている。当然、仕事を外作に出す量が減り、四葉社内での内作がメインとなる。
 関西で四葉の協力会社は三社ある。久山は二番手だ。トップの月進電機とあと向陽電機は自社ブランドを持っている。久山の仕事はは一〇〇パーセント四葉からの受注だ。四葉の外注削減の影響を最も受けるのが久山電機である。
 四葉から仕様書を提供され、設計と部品調達は久山で行っているから、その気になれば自社ブランドを立ち上げることも不可能ではない。
 この四葉と久山の関係がそのまま小さく比例形になっているのが、久山と楽座だ。楽座電子は図面と部品を久山から支給されて、組み立てだけ行っている。
 四葉がくっしゃみすれば久山が風邪をひくが、久山がせきをすれば楽座は死ぬ。
「とりあえず、ネジ、ナット、アイボルト、蝶番、ステー、ベアリングなどの機工部品を自社調達しませんか」
 そのような品物も在庫がなくなれば久山から支給してもらっていた。もちろん久山は仕入れ値に少しマージンを付けて請求書をだしている。
 亡くなった樽本社長は、部品自社調達。図面だけを支給してもらっての組み立て外注仕事からの脱却。そして、設計から部品調達まで楽座で行って、最終的には自社ブランド製品を世に出したいとの夢を持っていた。
 私が、久山の外注管理課に居たときは、なんとか、この樽本社長の意向を汲んでやろうしたが、外注管理課長の吉田課長に反対された。吉田課長は協力業社を「下請け」私は協力業社を文字通り外部の「協力会社」として考えていた。
「ボルトが一個ないから納品が一日遅れたこともあったわ。自分とこで調達できたらどないにええか」
 お昼、弁当を食べていたら蘭が横に座った。座ったと同時にグチをこぼした。吉田課長はボルト一個にもマージンをつけて利益をあげている。
「利益を生み出せ資材から」このスローガンを朝礼の時いつも唱和させられる。会社の利益を生み出しているのは営業だけではない。資材も利益をうみださなくてはならない。と、いう理屈だ。
 それは判るが、資材という業務は、会社の兵站を担う業務と私は考える。モノ造りを支援するのが最も大切である。部品部材、工具治具など工作組み立てに必要なモノを円滑に製造部門に供給するのが、資材部門の責任だ。もちろん社外の外注協力業社も大切な製造部門である。
「ワシもそない思うわ」
「なんとかなりませんか」
「うん。電子パーツやったらあかんけど、機構部品やったらええんちゃうん」
「課長さんに知られたら、おこられるし」
「蝶番、アイボルト、ステー、それにネジ、ボルト、ナットなんかやったらええと思うで、ワシから吉田のおっさんにゆうとくわ」
「でも、ウチ、業者しらんし」
「ワシが久山で購買やった時にもろた名刺がある。昼飯食い終わったら持ってきたるわ」
 楽座の更衣室の私物入れのロッカーに、久山時代の名刺入れを置いてある。それから機構部品メーカーのタキゲン、栃木屋、ネジ、ボルトナット専門商社小堀鋲螺の名刺を取り出した。
「この人らに電話してみ」
 翌日、機構部品類は楽座で調達することを吉田課長にいいに行った。
「ええよ。楽座の業績を上げるんも、キミの仕事や。せいぜいがんばって新しい女社長を助けてやってくれ」
 おかしい。絶対、承諾しないで、吉田課長の説得に苦労すると想っていた。そういえば、課長、口の端が少し笑っていたように感じた。

「マスター、水割り」
「あたしはハイボール」
 このバー「海神」は亡くなった樽本社長が常連だった。シャッターが目立つS駅前商店街のなかほどにある。なんどか樽本社長に連れてきてもらったことがある。楽座に常駐するようになって、私も常連になった。蘭も常連だ。
 私はジャックダニエルを、蘭はグレンフィディックをボトルキープしている。
「関電大飯のITVもひと段落したし、こんどの連休をからめて社員旅行しようとおもってます。長谷さんも参加してね」
 蘭がグレンフィディックのハイボールをひと口飲んでいった。
「賛成やけど、吉田課長にお土産持って行くのは考えもんやな」
「なんで」
「以前、こんなことがあった」
 五年以上前だ。樽本社長が納品に行った。その時、吉田課長は樽本社長が乗って来たトラックを見てこういった。
「新車やな。ええな」
 それ以前は、かなりくたびれたトラックに乗っていた。吉田課長は。
「えらいポンコツやな。揺れが大きいから製品が傷まへんか」
 で、新車に買い換えたわけだ。その時、楽座電子の社員旅行のお土産を渡した。
「どこ行ったん。白浜。ええな。お、土産か、おおきに」
 と、ここまではいい。その後、こんなことをいった。
「トラック新車にして、白浜にいって。もうかってんねんな。加工費まけてえな」
「吉田さんってそんなご仁や」
「わかってるわ。あたし、高校のころから父の手伝いしてきたんよ」
 蘭が持ったグラスでカランと氷が鳴った。
「でも、実際にウチに仕事くれてんのは吉田さんやから」
 ジャックダニエルの水割りがあいた。
「マスターおかわり」
 蘭のグレンフィディックもグラスがあいた。
「あたしもおかわり。こんどはストレートで」
 グレンケアンのテイスティンググラスをひと息に空けた。
「おかわり。もっと強いのない」
「こういうのがあります」
 マスターが出したのは黒いラベルに105と書かれたボトルだ。
「グレンファークラス105です。アルコール度数60度あります」
「それをストレートでちょうだい」
 グラスをあおった。ゴホゴホとせき込んだ。
「チェイサーをどうぞ」
 マスターが水を出した。水をのんだら落ち着いたとうだ。目がすわっている。
「長谷さん。あたし、会社、やらなくちゃダメなん?」
「会社、やりとうないのんか」
「吉田のおっさんにペコペコして、休みがちなパートのおばさんたちのご機嫌をとって、一日中半田ゴテにぎってる。部品も完全にそろってないもんをすぐ仕上げ、あした納品せえ。こんなやって楽しいと思う?」
 蘭は私より一〇若い。この時は三十代だった。独身だ。樽本良一氏の子供は蘭一人。
 これは蘭は知らないことだが、樽本氏に養子に来てくれと誘われたことがあった。あの時、ОKしていれば、蘭は私の妻となっていた。七年前だ。独身だった私は悩んだ。確かに蘭を異性として意識していたの確かだ。ただ、蘭の婿となるということは私が楽座電子工業の社長になるということだ。そして、私は長谷行雄から樽本行雄になるということだ。 
 私の父も養子だった。婿養子ではなく子供のころ子供がいない長谷夫婦の養子になった。長谷家に養子に行ってほどなく父の実の両親は飛行機事故で亡くなった。父は長谷夫婦に育てられ大学まで行かせてもらった。父は長谷という苗字に強い思いれがある。そして私は一人っ子だ。私が樽本に養子に行けば長谷の名は途絶える。
 悩んでいるうちに女房と結婚した。その女房も昨年死んだ。今、私は独身に戻った。蘭もまだ独身だ。
「それで、樽本さんは私に何をしてほしい」「わたしを支えて」
 蘭はグラスに残っているグレンファークラスあけた。
「おかわり」
「そのへんにしといたら。例の国交省マイクロ多重あさっての午前には納品せんとあかんで」
「あれ、まだコネクタが一個来てないよ」
 特殊な基板用コネクターが久山からまだ届いてない。そのコネクターがないと、楽座で仕上げた基板が久山で内作した本体に装着できない。
「まったく、部品もまともに支給しないで納期だけヤイヤイいってくる。よし、ワシが明日午前中に久山に行ってどないかしてくる」
「まいど」
「楽座の長谷さん。どないしたん」
 私はまだ久山の社員だ。
「高山課長。ちょっとパソコン見せて」
「ええけど。なんでや。坂田が休みやから、そこ座り」
 資材部のパソコンはパスワードが共有だ。私も久山電機資材部員だからパスワードを知っている
  久山電機の資材部購買課に来ている。購買課長の高山は吉田課長とは犬猿の仲。私は吉田の部下だが、それは会社の組織上のことで、実質は資材部の遊撃的な立場だ。吉田とはおりあいは良いとはいえないが、高山とは良好な関係だ。
「楽座でやってる国交省マイクロ多重のユニット17のBの基板用コネクタまだですね」
「ああヒロセの金メッキのヤツな。あれ金曜日や」
「あさって納品せえゆわれてますねん」
「部品手配表いつ出たと思う」
「きのうですか」
「そや、設計が手配忘れとったんや」
「久山のいろんなチョンボが下請けにしわ寄せになりますねん」
「吉田のおっさんは知ってるか」
「さあ?」
「ま、そないなことを、どないかするためにあんたが楽座に行ってるや」
 高山課長とやりとりしながら、パソコンでオーダー番号8Mー1798を入力する。エクセルのY17Bのページに一行赤い字でヒロセのコネクターの型名FXー18Gが表示されている。赤字は追加手配、緑字は訂正だ。追加の日付はきのうだ。設計担当は本岡となっている。またモトチョンか。本岡は口だけで設計課長になった男でたびたびチョンボをする。モトチョンは本岡課長のニックネームか、本岡が犯す失敗うっかりといった行為を指すのかは不明である。
8Mー1800の手配表を映す。同型機種で納期がだいぶ先のオーダーだ。設計担当は岩下。あいつならチョンボはない。そのFXー18Gが手配され入荷済みだ。
「高山さん、この8Mー1800はまだ製造部に払い出されてませんね」
「うん」
「ヒロセのFXー18Gかしてくれませんか」
「うん、ええで。モトチョンの尻ぬぐいたいへんやな」
 資材部の棚に製造に払い出される前の部品が保管されている。8Mー1800の箱を探すとFXー18Gはすぐ見つかった。
「ほんじゃ借りていきます。モトチョンのぶんが入ったらここにもどしてくれますか」
「了解。こんどビール1本な」
 小さなコネクター一個ポケットに入れて楽座に戻る。
「社長、えらいことです」
 基板にFXー18G装着してほっとしていると先代社長の代からいるベテラン社員の谷本が蘭に青い顔していった。
「どうしました」
「ICを一個壊しました」
「なんで壊れたの」
「ICソケットから抜けかけていたので、伊藤さんが素手で押したのです」
「どのIC」
「モトローラのMCー14001BCPです」
「CーMOSやないの」
「すみません私がちょっと席を外してて、伊藤さんにちゃんと教えなかった私が悪かったです」
 CーMOCのICは静電気に弱い。少しの静電気が流れれば破損する。プラスチックのパッケージ部分ならだいじょうだが、金属部分の端子に人間が素手で触れれば一瞬で破損する。
 人間の身体は静電気を帯びている。だからCーMOSのICを扱うときはアースを付けた作業台の上で、静電防止処置をした作業服と手袋で作業しなければならない。楽座の社員は全員静電防止の作業服を着ているが、伊藤は手袋をしていなかった。
「すみません。社長」
 半べそをかきながら伊藤が蘭の横で小さくなっている。
「だいじょうぶですよ伊藤さん」
「谷本さん、伊藤さんに静電防止の手袋をわたして」
 そういうと蘭は私を横に引っぱった。
「ちょっと長谷さん」
「なに?」
「モトローラのMCー14001BCP一個どうにかならない」
 私も電子部品の購買仕入れの経験はある。半導体は農産物と同じだ。供給と需要のがバランスが取れていることはめったにない。だぶついてるか不足してるかだ。今は不足している。テキサスやルネサスのゲートアレイのICなら日本橋のパーツ屋でも普通に売ってるが、モトローラのCーMOSで特殊なモノはなかなかない。特に14001シリーズは、国内市場にあまり流れていない。
「高山さん、モトローラのMCー14001BCP一個ありませんか」
「そんなもんあるか。あんたとこに一個行ってるやろ。あれ並行輸入でワシが苦労して手にいれたんやで」
「やっぱり」
「どないしたんや」
「いや。別に」
 非常に困ったことになった。あのICを午前中に入手できなければ、マイクロ多重8Mー1798の納品が今日中にできない。
「太陽電子さん。久山の長谷です。渡辺さん。久しぶりです。まいど」
 太陽電子の渡辺氏は私が購買時代もっとも多く取引した営業担当だった。
「うん。そうでしょうな。わかりました。え、いま、楽座におります」
「長谷さん、わたし、今から久山に行って吉田さんにあやまってきます」
「あやまってどうする」
「納品を待ってもらいます」
「あのIC納期三ヶ月やで。三ヶ月先やったら、あれ、久山どころか四葉に手も離れて国交省に納品されとるわ」
 蘭の顔色が青くなった。
「まだ希望がある」
 東京の秋葉原に電話した。以前、ここで特殊なトランジスターを買ったことがある。ここの電子パーツ売り場は、大阪の日本橋より品揃えが多い。
「はい。判りました。いえ通信販売じゃなく、今から取りに行きます」
「秋葉原に一個売ってた。今からワシが買いに行く」
 新幹線に飛び乗って、東京で山手線に乗り替え、秋葉原で電車を降りる。すぐそこが電子パーツ屋が集まっているラジオシティ。そこのサガミパーツという店。小さな店だ。
 IC一個買ってただちに帰阪。在来線に乗り換えてS市に着いたのは午後五時。
「長谷です。今から納品に行きます」
「ワシら残業やな。ビール一本でかんにんしたる」
 紆余曲折があったが、マイクロ多重8Mー1798は無事納品できた。

 蘭と二人で久山に来た。来月の工程打ち合わせだ。来月分の久山から楽座への発注はひどく少ない。楽座の従業員は社長の蘭のほか正社員は谷本と五人だけ。五人のうち三人は事務員だから、現場で実作業する社員は蘭と谷本を入れて四人だ。それに私を加えると五人。この五人で足る仕事量だ。楽座にはパートとアルバイトの従業員が十七人いる。この十七人は不要だ。解雇か自宅待機か決めなければならない。
 蘭と二人でS市に帰ろうとしたら、吉田課長に呼び止められた。
「長谷さん。ちょっと」
 運転席の窓から振り向くと、吉田課長が近づいて来た。
「ごめん。樽本さん。長谷さんをちょっと貸して」
 車から降りる。蘭が運転席に移る。吉田課長の表情がいつになく深刻だ。どうも、あまり良くないことを私にいおうとしているらしい。
「社長、私は電車が帰るから」
 蘭が運転する車が去って行った。
「ちょっと松葉で串カツどや」
「賛成です」
 久山の資材部にいたこと、年に数回吉田課長に飲みに誘われることがあった。私が会社の人間に飲みに誘われるとロクなことはない。以前、吉田課長に誘われたときはQCサークルのリーダーにされた。当時の組合書記長に誘われたときは、組合の執行委員に立候補させられた。その一年後には組合の副委員長になっていた。
 松葉は立ち飲みの串カツ屋である。目の前には揚げたての串カツが並んでいる。
「ビールでええやろ」
「はい」
「生大二つ」
 大ジョッキが二杯置かれた。
「ま、かんぱい」
「かんぱい」
 グウーとジョッキを傾ける。のどが渇いていたのでうまい。
「串カツつまんでや」
 牛串をソースにたっぷりとつけて食べる。ソースをつけ足らないといって、同じ串をつけるのは御法度である。大阪の串カツ屋はソースの二度づけ禁止は常識である。つけたらなかったらどうするか。キャベツですくって串にかけるのである。
「お前のおかげで楽座も軌道に乗ったみたいやな」
「はい。課長の支援のおかげです」
「おんな社長もようがんばっとるやないか」 なにをいいたいのだろう。最初の一杯目があいた。
「おかわり」
「あ、ワシも」
 吉田課長は二杯目のジョッキを半分飲んだ。
「久山から楽座へ行く仕事な。いま行ってる仕事で終わりや」
「え、どういうことです」
「もう、楽座へ流す仕事はないちゅうことや」
 いまやってる仕事は今月いっぱいで完納する。来月からする仕事はないということだ。「四葉があんなことになったもんで、四葉そのものの仕事も少なくなった。四葉は内作の割合を増やす。とうぜん久山への外注量も減る。久山は仕事を内作一〇〇パーセントやっても人員が余る。大リストラが始まるぞ。ワシもお前もリストラ対象者や」
 こうなることは予想されていたことだ。四葉の協力会社は関西で四社。久山は受注量は四社でトップ会社の規模では二番目だ。だが、久山の仕事は全て四葉の下請け仕事だ。四葉がこけたら久山のこける。私が組合の副委員長だったとき、団交で、自社ブランドを開発するか、四葉以外の仕事を受注する予定はないかと質問したことがあった。四葉の仕事をこなすので手一杯で、そんなつもりはないとの会社側の回答であった。他の三社は自社ブランドを持っていたり、四葉以外の仕事をしている。
 この四葉と久山の関係が久山と楽座に、そのままあてはまる。
「で、お前はどうする。お前は久山の社員だ。久山にもどるか、楽座の最期を看取るか」

「おはようございます。残念なことをお伝えしなくくてはなりません」
 楽座電子工業の始業時間は午前九時だ。社長の蘭は八時には出社している。私は八時半ごろ出社するのだが
三十分早く出社した。蘭と二人だけで話したかった。
「きのう、あれから吉田課長が非公式にワシだけにゆうたんやが、久山からの仕事、来月はないらしい」
「どういうこと」
「いまやってる3オーダーで久山から楽座への仕事はなくなるということや」
「やっぱり」
「わかってたのか」
「あたしもバカじゃないわ。四葉があんなことになったら、ウチもただじゃすまんことぐらい判るわよ」
「どうする」
「どうしよ」
「楽座は久山の下請けやが、資本は入ってない。仕事がなくなれば久山には義理はないぞ」「長谷さんはどうするの。久山に戻ってもいんでしょう」
「吉田さんにも同じことを聞かれた」
「で、どうするの」
「楽座の最期を看取るよ。久山に戻ってもリストラされるだけや」
「楽座は死なないわ。父がつくった会社をあたしの代で死なせないわ」
 九時になった。楽座は朝礼はしない。それぞれが担当している仕事に関わる者が打ち合わせをして、すぐ仕事にかかる。今朝は社長の蘭が全従業員を集めた。社員五人とパートアルバイト十七人、二十二人が前庭に集まった。朝の九時だというのに空が暗い。ちょっと突いたらザーと降り出しそうな空模様だ。「雨が降りそうだから、要点だけいいます。いまやっている仕事が終われば、久山電機から楽座電子工業への仕事はなくなります。今後のことは考えます。パートアルバイト十七人の方は今日から自宅待機です。その間は六〇パーセントの給料を払います」
「はい」
 パートの斉藤が手を挙げた。最年長で最古参のパート従業員だ。
「いつまで自宅待機なんですか。ずっとだったら次のパート先を見つけなくてはならないし」もっともな質問だ。
「今月いっぱいです」別に根拠はない。蘭が直感で答えたのだろう。
 いまやっている三本の仕事は月末が納期だ。図面も部品も全てそろっている。組み立ても難しい組み立て作業はない。私と楽座のの社員、社長の蘭、この五人で余裕で間に合う。私も、製造業の生産管理の仕事はながい。工程はいつもきつい。進捗は遅れているのが常態。納期に間に合うか間に合わないか。常に綱渡りの三〇年であった。「余裕で間に合う」こんな状態は、この仕事に就いて初めてである。そしてこれが最後であろう。   
 社長の蘭、谷本、作業員の土屋と中井、事務員の有原、藤沢、金谷。これが楽座電子工業の全従業員だ。女性は蘭と有原、藤沢。金谷は経理。谷本が最古参で副社長格だそれに私。この五人が朝礼終了後、応接室兼会議室に集まった。
「きょうは五日。楽座の命もあと二十五日やね」
 経理の金谷がいった。独身の中年男で、以前、地元の信用金庫に勤めていたが、七年前楽座にやってきた。経理担当者としては有能で、信用のおける男だが、なぜ信用金庫を辞めたのかは謎だ。
「会社をたたむということ」
 蘭が反応した。キッとしたもののいいようだ。
「そういうことも選択肢に入れておかなきゃあかんやろな」
「谷本さんまでそんなこというのん」
「社長、私、結婚するかもしれません」
「ほんと、有原さん、おめでとう」
 女子事務員二人のうち藤沢は既婚者だ。
「こんな時にいいにくんですけど、今月末で辞める予定でした」
「でした?なんで過去形?」
「会社がこんな時に私だけ抜けるのは気がひけます」
「いいのよ。そんなこと気にしなくても。有原さんはしあわせになってちょうだい」
「選択肢は三つやね」
 私がいった。私は、いわばオブザーバー的な立場でここにいる。蘭をはじめ楽座の社員たちより客観的なモノの見方ができる立場だ。
「まず、自社ブランドを開発する」
「はい」
「久山以外の仕事をさがす」
「自社ブランドは私も考えていたわ。少し心当たりがあるの」
「自社ブランドとなるとたいへんですよ。モノをつくるだけじゃなくて、つくったモノを売らなくちゃ。売るためにはPRしなくちゃ」
作業員の土屋だ。半田ゴテを持たせれば実にきれいな半田付けをする。彼は若いころコピーライターをしていた経験がある。
「その時は土屋さん、宣伝広告を教えてね」
「ワシは自社ブランドより、久山以外の仕事を探す方がええと思うけど。長谷さんには悪いけど」
 谷本がこちらに視線をむけながら、遠慮がちにいった。
「悪くないですよ。谷本さん。四葉系以外の仕事を探さなあかんですな」
「三つ目の選択肢はなに?」
 蘭と六人の目が私に向いた。
「なにもせんほうがええ」
「ん」
「このまま、なにもせんほうがええ」
「楽座電子工業は消滅ということね」
「そ、あんたたちは新しい仕事を探した方がええ」
「長谷さんは久山に戻れるからいいですね」
 藤沢が半分泣き顔でにらんできた。
「ワシは久山には戻らない。戻ってもリストラされるやろ。それに久山は一年もたんとワシは見とる」
「長谷さんは楽座と心中ですか」
「そうや」
「ちょっと待って。まだ楽座が死ぬと決まったわけではないのよ。わたしが死なせないわ」
「ワシも楽座には残って欲しい。消滅するということまで考えて、それを避ける手立てを考えよう、と、いうことや」

 植町火力向けページング装置。中規模のページング装置である。その制御盤の組み立てを久山から受注して二か月。あと燭光式スイッチを盤面に装着して、端子にリード線を半田付けすれば完成だ。この仕事をもって楽座電子工業の仕事はゼロになる。
 ニッカイのスイッチを五個、蘭が盤面に開いた穴に挿入した。土屋が半田付けをした。
「できたわ。あした午前中には納品に行ってくる」
 天井クレーンで制御盤を吊ってパレットに載せる。梱包用のプチプチで包む。蘭がフォークリフトでトラックに積む。
 朝になった。雨が降っている。製品は工場内に駐車しているトラックに積んである。
「中井くんブルーシート持ってきて」
「何枚ですか社長」
「一枚」
 中井が5・4×5・4のブルーシートを持ってきた。
「社長、ブルーシートあと一枚でしまいです。注文しときましょうか」
「そ、ブルーシートはしばらくいらないからいいわ」
 ページング装置の制御盤としては小型である。一枚のブルーシートですっぽり包めた。
これが楽座から久山への最後の納品である。
 トラックの運転席に谷本助手席に蘭が座る。土屋がホンダフィットのハンドルを握る。助手席に中井。後席に私が座った。
 S市の楽座から国道176を走って、T市からI市の久山電機まで車で約二時間。この五年間、私もよくこのを走った。
 I市に入ってJRの線路に沿ってしばらく走ると久山の工場建屋がある。
 中庭にトラックと乗用車を駐める。ページング装置は工場の二階で組み立てている。納品に来た制御盤は二階へ上げる。
 蘭が二階へ上がってクレーンのペンダントスイッチを持つ。楽座でクレーンの免許を持っているのは蘭だけだ。蘭はフォークリフトの免許も持っている。納品はクレーンかフォークリフトを操作しばくてはならない。だから完成品の納品は必ず蘭が来る。
 二階から降りてきたフックに谷本が玉掛けワイヤーを引っかける。そのワイヤーのアイにシャックルをつけ制御盤のアイボルトに通す。
 指をくるくる回す。制御盤が少し上がった。指を止める。トラックに荷台との間にすきまができる。谷本は荷を確認して再び指を回す。四点掛け、ワイヤーの角度は六〇度。地切り確認。玉掛の手順をしっかり守っている。玉掛けの免許を持っているのは私と谷本だけ。だから納品場所が一階なら蘭一人で来ることもあるが、二階の場合、私か谷本が必ず蘭についてくる。
 私、蘭、谷本、中井、土屋の四人で資材部へ行く。外注管理課。吉田課長が電話をしている。あまり楽しい電話ではなさそう。ムスッとした顔して受話器を置いた。
「どうした。おそろいで」
「今日が最後の納品になります。ごあいさつをしなくてはと思いまして」
「そうやったか」
「どうもお世話になりました」
 蘭、谷本。中井、土屋の四人が頭を下げた。私は彼らの後ろで、だまって立っていた。
「いやいや」
 吉田課長はそれだけいうと視線を外した。何をいっていいか判らないようだ。
 立ち去ろうとすると、私だけ呼び止められた。
「で、きみはどうするんや」
「さあ、どうしましょうかね」
 この時点で私は久山を退職するつもりだった。この時、退職届けを懐に入れていた。
「久山に戻ってもきみの席はないぞ。おれも退職する」
「そうですか」
「楽座と心中か」
「樽本社長は楽座を終わりにするつもりはないようです」
「きみはおんな社長の手伝いか。彼女はけっこういい女だからな」
「吉田さん。退職なさるんでしから楽座に再就職しませんか。便所掃除の仕事ならありますよ」
「また下請け仕事が必要になっても楽座には出さんぞ」
「それは困りますねえ」
 私は笑いながら吉田課長と別れた。その後彼とは二度と会うことはなかった。
 人事部長に退職届けを提出した。
「こういう場合は退職『届け』ではなく『願い』と書くんだ」
「願うのでありません。届けるんです」
 蘭たち四人は資材部長と社長にあいさつをしてきたようだ。
 駐車場に五人そろった。
「ねえ。コーヒー飲んでいかない。私の高校時代の友だちがお店やってるの」
 蘭の提案を受けて五人は彼女の友人の店で休憩することにした。
 来るときは国道176で来たが、久山電機を出て、猪名川にそって北へ走る。
「ちょっと停めてくれ」
 土屋は猪名川の堤で車を停めた。車外へ出てポケットに手を入れる。三〇年間作業服の胸に付けていた久山電機のバッジを握る。それを思いっきり遠くまで投げた。
 久山には三〇年いた。もちろん給料は受け取っていた。久山が私にくれたモノはある。しかし、久山が私から奪っていったモノもたくさんある。くれたモノと奪っていったモノを比べると、奪っていったモノの方がはるかに多い。
 クリント・イーストウッドの出世作「ダーティハリー」私の好きな映画だが、ラストでハリーが「警察なんか辞めてやる」とバッジを川に投げ込むシーンがあった。かっこええな。久山を辞めたらマネしてやろうと思っていた。念願が叶った。憑き物が落ちた心持ちがして、実にすがすがしい気持ちになった。
 国道171に乗って西へ走る。武庫川を越す。西宮市内へ入る。171から二号線に入って、夙川を越えたあたりで、蘭はトラックを停めた。
 国道沿いに小さなカフェがある。イクストルという店名らしい。ドアに小さく紅い不思議な生き物のイラストがある。トラックとフィットはコインパーキングに停めた。
 蘭がドアを開ける。私たち四人も後をついて店内に入る。
 テーブルが三つと短いカウンター。カウンターの上にはサイフォンが置いてある。カウンターの端に黒い猫のようなぬいぐるみがある。
「あら、蘭、いらっしゃい」
 蘭と同い年ぐらいの上品な女性が迎えた。
「千鶴、お久しぶり。あれ、用意してくれた」
「うん」
五人はカウンターに座った。サイフォンからコーヒーが淹れられた。素晴らしい芳香が漂う。飲む。ただのコーヒーではない。次元の違う味。これがコーヒーというのなら、今までコーヒーとして飲んでいたモノはなんだろう。
「コピ・ルアクです」
 奥から出てきた。男性がいった。
「主人です。この店のマスターです

「樽本蘭です。ウチの社員と久山電機の長谷さん」
「蘭、社長だったんだ」
 私は、その時点で久山の社員ではない。でも、そんなことはどうでもいい。それよりもこのコーヒーだ。
「インドネシアにいるジャコウネコはコーヒーの豆が大好物です。いい生のコーヒー豆ばかりを選んで食べます。未消化のコーヒーの種が糞といっしょに排泄されます。そのコーヒーの種を消毒して乾燥させたモノが最上のコーヒー豆コピ・ルアクです」
 マスターが説明してくれた。
「蘭、これ」
 奥方が蘭に袋を手渡した。
「コピ・ルアクの生豆。一〇〇グラム入ってる」
「これを焙煎して挽いて淹れたのが、今、皆さんに飲んでいただいたコーヒーです」
「いくら上等のコーヒー豆でも扱い方を知らないとうまくないわよ。ここのマスターはコーヒーの名人なんだから」
「そ、わたしがこの人といっしょになったのもコーヒーが縁だったのよ」
「千鶴が新しい店を開店させたから、来てといわれてたけど会社が忙しくてなかなかこれなかったの。ところで、千鶴、イクストルって何?あの紅いゴキブリのこと」
「ゴキブリじゃないわ。ベムよ」
「ベムって?」
「SFに出てくるモンスターよ。あたしの大好きな『宇宙船ビーグル号の冒険』に出てくるの」
 SFは私も若いころよく読んだ。「宇宙船ビーグル号」も読んだ。そういえばそんな化けもんも出てきたな。

「蕎麦は挽き立て茹でたてが一番うまいといわれているは。千鶴の受け売りだけど、コーヒーも挽き立て淹れ立てが一番うまいのよ。それに焙煎仕立てをプラスしようと思うんだ」
 イクストルを出て、 二号線を走り西へ。山手幹線に移り六甲トンネルを抜けて、神戸の北区へ。有馬を横目に、西宮市の下山口、中国道をくぐってS市へ帰ってきた。
「おいしいコーヒーだったでしょう」
 蘭がいう。
 焙煎したコーヒー豆を買ってきて自宅で挽いて飲む人は多い。でも自宅で焙煎までする人は少ない。それに生のコーヒー豆は入手が難しい。店ではなかなか売ってない。ネット通販では売ってるが。
「で、社長、ウチでコーヒー屋をやるんですか」
 谷本が聞いた。
「いいえ」
 そういうと蘭は一枚の図面を出した。
「なんですか。これは」
「家庭用コーヒー焙煎器です」
 焙煎済みのコーヒー豆を自宅で挽いてコーヒーを淹れるひとは多い。その時使うのがコーヒーミルだ。手動電動いろいろある。
「これは焙煎できるコーヒーミルなの」
 この機械に生のコーヒー豆をいれれば、焙煎して、豆を粒に挽くまでを自動でやってくれるというわけだ。
「この機械を楽座で造ろうというわけですか」
 土屋が蘭に聞いた。
「そう。ウチで出来ることを考えたの。基板の製作、ユニットの組み立てをできるでしょう。基板と筐体を外注にだして、部品、電子パーツを調達すれば、この製品をウチのブランド製品として売り出せるわ」
 確かに蘭のいうとおり、品物そのものは楽座でできる。しかし製品は造っただけでは製品のままだ。売れる状態にして製品は商品となるのだ。製品を商品として初めて利益を生み出すのだ。
「まず、やることを整理しましょう」
 蘭が白板の前に立った。
 生のコーヒー豆の入手。イクストルの崎村夫婦にコピ・ルアクを並行輸入している業者を紹介してもらう。
 販売先。コーヒー愛好家。喫茶店。焙煎機を販売し、豆を継続的に販売してユーザーをつなぎ止める。
 宣伝広告。とりあえずチラシを作成して喫茶店、カフェにおいてもらう。
 部品、電子パーツ、基板、筐体製作用の板金。これらの調達方法。
「土屋くん」
「はい」
「コピーライターだったでしょう」
「はい」
「チラシのサムネイルとSPの企画を考えて」
「コピーと企画書はぼくが考えますが、デザインは知り合いに頼んでいいですか」
「いいわ。でもプロのデザイナーでしょ。タダじゃないんでしょ。あまりギャラはでませんよ」
「ぼくのいとこです」

「社長、久しぶりです。長谷です。あ、久山はもう退職しました。で、ちょっと見積もりしてもらいんです。図面を送りますので」
 筐体機工関係の図面は中井が引いた。電気電子関係は蘭が部品表と設計図を書いた。
 それらを元に私が見積もりを出す。筐体の製作見積もりは精密金属加工の業社二社。機工部品はタキゲンと栃木屋。
 電子電気関係は細かいモノが多い。基板、リード線、抵抗、コンデンサ、ダイオード、ICなど半導体。リレー、スイッチ、加熱用のニクロム線、温度調整用のモーターファン。コネクタ類。テーブルの上に乗るコーヒー焙煎器を造るにもこれだけの部品が必要なのだ。
 一週間で私は見積もりを完成させた。久山で購買仕入れをしていたときの取引先の名刺が役に立った。

ラクザコーヒー焙煎器
コーヒー豆が届く。あなたはここにコーヒー豆を入れるだけ。煎る。挽く。淹れる。みんなこれがやってくれます。でも、最後の仕事はあなた自身で。
コーヒーを楽しむ。それだけがあなたのお仕事です。 
 
 土屋と彼のいとこの制作したチラシができた。手分けして喫茶店、コーヒー店に置かせてもらう。イクストルの夫婦にもコーヒー好きの常連を何人か紹介してもらう。
「これが見積もり。一枚目が電子電気パーツ。二枚目が機構部品。あす、半導体、ファンモーター、電子パーツ専門商社の三者の営業が来ます。会ってください。ワシの同席します」 あす来る営業三人は、私が久山の購買時代 特に取引が多かった商社の久山担当者だ。
 電子部品の見積もりを多くの商社に出した。全部から回答が来たが、出た数字を見れば取引を望んでいるかどうか判る。
 ある商社はゲートアレイのICの見積単価を日本橋のT商店より高く付けてきた。T商店はいわば電子工作好きな素人向けの店である。
 私が久山電機を辞めたと知っているのだ。当然のことだが、それらの商社は私ではなく久山電機と取引してたのだ。
 購買と営業。どちらが立場が上でも下でもない。売る人がいるかから買える。買う人がいるから売れる。双方、相身互いである。買ってやるんだとの姿勢で購買業務を行うことは絶対に御法度である。私はそういう心構えで購買業務をしてきた。
 仕事は会社と会社の関係であるが、最後は担当者どうしの人間関係である。あす来る三人は特に密に接していた営業担当者である。久山と取引しているのではない。長谷さんと取引しているのだ。私はこういう営業マンを何人か知っている。これは私の財産だ。最終的に私は、この財産を蘭に相続させるつもりでいる。
「どうも、ありがとうございました」
 太陽電子の渡辺氏が帰っていった。午前中はファンモーターの河戸電興の松崎氏と大戸商事の佐々木氏が来ていた。
「で、どうする社長」
「発注するわ。チラシも印刷にかかるし、来月には一号機を出荷したい」
 もう私は楽座では必要のない人間だ。

 二〇年ぶりでS市に来た。私が楽座にいたころ、よく来たバー海神。昔のままだ。マスターの鏑木さんも歳を取った。
「久しぶりです。長谷さん」
「ひさしぶりマスター」
 カウンターの先客の女性の隣りに座る。初老の女性だ。横顔に若いころの面影が残っている。
「何年ぶりかしら」
「そうだねえ。ずいぶんひさしぶりだね」
「元気してました」
「ごらんの通り元気やよ。いろいろあったけど。蘭は」
「下の名前でよばれるのひさしぶり」
「楽座は」
「谷本さんの息子さんがやってるわ。個人向け魚探のメーカーになったわ」
「へー」
「古野電気から独立したの」
「古野電気といえば船舶用電子機器の世界のトップメーカーやないの」
「彼、釣り好きで、画期的な個人用魚群探知器を考えたの。独立して自分で会社を興そうと思っていたところに、谷本さんが楽座に呼んだのよ」
「で、うまくいってるのか」
「釣り具メーカーとタイアップして成功したらしいよ。今度、明石に新しい工場をつくるらしいわ」
「うん、で、君は」
「喫茶店やってるの。今度来て。私の店にあるラクザコーヒー焙煎器がたぶん、一台だけ残ったもんだと思うわ」
 蘭の店はラクザエレクトロンの隣りにあった。ラクザエレクトロンは楽座電子工業が社名変更した会社だ。見違えるほどきれいな工場になっている。
「ラクザーン」それが蘭の店の名だ。
「どうぞ、ラクザコーヒー焙煎器で煎って
、挽いて、淹れたコピ・ルアク」
「うまい。ところで店の名前『ラクザーン』って」
「千鶴のおすすめで私もSFを読み始めたの。眉村さんのファンになったの」

眉村卓の異世界物語」から再録




新・同棲時代

2023年05月05日 | 作品を書いたで
 高架の上を貨物列車が通った。細い道を隔てたここにも振動が伝わって来る。天井からパラパラほこりが堕ちてくる。二人で食べているラーメンの鉢をあわてて両手でフタをする。さちこの白い手の甲に黒いつぶつぶが付いた。
「昔を想い出すな」
「そうね」
 舞ってるホコリを手であおいで、ゆうすけはラーメンをすすった。
「このラーメン、あとどれぐらいある」
 さちこが横の押入れを開けた。
「二個」
「また買わなあかんな。今度は別のラーメンにせえへんか」
「これが一番安いのよ」
「しゃあないな。もっとええバイト見つけるよ」
「無理しなくていいのよ。あたしはこれでしあわせ」
「ねよか」
 四畳半にしかれた薄い布団にふたりはもぐり込んだ。夕食はインスタントラーメン一杯。空腹は満たされない。眠れば空腹は気にならない。
 二人に目覚まし時計はいらない。カーテンのない東側の窓からさしこむ太陽光で目が覚める。
 朝食代わりに麦茶を飲む。
「きょう、ワシ給料日や」
「あたしも」
「今夜はちょっと贅沢しよか」
「賛成」
 風が冷たい。手に持った石けん箱がカタカタ鳴る。いつも行ってた銭湯は閉鎖した。少し遠い銭湯に来た。二人のアパートには風呂がない。暖かい季節ならいいが、冬は湯冷めする。風呂のあるアパートに越したいのだが、さちことゆうすけの収入では風呂なし四畳半三畳のアパートでせいいっぱい。
 コンビニに寄って、おでんを買う。大根、卵、こんにゃく、牛すじ、がんもどきを二個づつ買う。それカップ酒も二個買った。
「寒いね」
 ゆうすけがさちこを両手で抱く。
「ゆうすけの手あったかい」
 身を寄せ合ってアパートに帰る。
 へこんだ鍋におでんを入れて暖める。やかんにお湯をわかしてカップ酒を燗する。
「お金貯めて電子レンジを買おうね」
 おでんとお酒が温まった。
「さ、食べようか」
「ずいぶん贅沢しちゃったね」
 おでんを半分ほど食べたところでさちこがガタガタ震えだした。
「なんだか寒気がするわ」
 ゆうすけがさちこのひたいに手を当てる。
「熱があるじゃないか」
「コロナかしら」
「ワクチンうったからだいじょうぶやと思うけど」
 ゆうすけが薄い布団をしく。掛け布団を二枚にする。さちこはそのまま眠ってしまった。ゆうすけが心配そうにさちこの寝顔を見る。もしコロナだったら。三回目のワクチンは二人とも接種ずみだ。ワクチンとて完璧ではないだろう。万が一新型コロナウィルスに感染していたら。二人とも高齢者だ。重症化、最悪死に至る。

「ゆうすけさん?ゆうすけさんじゃないですか」
 シルバーの事務所を出たところで、老婦人に声をかけられた。ゆうすけより少し若い。六〇代後半だろう。
「はて、だれだろう」死んだ女房の友だちだろうか。だったら下の名前では呼ばないだろう。南さんと、苗字を呼ぶだろう。どこかで会ったような気がする。ん、まさか、あれから五〇年も経っている。でも、面影はある。
「さちこ、さん、か」
「はい」
 日本がバブルでうかれる少し前、ゆうすけとさちこは出会った。
 小さな広告制作のプロダクション。ゆうすけはコピーライター、さちこはデザイナーだった。ゆうすけの方が少し年上だった。
 ゆうすけはコピーライター養成講座を、さちこはデザイン専門学校を修了して、そのプロダクションに就職した。
 新入社員歓迎コンパでゆうすけは飲み過ぎた。若く飲み慣れない酒を、すすめられるまま飲んだ。泥酔して正体がなくなったゆうすけをアパートまで送ったのは、さちこだった。 ゆうすけは兵庫県の但馬の出身、さちこは淡路の出身。ふたりのアパートは近くだった。
 二人はなんとなく同棲するようになった。そしてなんとなく別れた。ふたりは若かった。
 それから五〇年経った。ふたりとも独身であった。
 なんとなくいっしょに住むようになった。べつに結婚したわけではない。ただいっしょに暮らしているだけだ。
 二人とも七〇を超した。貧乏なのはあのころと変わらない。
 

ひのきの木像

2023年04月07日 | 作品を書いたで
「ありがとう。義作どん」
 与平の女房おさきは喜んで帰って行った。手には小さな木像が握られている。その木像の顔はおさきの顔だ。
「ごめんくだせえ」
 老人が入って来た。
「じいさん、この村の者ではないな。どこから来なすった」
「喜来村じゃ」
「隣の村じゃないか。年よりの足ではしんどかったじゃろ」
 喜来村は山の向こうだ。
「足には年はとらさん」
「何が望みだ」
「ワシではない。息子の嫁じゃ。ワシは孫を欲しい。嫁には子宝は授からんのじゃ」
「嫁は連れて来たか」
「いいや」
「本人を連れてこないとダメだ」
「嫁は足が悪い。山は越せん」
「それじゃ、オレには何もできん。帰ってくれ」
「そこをなんとか」
「オレが本人の顔を見なければ願い事は叶えられん」
「ワシが似顔絵を描く」
「その似顔絵が別の女に似ていれば、その女が子を産むぞ」
 年寄りはすごすごと帰って行った。
「義作さんの家はこちらですか」
 こんどは若い男だ。この村の住民はほとんどが百姓だが、その男はきれいな手をしている。百姓には見えない。商人のようだ。手には風呂敷包みを持っている。
「私は京の茶道具屋のもんで作次郎といいます」
「京の都から、こんな山奥の村に何の用だ」
「但馬の国の錦平村に、願い事をなんでも叶えてくれるというご仁がおるということを聞きました」
「オレのことは都まで知られているのか」
「出入りの商人から聞きました」
「なにが望みだ」
「わたしには末は夫婦と約束した女がおりました」
「お前さんは、その女とはいまは夫婦ではないんだな」
「はい。娘は奉公人、わたしは跡継ぎ息子」
「親が許してくれんのじゃろ。よくある話だ。その娘といっしょになりたいのか」
「はい」
「娘は連れて来たか。オレが娘の顔を見なければならんぞ」
「連れてきました」
 そういうと作次郎は風呂敷包みを開けた。ごろんとスイカのようなモノが転がり出てきた。首だ。若い女の生首だ。目は閉じていて口元はわずかに微笑んでいるように見える。
「どういうつもりだ」
「お小夜とはあの世でいっしょになろうと誓ったのです」
「そうか。オレは現世の願い事は叶えてきたが、来世のことまでオレの力が届くかどうか判らんぞ。それでもいいか」
「はい。望みはあなたしかありません」
「そうか。では今から始める。まずお前からだ」
 義作は木の筒を持ってきた。ひのきの丸太だ。
「動くなよ」
 ノミと木槌を振るって木を削り始めた。いや。木を削るというより、木の中に埋もれている何かを掘り出しているといった方がいいだろう。手に乗るほどの人形が現れた。顔は作次郎の顔だ。
「これがお前だ。持て」
 作次郎は人形を持ってその顔を見た。そっくりだ。
「次はお小夜のを作るぞ。女の顔をこっちに向けろ」
 作次郎はお小夜の生首を両手で持って義作に向けた。
 首の切り口の血は乾いてかたまっている。口はわずかに開き、目は閉じている。
「ちょっと目を開けられないか」
 作次郎は両手でお小夜の首を持っている。
「この上に置け」
 義作が丸太を作次郎の前に置いた。首をその上に置いて両目を開ける。丸く大きく開かれた目は表情にない目である。
「もういい。それじゃわからん」
「お小夜の顔はできますか」
「なんとかやってみる」
 作次郎の木像はすぐにできたが、お小夜のは苦労しているようだ。義作は生前のお小夜の顔を想像しながら木像を作っているのだ。
「できたぞ。どうだ」
 女の木像を作次郎に見せる。
「お小夜が生き返ったようです」
 お小夜の像を作次郎に手渡す。
「どうすればいいのです。私の願いが叶うには」
「お前死ぬ気だろう」
「はい。私も早くお小夜に所に行きたいです」
「さっきもいったが、オレの木像があの世で力を発揮できるかどうかわからんぞ」
「いいんです」
「自分のとお小夜の。二つの木像を抱いて死ね」
「そうすると、私とお小夜はあの世でいっしょになれますか」
「わからん。この世のことは請け合うが、あの世のことまでオレはわからん」
「あのう、お礼は?」
「なんぼでもええ」
 作次郎はそこそこの銭を置いて行った。

「義作どん、おるか」
「おう」
「大根が豊作での。置いてくぞ」
「おう、すまんな」
 義作は野良仕事はしない。田畑ももってない。
 小さな藁ぶきの小屋に住んでいて、何をするでもなく一日中ぶらぶらしている。木像をつくる時以外は、たいてい寝ている。村一番の怠け者だ。
「義作、おるか?」
「おう、おるぞ」
 炭焼きの銀次がやってきた。魚をぶら下げている。
「ワシが釣ってきたイワナだ。食ってくれ」
「なんの用だ」
「となりの村の権助を殺してほしい」
「オレは権助を知らん」
「いっしょに来てくれんか」
「となり村か。いまからじゃ着くのは夜になる。あしたの朝早く誘いに来てくれ」
 おひさんが昇ると同時に銀次が来た。
「行こうかいのう」
「おお」
 二人は、すぐ出発した。炭焼きの銀次は山歩きに慣れているから、ずんずん山道を歩く。怠け者の義作は足弱ではついていけない。
「おおい。オレを置いて行ったら権助を殺せんぞ」
「速く歩かんと日がくれるぞ」
「なあに、まだ昼前だ」
 日が陰ってきた。
「こりゃ雨が降るぞ」
「ぬれたって死にゃせんぞ」
 道は登り坂だったのが平たんになった。
「どうも、ここが峠らしいな」
「雨が降る前にメシにしようか」
 二人は大きな木の下に腰を下ろした。義作はおにぎりを食べながら銀次にいった。
「権助の顔を見てそっくりな木像を作ってやるが、それを使ってそいつを殺したいのだろう」
「そうだ」
「俺は請け合わんぞ」
「それじゃ困る」
「お前の心がけしだいだ」
「どういうことだ」
「権助を本気で殺したいのか」
「本気だ」
「だったらお前の願いは叶う」
 小雨が降ってきたが、すぐ止んだ。道は下り坂がだらだらと続く。
 半時も歩くと、村落が見えてきた。
「権助とやらはどこにおる」
「あの栗の木の横の家だ」
「そいつの顔を見たい」
「わかった」
 銀次はそういうと、トコトコとその家に歩いて行った。戸をたたくと大きな男が出てきた。
「なんだ銀次なんの用だ」
 大きな男は声も大きい。義作は栗の木の横に立つ。男の顔を見る。
「用はない」
 銀次はそれだけいうとスタスタとその場を離れた。
「おい、待て。用もないのに山を越えて俺の顔を見に来たのか」
「そうだ」
「俺はおまえの顔なんぞ見たくなぞ」
「俺もだ」
 権助は納得がいかないようだ。納得はしないが、銀次の顔を見る苦痛の方がまさっているらしい。
「だったら、とっとと帰れ」
「いわれなくても帰る」
「二度と俺の前に現れるな」
「そのことは約束する」
 そういうと銀次は、そのまま後ずさった。権助から視線を外さないように。
 権助が家に入って見えなくなると、栗の木の影に隠れていた義作にいった。
「権助の顔を見たか」
「見た」
「木像はできるか」
「できる」
 それからほどなく権助は死んだ。

 数日前から雨が降っている。あがる気配はない。雨量はますます大きくなる。
 義作の家は崖のすぐそばである。
「義作どん。逃げろ」
 銀次が駆け込んできた。
「崖が崩れるぞ。土砂崩れに巻き込まれるぞ」
「木がひのきの木が」
 義作の家の前にはひのきの木が一本生えている。義作のつくる木像は、そのひのきの木で作られている。
 義作がひのきの木に駆け寄ろうとする。パラパラと小石が落ちて来る。銀次と義作の頭に当たる。二人ともずぶぬれ。銀次が義作を後ろから抱き込んで強引に引っ張った。
「あの木がなくなればワシはダメになる」
「木と命とどっちが大切なんだ」
「あの木はワシの命なんだ」
 義作は抵抗するが、なまけ者の義作と炭焼きの銀次では腕力が違う。義作はズルズルと後ろへ引きずられた。
 崖が崩れた。大量の土砂が義作の家と、そしてひのき木を根こそぎ倒して、押し流して行った。
「義作さん。お願いがある」
「だめじゃ。オレはもう何もできん」
 それからの義作は村人の頼みごとを引き受けなくなった。木像を作らなくなったのだ。
「義作よ。ワシの女房を救ってくれ。腰を打って起き上がれないんじゃ」
「オレにいわれてもなにもできん。医者にいえ」
「隣村の周庵先生診せたが、先生もお手上げだ」
「じゃ、まじないの婆に頼め」
「女房の木像を作ってくれ。お前の作る木像はたいへんなご利益がある」
「オレはもう木像を作れん」
「なぜじゃ」
「オレの家の庭にひのきの木があったじゃろ、あの木で作った木像でなきゃならんのだ」
 村人たちは困った。義作の作る木像がなければ、困りごとの多くが解決しない。
 ある日の朝。銀次が戸をたたいた。
「義作、義作。起きろ」
「なんじゃ眠たいぞ」
「庭を見ろ」
 義作が庭を見ると、一本のひのきの木が置いてある。
「お前のひのきだ。これでまた木像を作れるじゃろ。挿し木をすれば新しいひのきを育てられるぞ。お前がこの村で木像を作らないとワシらが困るんじゃ」
「これはどうしたんじゃ」
「ずっと下流に流されていたのを持ってきたんじゃ」
 義作は木像作りを再開した。
「助かったな。義作が元に戻って。あいつは木像を作る以外なんの役にもたたんヤツだ。ところであのひのきの木はどうしたんじゃ。あいつのひのきか」
「わからん。そこの河原で拾ってきた木だ」
 それから義作はこの村で死ぬまで木像を作り続けた。

     

酒の相手

2023年03月19日 | 作品を書いたで
「ボウモアおかわり」
「ストレートですか」
「いや。トワイスアップで」 
 冬の木曜。午後5時17分。男は一人でやって来た。バー海神。このような昼と夜の境目の時間は、常連客たちはまだこない。その男は初めての客だ。50代と思われる。ホワイトカラーだろう。大きな会社の部長クラスに見える。
「いい店だな」
「ありがとうございます」
「長いのか」
「30年をこえました」
 だれか人を待っているようだ。客はその客一人だ。マスターの鏑木は話し相手をしながらグラスを磨いている。
 カラン。入り口のカウベルが鳴った。男が一人入って来た。30少し過ぎ。その男も初めての客だ。ブルゾンにジーンズ。ラフなかっこうだ。ホワイトカラーではなさそう。グリースだろうか手首が少し油で汚れている。カウンターに座った。先客の隣だ。
「いかかがします」鏑木が聞く。
「ウィスキーはよく知らないんです」
「では飲みやすいスコッチは」
「それを水割りでお願い」
 鏑木はグレンリベットのボトルを出した。少しだけ首をかしげてグリンリベットの水割りを出した。若い男は水割りのグラスを傾けた。
 初めての客二人はしばらく黙ってグラスを傾けていた。二人の間に心地よい沈黙が流れている。その沈黙が静かに止まった。
「このお店は初めてですか」
 若い男が声をかけた。
「はい。君もか」
「ぼくもです」
 また沈黙。
「あまりウィスキーは飲まないのか」
「ぼく、ビールと日本酒がだめなんです。ときどきウィスキーは飲みます」
「そうか。じゃアイラを飲んでみるか」
「アイラってなんですか」
「スコットランドの島だ。マスター、アードベックの10年。ストレートで」
 鏑木がグレンケアンのテイスティンググラスを2個並べて、アードベックを30ccづつ入れた。
「なにかの縁だ。私がおごるよ。乾杯」
 若い男はアードベックを飲んで顔をほころばせた。
「うわっ。おいしいです」
「臭いは気にならないのか」
 スコットランドはアイラ島で蒸留されるモルトウィスキーはピート香が強く、独特な強烈な臭いがする。アードベックはその中でも特に臭いが強い。
「薬みたいな臭いがしますが、おいしいです」
 カラン。カウベルの音。女が入って来た。若い。
「おとうさん。お待たせ」
 カウンターに座った。
「それじゃ。ぼくは」
「いいじゃないか。もう少しいても」
「いえ。どうもごちそうさまでした。アイラウィスキーおいしいですね」
 若い男は店から出た。
「知ってる人?」
「この店で初めて会ったんだ。いい男だ」
「いい人でしょう」
「お前知ってる人か」
「ええ。私、あの人と結婚するの」
「そんな大事なこと、なんで早くいわん」
「だから今いったじゃない。今が早いのよ」
「・・・」
「いいでしょ」
「お前は30近い大人だ」
「今度の日曜、ちゃんと家に連れて行くわ」
「あいつにいっておけ。グレンリベットを水で割るな」
「いいじゃない。どんな飲み方でも」
「男の親は子供ができると、この子が成人すると酒を酌み交わすのが楽しみなんだ。ところがお前は酒を飲まん」
「良かったね。お父さん。お酒の相手ができて」
  

しあわせの家

2023年02月05日 | 作品を書いたで
「うう。さむ」
 十二月になって寒さがこたえるようになった。本格的な冬だ。
 駅の改札を出ると北風が吹きかかってくる。午後七時だ。今日も少し残業した。駅前の居酒屋の灯が呼んでいる。湯豆腐と熱燗で、少し温まって行こうか。
 ふらふらとそちらへ足が向きかけた。
「やめておこう。早く家に帰ろう」
 駅から歩いて十五分。新しく開発された住宅地。新築の家が立ち並んでいる。わが家が見えてきた。
「お、お隣は今年もイルミネーションしてるな」
 隣家はクリスマスが近づくと、庭木にいろんな色のLEDランプを飾る。煌々と灯りがついていれば、夜の景観のバランスを崩すが、上品な灯りなので、好感が持てる。
 わが家の前に立つ。チャイムを押す。ほどなくして「はあい」妻の声がする。ドアが開く。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「お風呂入るでしょう」
「うん」
 脱衣場のファンヒーターを稼働させる。すぐ暖かくなる。服を脱いで風呂場に入る。風呂は贅沢して檜の風呂にした。木のいい香りがする。たっぷりの少し熱いめのお湯にゆったりとつかる。しあわせ。
 風呂からあがって、食卓につく。湯豆腐と呉春の燗酒が用意されている。私は豆腐が大好きなのだ。夏は冷ややっこにビール、冬は湯豆腐に熱燗というのが、湯上りの黄金のパターンだ。
 妻がお酌をしてくれる。飲む。人肌より少し熱いめ。ううん。上燗。上燗。
「きょうは、かずひろの三者面談だったのだろ」
「はい」
「先生はなんといってた」
「県立K高校は太鼓判だって」
 K高校は県下の公立高校の名門で屈指の進学校だ。三流私大卒の私の息子としては上出来だ。

「工事終わりました」
 ガレージの拡張工事をやっていた。三台駐車できるようになった。
 工事中コインパーキングに置いてあった二台を移動させよう。
 一台目。マツダ・ロードスターRF。軽快なスポーツカーだ。いまや絶滅危惧種のRFのマニュアル車だ。もう一台ミニクーパー。近所のちょい乗りとお買い物専用車だ。
 そして今日日産スカイライン400Rが納車される。3000CCツインターボ四〇〇馬力というスカイライン史上最強の車だ。この車もいまや珍しい純ガソリン車だ。
 目が覚めた。昨日は納車されたスカイラインに乗って深夜の名神を走った。さすがに強烈な加速だ。
 ごそごそ布団を抜け出してガレージを見に行った。三台の愛車が並んでいる。
 妻との仲は極めて良好。結婚して二〇年になろうとしているが、今まで夫婦喧嘩をしたことがない。生れた子供は上出来で手のかからない子供だ。学校の成績は小中高と常に学年でトップだった。
 ウチの会社は景気不景気に左右されない会社で、造る製品は世界で一番のシェアだ。賃金はもちろん良い。
 しゃれたマイホーム。美しく愛し愛されている妻。良く出来た優等生の息子。ガレージにはお好みの車が三台。これを幸せというのだろうか。これが望んでいた幸せか。いつからこんな幸せだったのだろうか。
 書斎に入る。ん。こんなところに小さなフタが。
 部屋の北側には本棚が三本並んでいるが、真ん中の本棚の上から二段目の棚にフタがついている。
 開ける。USBメモリーのようなスティックがあった。思い出した。この家を買った不動産会社の営業担当者が、どんなことでもいい。何かご不満があればこのフタを開けてくださいといっていた。
 USBメモリーの一本はスロットに刺さっている。それもはAー1Aと表記してある。営業担当はあの時こういった。
「最初の設定はランクAとなっております。たいていのお客様はこの設定でご満足されますが、中にはもの足らないといわれる方もおられます。そのため三種類の設定を用意いたしました」
 A―1Aのメモリーを抜く。とつぜん周りが暗くなった。すぐ灯りが点いたが、いる部屋は書斎ではなくなっていた。四畳半の部屋だ。どうも、この家の部屋は四畳半一間の小さな家だった。ついさっきまで居たおしゃれな新築の家ではない。風呂もガレージもない。
 部屋の隅にはあのUSBメモリーのジャックがある。いまは何も刺さっていない。最初に刺さっていたA―1Aを刺してみる。暗くなる。灯りが灯る。ここは書斎になっていた。檜風呂も、三台の車があるガレージもある。
「あなたコーヒーが入りましたよ」妻の声が聞こえてきた。
 A―1Aを抜く。今度は五本のうちの一番左のメモリーを刺した。
 部屋は四畳半のままだが、畳が汚くなっている。いろんな液体をこぼしたのだろう、
あちこちにシミがあり、ところどころささくれ立っている。すきま風が吹き込んできて寒い。
「ただいま」
 妻が帰って来た。
「冬の銭湯は寒いわ」
 うちには風呂はない。
「良一は」
「知らないわ。友だちとどっかへ行ったんじゃない」
「今日、三者面談だったのだろう」
「先生に就職をすすめられたわ」
 息子は私立の工業高校を今春卒業する。偏差値が低い私学の工学科を志望してるが、そんな大学でも息子の学力では無理らしい。それに最近は良からぬ仲間とつるんでいるらしい。
「あなたハローワークどうだった」
「俺のトシじゃどこもないよ」
「どうするの」
「どうしよう」
 メモリーを抜いた。



そっくりな女

2022年12月23日 | 作品を書いたで
 世の中にはそっくりな人が三人いるとか。亭主とそっくりな男は時々見かける。どこにでもいる、どうということもない男だ。珍しい顔はしてない。いま、道路の向こう側にいる男もそっくりさん、と、思いたい。 
偶然というには、偶然すぎる。そっくりさんは亭主そっくりさんだけではない。その男と仲良さそうに歩いている女、だれでもない、私とそっくりなのだ。
 男は亭主のそっくりさん、女は私のそっくりさん。ん、これに違いない。亭主にそっくりな男はいる。私にそっくりな女もいるだろう。そっくりさん同士が肩を並べて歩いていても不思議ではない。
 一番考えたくないこと。あれは亭主。で、女は浮気相手。ウチの亭主に限ってそんなことはない。と、思いたい。では、アレはどういう女だ。何者だ。
 もうひとつ考えられることがある。ふたりとも、そっくりさんではない。本物。アレは亭主で女は私。では、ここにいる私はだれだ。 いまは平日の午後六時。ウチの亭主は経理課だ。結婚以来、残業はしたことがない。毎日六時十五分に帰ってくる。駅から家まで歩いて十五分。今ごろの時間なら駅の改札をでているころのはずだ。それが、こんな時間にこんな所にいる。しかも女と。
 久しぶりにデパートで買い物をした。六時三十分。アレが亭主でないのなら、先に帰っているだろう。夕食は冷蔵庫に入れてあるからそれを食べているころだ。私は外で食べてくるといってある。
 チャイムを押す。返事があるか?緊張するなあ。返事があれば、アレはそっくりさんということだ。なければ、アレは亭主。ウ・ワ・キ。まさか。
「女房が妬くほど亭主もてもせず」というではないか。
 家の中はシーンとしている。人がいる気配がない。もう一度チャイムを押す。まさか。ん。別の事態も考えた。中で倒れている。そういう可能性だってある。浮気?倒れている。最悪死んでいる。浮気が一番ましか。
 意を決して鍵を鍵穴に入れる。回す。ドアは施錠されていた。
 ドアを開ける。相変わらず人の気配がしない。家の中はシーンとしている。最悪の事態を想像しながら家の中を歩く。トイレ、寝室居間、風呂。どこにもいない。最後にダイニングキッチン。いない。冷蔵庫を開ける。亭主用の夕食がラップがかかったまま有る。
 決定!亭主はまだ帰宅していない。あれが亭主だったんだ。ウ・ワ・キ!

「ごめん。もう一晩泊まらなくちゃ。どうもクラクラが治らないのよ。あした病院へ連れて行くわ。晩ごはんどっかで食べてね」
 老母の介護にいってる。九十近くだが、まだまだ元気で一人暮らししていたが、一ヶ月ほどまえから具合が悪くなった。姉一家と暮らしていたが、姉一家は海外に赴任。「だいじょうぶよ。あたし一人で」と、いっていたが大丈夫ではなかった。
 母に手がかかるぶん、亭主に手がまわらなくなった。亭主とこんなに疎遠になるのは結婚以来初めてだ。
 母を入院させ一週間たった。
「やっぱりお前のメシはうまいな。外食やコンビニ弁当はあきてきた」こんなことをいってた亭主が、あたしがつくっておいたご飯を食べないで浮気してる。あたしとそっくりな女と。
 テレビの天気予報も終わった。もう七時半だ。ごはん、どうしよう。食べるのかな。お風呂は。入るのかしら。
 あたしって人がいいんだわ。浮気亭主のご飯やお風呂はどうでもいいんじゃないの。ごはん捨てよう。お湯抜こう。
 いやいや。待って。あれは違うんだ。他人のそら似なんだ。あの男は亭主じゃないんだ。では、なんで七時を過ぎても帰ってこないんだ。どっかで倒れている?会社でなら残業してる人か警備員が連絡してくるはず。会社以外なら、ここは都会だから誰かが救急車呼んでくれるだろう。
 ピンポーン。チャイムがなった。帰ってきた。やっぱり浮気だ。どうしてやろう。一気に怒りを爆発させるか、それともじわじわ真綿で首を絞めてやろうか。どんな顔して迎えよう。ここは、ひとつ普通に迎えるか。いやいやドアを開けないという手もある。鍵は持ってるがドアチェーンを外さなければいい。 浮気以外の選択肢も考えないといけない。あの女は浮気相手の女ではなく、なにか仕事の女だろう。例えば転職を考えていて、就職支援会社の女子社員と面接に行ってるのかも知れない。そういえば近頃会社の不満をもらしていたっけ。それなら私に電話ぐらいしてくれるだろう。
 万が一、浮気だとしたら、なぜあの女なんだ。亭主は私じゃ満足しないから浮気してるのだろう。だったら私とは違う女を求めるのではないか。はたして、自分の女房とそっくりな女と浮気するだろうか。
 ピンポーン。カチ。鍵を回す音が聞こえる。鍵を持ってる。ドアの向こうは亭主だ。まちがいない。ドアが開いた。ガチャ。ドアチェーンが引っ張られる。
「おーい。何してんのや。入れてくれ」
 あわててスマホを持って、そそくさとドアに駆け寄って開ける。
「ごめん。おねえちゃんと電話してたの」
「なんや」
「おかあちゃん。来年の春には帰国するって。ご飯は」
「食べてきた」
「そう。あの人と食べたから、おいしかったでしょう」
「あの人ってだれだ」
「なんで、こんなに遅くなったの」
「学生時代の友だちに誘われて飲みに行ってた」
「そのお友だちって男じゃないでしょ」
 亭主はウソはつけない人だ。だから経理なんて仕事を長年やってる。それになんたって私の亭主だ。
「さみしかったんだ」
「母を入院させてもう一週間たったのよ。あたしはもう、ここにいるのよ」
「足らんかった」
「なにが」
「お前が」
 あの女は、やっぱり私だったんだ。私の不足分を補っていたんだ。


新しい歩み

2022年08月05日 | 作品を書いたで
 ここに来るのはずいぶん久しぶりだ。このあたりは、子供のころは「学校のうら山」で毎日のように放課後に遊びに来ていた。一番最近に来たのは四〇年ほど前だろうか。そのころは、休みの日はよくここまで来て山を登ったものだ。
 山といっても高い山ではない。。神戸市東灘区にある金鳥山。六甲山系にある 標高三百メートルほどの山だ。その中腹に神社がある。保久良神社という。二百メートルに満たない所にある神社だ。低すぎず高すぎず、ちょっと登るにはちょうど良い場所にある。標高は高くないが上り坂は、けっこう急だ。
 さあ、登ろう。神社までたどり着けなければ引き返すのもやむを得ない。

 左足首の関節が痛み始めて、かなり時間が経った。若いころからだろう。いつごろから痛み始めたのか記憶にない。ふと気がつくと左足足首の関節が痛んでいた。昔は普通に歩けた。今は装具をつけなくては痛くて歩けない。装具をつければ一日一万歩ぐらいなら歩けた。ところが最近は少し歩くと痛むようになった。症状の悪化がかなり進行している。 橋村先生はMRIの画像を見ながらうなった。
「いけませんね。最近、少し歩くと痛むようになったでしょう」
「はい。毎日、三〇分ほど散歩していたのですが、最近はそれもしんどくなりました」
「これを見てください」
 二枚のMRI画像を並べて表示した。
「右が三ヶ月前の画像。左が今日撮った画像です。ここを見てください」
 先生が指示した画像の部分を見ると、左の画像の骨の形状が違う。
「関節の骨の隙間が小さくなっているでしょう。軟骨が少なくなって関節の骨と骨が接触するようになったのです」
 素人でも判る。骨と骨をつなぐクッションがへたってきているのだ。骨と骨がゴリゴリと触れあって神経を刺激しているのだ。
「判りました。どうしたらいいですか」
「人工関節を埋め込む手術が必要です」
「その手術はここでできますか」
「ここでは設備がありません。大きな病院を紹介します」
 人工関節の手術。手術そのものは、早ければ一週間ほどの入院で済むが、術後のリハビリに時間がかかる。職場に復帰するには最低一ヶ月はかかる。
 私の会社での身分は契約社員。五年前に定年となり、契約社員となって継続して今の会社で働いている。正社員の時ならともかく、契約社員で一ヶ月も休めない。会社は一ヶ月間も私がやっている仕事を止められない。替わりの人員を入れるだろう。復帰しても私の席はない。
 もう半世紀近くも働いてきたのだ。もういいだろう。仕事と足。足を取った。

「手術をします」
「そうですか」
 橋村先生は納得したような顔でうなづいた。
「では、県立医科大学に紹介します。いつごろ入院するおつもりですか」
「手術はすぐにもしなくてはいけませんか」「命にかかわる病気ではないので緊急性はないです。それでも、早い方がいいでしょう」「会社を辞めるます。すぐ手術します」
 一週間後、県立医科大に紹介状を持っていって、入院手術の受付をしてもらった。昨日、整形外科外来で術前診断を受けた。事前に受けたMRIを見ながら先生はいった。
「関節の変形がかなり進んでいますね。人工関節をここに埋め込む手術をします」
 手術の前日に入院した。手術室担当の看護師が病室に来て、手術の具体的な段取りを説明した。明日の午前一〇時三〇分に手術開始。順調にいけば一時間で終わる。麻酔は局部麻酔で脊髄くも膜下麻酔という。脊髄に注射される。手術そのものよりも、この脊髄への注射がこわかった。
 手術室に入って、背中に消毒液を塗られ、
「では、麻酔をしていきます。痛みを感じたらいってください」
 チクッとだけした。あとは背中を何かが通過していることだけが判った。下半身がしびれて何も感じなくなった。
 手術は二時間ほどで終わった。局部麻酔であったが痛くはなかった。手術が終わっても病棟の病室にはもどらず、ナースステーション隣の術後専用病室に入れられた。患者にとって手術直後が最も危険な状態だ。三〇分おきに看護師が様子を見に来る。
 翌日、朝に病棟の病室に戻された。三日後には退院。あとは通院してリハビリに専念する。リハビリも当初は痛くつらかったが、だんだんなれてきた。
 一ヶ月後、リハビリ終了。通常の生活にもどる。リハビリ最終日、主治医に聞いた。
「なにをしてもいいですか」
「いいですよ。なんでしたらオリンピックに出てもいいです」
 病院から帰るときは装具なしで歩いた。装具なしで歩くのは何年ぶりだろう。

 退職したので時間はたっぷりある。リハビリ終了直後は、三〇分程度の散歩を日課にした。少しびっこをひくが、痛まずに歩けるようになった。 足が軽い。毎日の散歩が楽しみになった。
 人工関節には完全になじんだといっていい。
 坂道の傾斜がきつくなってくる。平地を散歩する時は感じないが、坂道を歩く時には、さすがに年齢を感じる。
 子供のころは、この坂道を駆け上がって、虫穫りをした。
 息が切れる。最初のカーブだ。まだ足は動く。行けるぞ。この調子で保久良神社まで登って行こう。
 二番目のカーブだ。あと三回曲がると保久良神社に着く。想えば、この山道を以前、歩いた時は装具をしていなかった。関節を痛めて装具を装着するようになったら、一日に一万歩歩けば、関節の痛みは夜寝るまで続く。翌朝には治っているが。
 最後のカーブだ。これを曲がると神社の鳥居が見えてくる。ゼーゼーいいながら歩く。足はまだ大丈夫だ。
 着いた。鳥居をくぐる。四十年ぶりに保久良神社に来た。装具なしでここまで歩いて来た。私の新しい人生が始まる。

 


出世か胃か

2022年07月24日 | 作品を書いたで
「山川くん、秘書課から電話。二番よ」
「はい。山川です。はい。え!社長」
 入社三年目の山川にとって、社長から直に電話がかかって来るなんて思いもしなかったことである。
「はい。判りました。こんどの日曜ですね」
 茫然としながら受話器を置く。
「ねえ、ねえ。なんの電話だった」
 電話を取り継いでくれた有加が聞く。
「社長の自宅に招かれた」
「日曜なの」
「うん」
「あたしとのデートは」

 あの電話は月曜日。きょうは水曜。もんだいの日まであと四日。あれからずっと考えているが結論がでない。有加とのデートをけって社長の招待を受けるか。もちろん有加に頼めばデートの日延べは可能だ。どう考えても社長の招待を受けるべきなのだ。
「お前、社長の家に呼ばれたんだって」
同期入社の天野が串カツをほうばりながら聞いた。
「うん」
「やったな。社長に覚えられて出世やな」
「どうしようか考えてるんだ。彼女とデートなんだ。その日は。なんでお前はそんなこと知ってるんだ」
「秘書課の勝木から聞いた。迷うことないだろ。有加ちゃんには延期してもらえ」
 俺は営業、天野は経理だ。利害はない。社内でいちばん仲が良い。純粋に俺の出世を喜んでくれる。営業の人間ならそうもいかないだろう。
「山川くん、天野から聞いたけど社長の家に招待されてるんだって」
 経理課長の中家が廊下ですれ違ったときに話しかけてきた。天野の上司で俺の大学の先輩でもある。
「はい」
「ふうん。俺なら断るな」
「社長の招待を断るんですか」
 部署は違うが、中家は後輩の俺をなにかと気にかけていてくれる。
「そうだ。人事部長の田原さんも以前呼ばれたんだって」
 田原部長は俺が入社するときに面接した人だ。たしか、あの時は課長だったはずだ。
「地獄を見たそうだ」
「社長の家でですか」
「そうだ。その地獄を見たおかげで、田原さんは課長から部長に昇進したんだがな」
金曜日になった。社長宅に行くには明後日だ。明日は休み。俺は社長宅の電話番号も携帯電話の番号も知らない。断るのなら、今日中に秘書課に連絡を入れなくては。
 その後、いろんな人に意見を聞いた。意見は二つに分かれた。
「招待を受けろ。出世するぞ」
「やめとけ。地獄を見るそうだぞ」
 いろんなことをいう人がいるが、俺のまわりで実際に社長の招待を受けた人はだれもいない。そういう人はみんな管理職のエライ人になっているから、俺が気軽に聞けない。
「出世」か「地獄」か。社長の家に行くのは大冒険だということだ。

 H県A市。関西の高級住宅地として知られる。そのA市の山の手のR荘町。超高級なお屋敷町として知られている。一番最寄りの駅はJRのA駅だが、かなり山沿いなので歩いては行けない。バスで行くしかない。タクシーで行こうと思ったら、前にベンツが停まった。運転席を見ると秘書課の佐々木女史が乗っている。
「山川くん、乗って」
 助手席に乗ろうとすると。
「きょうは、あなたはお客よ。後ろに座りなさい」
 ベンツなんかに乗るのは初めてだ。車はしばらく走って大きなお屋敷の前に停まった。大理石の表札には社長の名前があった。
「よくきた。営業二課の山川くんだね。さ、遠慮なくめしあがれ」
 テーブルの上には社長の手料理が並んでいる。ベンツの中で佐々木女史がいっていたが、社長は料理が趣味で、これはと思う社員に食べさせるのを無情の喜びとする。
 俺は「これはと思う社員」と社長に思われたわけだ。ただし、どう「これは」と思われたのか判らない。仕事が有能そう?あるいは、どんなモノでも食べる食欲の持ち主か?
 ポークソテー 小豆餡かけ
 コーヒーラーメン
 コガネムシの幼虫の炒め物
 羊羹のにぎりすし
 フナ寿司のシュールストレミング添え
 ハバネロ入りドラ焼き
 これをみんな食べれば係長になれるかな?