28日~30日まで、「首里城祭」が開催された。
「首里城」は本土復帰の翌年、昭和48年(1973年)に「首里城復元期成会」発足する事からスタートし、昭和61年(1981年)に復帰記念事業として国営沖縄記念公園首里城地区として整備する事が閣議決定された。
「首里城」の復元には困難を要したが、鎌倉芳太郎氏所蔵の昭和3年~8年にかけて正殿の大改修の際の古文書・写真が貴重な資料となったそうだ。
平成4年(1992年)に供用が開始し、今では「国営沖縄記念公園」→「首里城公園」として年間多くの観光客が訪れている。
平成12年(2000年)には世界遺産に登録もされた。
私がいた頃は、ともかくいろいろな所で復元工事を行っていた。
当時の散歩コースの一つが焼き物の街「壷屋」を散策しながら、県立博物館に立ち寄る事だったが、更に龍譚池を抜けると、そこここが工事中であった。
思いのほか小さな「守禮の門」の周りでは、紅型の着物に花笠をかぶった琉球美人たちと多くの観光客が写真を撮っていた。
首里城は中国の紫禁城に代表される中国宮殿様式に酷似している。
中央部の広場「御庭(ウナー)」を取り囲むように正殿・北殿・南殿と配されている。
「守禮門」から公園内を訪ねると、城内の礼拝所の一つ、「園比屋武御嶽石門(ソノヒャンウタキイシモン)」、さらに進むと「歓会門」、宮中の飲料水として使われた「龍樋(リュウヒ)」
「瑞泉門」→「漏刻門」→「広福門」→礼拝所の「首里森御嶽(スイムイウタキ)」、そして「奉神門」へと続く。
この他に「木曳門」「久慶門」「右掖門」「継世門」など大小12の門と城外の坊門があり、首里の街全体が城郭都市であったことが分かる。
「奉神門」では毎朝8:55から「ウケージョー」の儀式を公開しているそうだ。
「ご開門~」をウチナーグチにすると「ウケージョー」となる。
ドラが鳴り、この掛け声と共に門が開放され、観光客を迎い入れてるそうだ。
「首里城祭」のメインとも言える「琉球王朝絵巻行列」は30日、国際通りで行われた。
「国王・王妃行列」「冊封使行列」「伝統芸能行列」の3部構成で総勢1200人近くの人々が参加動員される華やかな歴史パレードだ。
今年は平成3年(1991年)開始以来初めて、天候不良の為途中で中止となったそうだ。
これがお目当ての観光客には残念だったが、主催者サイドも苦渋の決断だったろう。
「首里城」は本土復帰の翌年、昭和48年(1973年)に「首里城復元期成会」発足する事からスタートし、昭和61年(1981年)に復帰記念事業として国営沖縄記念公園首里城地区として整備する事が閣議決定された。
「首里城」の復元には困難を要したが、鎌倉芳太郎氏所蔵の昭和3年~8年にかけて正殿の大改修の際の古文書・写真が貴重な資料となったそうだ。
平成4年(1992年)に供用が開始し、今では「国営沖縄記念公園」→「首里城公園」として年間多くの観光客が訪れている。
平成12年(2000年)には世界遺産に登録もされた。
私がいた頃は、ともかくいろいろな所で復元工事を行っていた。
当時の散歩コースの一つが焼き物の街「壷屋」を散策しながら、県立博物館に立ち寄る事だったが、更に龍譚池を抜けると、そこここが工事中であった。
思いのほか小さな「守禮の門」の周りでは、紅型の着物に花笠をかぶった琉球美人たちと多くの観光客が写真を撮っていた。
首里城は中国の紫禁城に代表される中国宮殿様式に酷似している。
中央部の広場「御庭(ウナー)」を取り囲むように正殿・北殿・南殿と配されている。
「守禮門」から公園内を訪ねると、城内の礼拝所の一つ、「園比屋武御嶽石門(ソノヒャンウタキイシモン)」、さらに進むと「歓会門」、宮中の飲料水として使われた「龍樋(リュウヒ)」
「瑞泉門」→「漏刻門」→「広福門」→礼拝所の「首里森御嶽(スイムイウタキ)」、そして「奉神門」へと続く。
この他に「木曳門」「久慶門」「右掖門」「継世門」など大小12の門と城外の坊門があり、首里の街全体が城郭都市であったことが分かる。
「奉神門」では毎朝8:55から「ウケージョー」の儀式を公開しているそうだ。
「ご開門~」をウチナーグチにすると「ウケージョー」となる。
ドラが鳴り、この掛け声と共に門が開放され、観光客を迎い入れてるそうだ。
「首里城祭」のメインとも言える「琉球王朝絵巻行列」は30日、国際通りで行われた。
「国王・王妃行列」「冊封使行列」「伝統芸能行列」の3部構成で総勢1200人近くの人々が参加動員される華やかな歴史パレードだ。
今年は平成3年(1991年)開始以来初めて、天候不良の為途中で中止となったそうだ。
これがお目当ての観光客には残念だったが、主催者サイドも苦渋の決断だったろう。
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