狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

「偽善の医療」を読んで・・・根本的に、「純粋」では無い「偽善」とは心に偽りが有って表面的に善を行なう事

2013-10-01 04:02:01 | 健康・医療・暮らし 2012~2017
 総タイトル:【「偽善の医療」を読んで・・・根本的に、「純粋」では無い「偽善」とは心に偽りが有って表面的に善を行なう事】

 根本的には、「純粋」では無くて、心に偽りが有って表面的に善を行なう事が「偽善」になるものと、私は思います。
 次の本を読みました。
 「偽善の医療」(著者:里見清一氏、出版日:2009/3/20、出版社:新潮社)
 著者は、東大医学部卒等の経歴や医者と言う社会的地位の高さもあってか、本書で綴られている医療制度や医療体制、医療組織、医療に纏わる慣習、医療スタッフ、患者、患者の家族、世間、マスコミ等に対しての愚痴の中に、少し傲慢さが感じられます。またその愚痴が、医者側の不平・不満のものであって、患者側の利益の為のものでは無い様に感じます。故に、その愚痴医者の偽善を感じました。著者の医療側の不平・不満には一長一短有ると思います。
 全てを一概に見る事は間違いで、医者や看護師、その他医療従事者を一様に見るのも間違いです。偽善的な考えで仕事をしている者もいれば、反対に純粋な気持ちで仕事をしている者もいます。病院の中には臨床現場に出る者だけでは無く、経営に関わる事務職等も存在します。経営部門は基本的にお金の事しか考えていません。また患者側も、モンスター・ペイシェント等を含めて様々な人達が存在します。様々な治療法多様な病院、また例え同じ標準的な病名が付いていても、患者それぞれによって異なった症状・病態がある為に一様な治療が出来ず、オーダーメードの治療が必要な事等、医療の中は様々です。
 しかし、医療組織としてのまとまりや、医者を頂点としてその下に他の医療従事者や病院関係者が従う体制が存在する事、またそこに大学病院等の様に教授等の権威・権力が加わった上での体制が存在する事等から、その中にあって個人の考えが反映され難く、スタッフ一人ひとりの個性も抑えられ、医者以外の多くの医療従事者は医者の指示でしか動けない、それらの上でのチーム医療、そして多くの患者を相手にする場合においても効率化等の時間的な制約や、包括支払制度等の診療報酬の制約等から個別的な対応が難しく、標準治療を施すに過ぎない事等、組織・団体の中にあっては一様にされた様な状態で、組織それぞれによって多少の違いが出ている様に思います。よって組織や体制、制度、慣習の中にあっては一人ひとりの内に偽りが生じ、それが不平・不満に繋がる者もいるとも言えます。
 小さな診療所から大きな大学病院まで、個人から組織までが在る中での違いが在る中、患者とならずに極力医療を遠ざけていたいものですが、非常時・災害時・災難時等で不慮の怪我をしたり病気を患う可能性は有ります。現代ではインターネットで簡単に、一つの症例に対しての様々な治療法やそれに対応する病院等を自分で調べる事が出来ます。インフォームドコンセントで患者から同意を得て医者と患者が協力して治療を進めていくと言っていても、患者側が勉強もせずにろくにその病気や治療に関する知識を持っていない場合にはそれは建前でしか無くなってしまい、かつての様に父権主義(パターナリズム)的に医者による方針に従わざるを得なくなります。一般的に患者側に医者への信頼が高い傾向もある為に、余計に勉強もせずに医者や医療にお任せして安易に寄りかかっている状況も有ります。
 例え偽善で行っているとしても、その行為でその場は成り立ち、医療と言う分野も成り立ち、社会も成り立っています。例え偽善的考えを持ってしても、それによる治療で多くの人が救われています。偽善だ等と言って批判しながら何もしないよりも、偽善的な考えを持ちながらも実際に行動して結果を出している方が良いかもしれません。しかしこれらの場合においての偽善とは、あくまでそれらの人達の内面上の事であって、表面的には大方正しい事をしていると言う意味です。内面上とは心の持ちよう、純粋にお金等私利私欲を度外視して患者の為に行う気持ちであるか、または偽善的に自分の生活の為や家族を養う為、遊ぶ為のお金を稼ぐ為等の手段として行う気持ちであるかの違いが有ります。根本的には、その心の中身や考え方があくまでも大事であると思います。表面的に正しい事をしたから良いのでは無く、内面的にどういう気持ちで行ったかが嘘、偽りのない誠の表れ、誠実となり偽善では無い事であると思います。心に偽りの無い表面の善は純粋さの表れ。純粋さには知識の不足からのものも有りますが、知識を持つ事によってその純粋さが失われてしまう事も言えると思います。また、純粋であるが故に、偽善に当たると分かった場合に嫌悪感を抱く場合もあると思います。
 そうは言っても、世の中お金で成り立っており、お金が無い事には医療技術の進歩の為の研究等も行えません。どの程度であるかの問題も有りますが、この世・社会で生きて行く上では、自分の中の純粋な気持ちとお金に関する事をはじめとした偽善的な事との擦り合わせ、整合性が必要になる、それをせざるを得ないとも思えます。
 しかし現代医療には、表面的な行為にも実際は偽善に当たるものが多く有ります。薬、ワクチン、抗がん剤等の癌治療、手術、がん検診、人間ドック、脳ドック、精密検査等、その目的が医療側の仕事を増やす為であるとか、メーカーの利権と癒着、医療訴訟対策、その訴訟対策からの過剰な医療機器・設備による経営を支える為、医療ビジネス等、患者の為と言うよりも医療側の為と言えるものが多く有ります。自分で勉強せずに医療側の言う事をを鵜呑みにしてその予防・治療の方針に従っているだけであると、患者は医療を信頼している為に副作用に気付かなかったり、無意味・無駄な予防・治療である事にも気付かなく、ちゃんとしてくれていると思い込んでいる事となっています。また医療側もその辺りの知識に欠けている人が多く、常識とされている事を正しいと思い込んでいる為に、それらが偽善に当たると言う事も知らずに行っています。患者の為になると純粋に思い込んで行っている為に、その行為には罪は無いと思います。もしも例えばこの薬を処方して悪くなると知りながら患者に与える等と言う場合には、悪い事、偽善に当たる事を知りながら行う為に、その行為は罪になります。
 本書に書かれている内容は、一長一短有る様に思います。セカンドオピニオンによって医者側の負担が増えている現状があるらしいです。しかし、これは患者側にとっては重要で必要な事です。患者はそれぞれ出身大学等の繋がりの無い複数の医者から直接聞くだけでなく、自分でインターネット等で調べ勉強する事も必要です。
 リビング・ウィルを書いて、ボケたりしないで意識のしっかりしている間に、告知や延命治療について自分の場合にはどうして欲しいかを、文書にしてその意思表示を書いておく事は必要です。医療側は、その意思表示通りに行なわなくてはなりません生命は人によって操作されてはならず、例え患者に自殺願望があってもその自殺幇助に当たる事は行ってはならず、また勝手に医師の判断で安楽死・尊厳死に至らせる事も間違いです。死に関しては宗教や哲学が関係して来ますが、それにおいての捉え方も考慮しなければなりません。キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の信者の場合においては、人の生命はあくまでも唯一の創造主のものであると言う真理があるので、人によって勝手に生命の操作をする事、死期を決める事は罪になります。よって、意識が無くなり回復する見込みが全く無くなる植物人間(大脳の機能の消失で脳幹の機能のみが残る状態)になるまでは、生命維持装置を外す等の安楽死は行ってはなりません。人によって死期を決める殺人・自殺・自殺幇助に値する安楽死・尊厳死は間違いとなります。
 終末医療における緩和医療は、ホスピスにおいて延命治療をせずに、癌等の疼痛に対してモルヒネ等を使用してそれを緩和し、患者一人ひとりに適合した精神的支援を行って、生を全うして自然死に至る事が出来る様にする為のもので、本来の在り方として正しいものと思います。逆に延命治療として癌治療の為に血液癌以外の固形癌の内9割方は効かない猛毒の抗癌剤の投与で副作用に苦しんだり、手術後の後遺症によってQOLが低下した生活を送らざるを得ない状況は、幸福では無いばかりか延命効果も有りません
 本書より、「現在の医療不信は、後者、つまり医者が患者を信じていない、ということの方が遥かに深刻である。同意書云々とは別に、医者が予防線を張り、必要以上の検査を行ない、過剰診療を行うことは、当然のことながらアメリカでは「進んで」いて、こういうのを予防医療(preventive medicine)という。病気を「予防」するのではない。自分が訴えられない様に予防するのである。これを非難することが、誰にできよう。」。

偽善の医療 (新潮新書)偽善の医療 (新潮新書)価格:¥ 735(税込)発売日:2009-03