狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

自分独り「個」を悟り、運命に委ね、世間と闘った「隠者」たち・・・「『世間』とは何か」を読む

2017-04-23 01:37:54 | 世間・空気
 次の本を読む。
 「『世間』とは何か」(著者:阿部謹也氏、出版社:講談社、出版日:1995/7/20)

 私自身、普段から人付き合いを減らし、人間関係を浅くし、「群れ」に混じらず埋没せず、世間からは一歩身を引いた生活をしている。世間の内に入らずに外から客観的に眺めている事で、その世間の欠点や問題が見えていると自負する。
 その分、周囲からは多少奇異に見られる事が多々有り、周囲に同調しない分、世間と比較しての一般的で普通の人から見れば、生きにくい状態に見られている事と思われる。しかしながら、私は自分の判断を信じ、他人・周囲の評価や判断を疑っている。私は、自分の独自性に自尊心と誇りを感じ、自信を持ち、他人の承認を必要としていない。私は、自分で自分自身に値打ちが有ると思っている。よって、世間にどう思われようが、私には関係が無い。自分で自分を認めれば、それで良いのである。
 勿論、それは自身の思い込みで言っているのでも無く、低いレベルに甘んじる意味でもない。判断基準となり得る絶対的規範を持ち、自分で勉強して知識・教養・情報・経験を得て、自身を高める事を、私は前提としている
 著者は、先人の方々が書き遺した多くの文書を参考文献として用いながら、「世間」について研究し本書に記している。取り上げた先人達は、世を厭い、隠遁生活を送りながら、或いは街中に在りながら、海外生活の経験から、歌、詩、記録、小説等に、世間を客観視しての批判を記し、世間に囚われない生き方、革新的な新たな思想を持っている。
 「万葉集」の歌の中には、世間の虚しさや、歌人の世間の噂との戦いが綴られているという。
 鴨長明は、「方丈記」に当時起こった天変地異を記者として書き遺した。隠者として草庵に住み、世間から距離を置いて観察した。
 吉田兼好隠者として「徒然草」を遺し、その中で「世を軽く思ひたる曲者」を評価した。
 二人をはじめとした隠者は、諸縁、儀式、しきたり、迷信、しがらみを切り離して、矛盾だらけの世間から離れて生活を合理化し、現世よりも死んだ後の後世を重視し、世間を相対化し、自分自身が納得した。
 親鸞の教えを継承した浄土真宗の初期の頃は、信徒は神棚、神札、祠、門松、盆棚、位牌、墓を持たず、寺院や階級も持たないという革新的なものであった。
 井原西鶴は、街中に住みながら自由に新しい生き方をし、艶隠者であった。そして、世間から疎外された乞食や遊女に寄り添った。
 夏目漱石はイギリスに留学し、その個人主義の中での孤独な経験から、小説の中で隠者的な傾向を著し、世間には余り無い、正直で純粋な「坊っちゃん」を著した。
 永井荷風はフランス等に滞在し、孤独を前提として「気質としての厭世」であった。世間を拒否して自分の姿勢を保ち、世間を深く観察して批判した。
 金子光晴はベルギー等を旅し、非常識人で、詩を通して世間との闘いの生涯であった。
 江戸時代の遺風が未だ残っていた明治時代は非個人主義であった為、海外生活の経験を持つ先の3人は、自身の持つ個人主義から世間を批判した。
 著者は日本の世間について言う。世間の枠内でのしきたり等の呪術的な考えを基に差別をする。世間の掟の存在。自分の名誉よりも他人の名誉を重視する。日本の世間は世間の中での人間関係に基準を置いているが、ヨーロッパ(や中東)では心の中の絶対的なもの(神、聖霊)に基準を置いている。そして没個性であると。
 以下、本書より引用する。

 「もとより漱石自身が『隠者』的であったというのではない。作品の中にその傾向がみられるというのである。このように見てくると『徒然草』の吉田兼好から西鶴、そして漱石に至るまで、わが国の文学の世界はいかに多くを一種の『隠者』に負うてきたことだろう。隠者とは日本の歴史の中では例外的にしか存在しえなかった『個人』にほかならない。日本で『個』のあり方を模索し自覚した人はいつまでも、結果として隠者的な暮らしを選ばざるをえなかったのである。」(著者)

 「この時代を知る者にとっては驚くべきこうした洞察力は、これまで見てきたような荷風『世間』を拒否する姿勢の中から生まれたものだった。一方で西欧から学び、それに『気質としての厭世』が加わった個人主義があり、それは日本の当時の風土の中で極端なまでに先鋭化していった。日本の世間や世の中からできるだけ身を離し、世間的な付き合いを避け、非情に生きることを選んだ荷風だからこそ、このように当時の社会と政治を突き放して見ることができたのであった。」(著者)

 「世間の社交的なならわしは、どれも避けられないものばかりである。黙視できない世のならわしに従って、それらを不可欠なものと考えていれば、したいことも多く、身も不自由で、心の落ち着くときもなく、一生はこまごました雑用にさえぎられて、むなしく暮れてしまうだろう。日は暮れ、なお前途は遠い。わが一生は思うようにならない。すべてのかかわりを捨て去るべき時だ。もはや信義も守るまい。礼儀も思うまい。この気持ちを理解できない人は、狂人というならば、言え。正気を失った、人情のない者とも言え。非難されても意に介しないつもりだ。逆に、その決意をほめても、耳を傾けようと思わない。」(「徒然草」第112段、現代語訳:三木紀人氏)

 「つれづれの境遇を苦にする人は、どのような気持なのだろうか。心が他のことに移ることもなく、ただひとりでいるのが一番である
 世間に順応して生きると、心は外界の刺激によって迷いやすく、人と交わると、口にすることも、他人の耳を意識して自分の心を偽ってしまうものである。人とたわむれ、争うにつけ、恨んだり、喜んだりする。安定した心を持てない。さまざまの思いがみだりに起こって、損得をたえず気にする。迷いの上に、酔いしれているようなものだ。さらに、そのうえに夢を見ているようなものだ。あくせくとして、せわしなく生き、自己を失っているという点、万人はみな同じである。
 まだ仏道を悟っていなくても、俗縁を離れて身を閑静なところに置き、世事にかかわらず、心の安定を得るとすれば、一時的にせよ、心が満たされると言いうるのである。『生計・社交・習い事・学問など、迷いのもととなるものを止めよ』と、『摩訶止観』の中にある。」(「徒然草」第75段、現代語訳:三木紀人氏)

 「日本人の美点は絶望しないところにあると思われてきた。だが、僕はむしろ絶望してほしいのだ」(金子光晴氏)

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「世間」とは何か 「『世間』とは何か」(著者:阿部謹也氏、出版社:講談社、出版日:1995/7/20)


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