かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 137

2020-12-26 18:53:45 | 短歌の鑑賞
   ブログ版 渡辺松男研究 16   二〇一四年六月
     【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)60頁~
      参加者:曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
      レポーター:曽我 亮子   司会と記録:鹿取 未放


137 樹の腸は高さ三十メートルへ達して月の春夜 直立

       (レポート)
 樹木の髄は高さ三十メートルにも伸び春の月夜を真っ直ぐに立って何とも立派で美しい。考えてみると腸はくねくね曲がりながら下へと向かうもの―しかし樹木の髄液は根から上へ向かう。この作者らしい面白い着想の一首ではないでしょうか…… (曽我)


      (紙上意見)
 樹の内部に水管(本当は何とよぶのか?)が通っているが、それを三十メートルの腸に見立てている面白さ。(鈴木)
 

     (発言) 
★春夜で、これも夜ですが、136番歌(ヒマラヤ杉月光環をつらぬけり真夜に見る樹は黒のどく
 どく)より明るい印象ですね。ヒマラヤ杉は高さ六十メートルになるものもあるようなので、こ
 れもヒマラヤ杉でしょうか。「樹の腸」という例えが自然に受け入れられます。(鹿取)
               
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渡辺松男の一首鑑賞 136

2020-12-25 19:55:30 | 短歌の鑑賞
   ブログ版 渡辺松男研究 16   2014年6月
     【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)60頁~
      参加者:曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
      レポーター:曽我 亮子   司会と記録:鹿取 未放

               
136 ヒマラヤ杉月光環をつらぬけり真夜に見る樹は黒のどくどく

         (誌上意見)
  「月光環」(月の周囲に見える光の輪)をヒマラヤ杉が直立して貫いている。真夜に入って見る樹は、黒々として、まるで生き物のようにどくどくと脈打っている。(鈴木)


          (発言) 
★黒のどくどくからは生命力の旺盛さを感じます。フロイト的に見ると環は女性、垂直に貫く杉の
 木は男性で、とてもエロチックな歌とも読めます。真夜ですから神秘的で神々しい美しさも感じ
 ます。(鹿取)
★「月光環」は仏教語ではないでしょうかね。赤と黒には生命力がありますから。(慧子)


          (まとめ)
 「月光環」について、Wikipediaには「薄い雲がかかったときに、それらの周りに縁が色づいた青白い光の円盤が見える大気光学現象のこと」と出ている。ひんやりとしてシャープで美しい語である。それを貫くヒマラヤ杉を幾何学的な形状の美しさではなく、「黒のどくどく」と勢いのある動きでとらえ、生きているものの生々しさを出している。(鹿取)












12月24日
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渡辺松男の一首鑑賞 135

2020-12-24 19:21:17 | 短歌の鑑賞
   ブログ版 渡辺松男研究 16   二〇一四年六月
     【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)60頁~
      参加者:曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
      レポーター:曽我 亮子   司会と記録:鹿取 未放

               
135 一のわれ欲情しつつ山を行く百のわれ千のわれを従え

         (レポート)
 きのこの季節になると山に行きたい欲望にかられる。それほど山は魅力に充ちている。
  一のわれ=作者は「現代短歌新聞」“歌は時間の奴隷ではない”の中に、一のわれについて語  っている。「一のわれになった時恐怖心に侵されました…。一を生きることになってしまった  者として歌いたいことだけを歌っていきます……」と。(曽我)

         (誌上意見)
 われの中には百のわれ千のわれ、たくさんのわれがいる。そのときどきの環境に応じてそれに適したわれが顕れる。山行の中で、欲情(どのような欲情かわからないが)した一のわれが他のたくさんのわれを抑制して、歩き続けている。「欲情」には切羽詰まったものが感じられ、それゆえに、他のわれは黙って従うのである。(鈴木)


          (発言)
★「現代短歌新聞」に載った「一のわれ」というのは病気の確率の話で、「一のわれ」は病気が確
 定された状態を表現している言葉です。だから、この歌での「一のわれ」とは全く文脈の違う話
 ですね。それから鑑賞している『寒気氾濫』は1997年出版ですから、作者が病気になられる
 より20年以上前の歌集です。(鹿取)   
★金子兜太に「けふはどの本能と遊ぼうか」という俳句があって、その類似形かと。(慧子)
  ※後で調べたところ「 酒やめようかどの本能と遊ぼうか」が正しいようだ。(鹿取)
★鈴木さんは「一のわれが他のたくさんのわれを抑制して」と書いているけど、「従え」は「抑制
 して」ではなく私は「引き連れて」と読みました。一のわれが欲情しているのだから百のわれ
 も千のわれも同様に欲情しているんだと思います。(鹿取)
★百、千は〈われ〉の構成要素。でも、それは過去にさかのぼれば青年時代、少年時代の〈われ〉
 にもなるし、親や先祖にもなるし、人間以外の猿やチンパンジーや、もっと過去の海の微生物み
 たいなものにもなる。また、渡辺さんは「平行宇宙」とか考える人だから〈われ〉の構成要素は
 そこにもあるのかもしれない。(鹿取)  


       (後日意見)
『泡宇宙の蛙』に「一のわれ死ぬとき万のわれが死に大むかしからああうろこ雲」がある。『泡宇宙の蛙』の自選5首に本人が選んでいる。(「かりん」2010年11月号)(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 134

2020-12-23 20:24:36 | 短歌の鑑賞
   ブログ版 渡辺松男研究 16   二〇一四年六月
     【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)60頁~
      参加者:曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
      レポーター:曽我 亮子   司会と記録:鹿取 未放
               

134 この木ときどきたいくつそうにうつむきてぬるぬるの根を地中から出す

       (紙上意見)
 樹ではなく、「この木たいくつそうに」といっているところから、路からよくみかける木なのだろう。さらに「うつむきて」とあるので、低木のそれなりに年数を経た木が、地表へ根をはりだしているのだろう。たぶん雨に濡れて根がぬるぬると湿っているのだろうが、タコの足のように生き生きしている。(鈴木)

           (発言)      
★上がり根というか土から浮いている根っこのことだと思います。退屈だから根が地中から遊びに
 出てきた。(慧子)
★ガジュマルなんかは地中から出てるけど、ぬるぬるではないわね。それにこの歌では時々根っこ
 を出すというのだから常時出ているガジュマルの根っこなどとは違うと思います。私はこのぬる
 ぬるは情念というか存在の根っ子つまり生の根源的なものをさしているように思います。この木
 って言ってますけど、木でもあり、〈われ〉でもある野でしょう。存在の退屈とか、生きてる根
 拠のむなしさとか、それでも何か探りたいとか、この根はそういう哲学的なものだと思います。
 サルトルの「嘔吐」とか朔太郎の詩とかいろんな関連を考えました。ただ、そういう重い主題を
 余裕を持ってうたっているところが面白いと思います。ユーモアというか、よい意味での幼児性
 というか。(鹿取)


        (まとめ)
 この歌からサルトルの「嘔吐」を連想したり存在の根源を問題にしていると考えるのは、あながち飛躍しすぎではないと思う。「宙宇のきのこ」一連には神の存在を問う歌があり、「サルトルも遠き過去となりたり」や「存在をむきだしにせよ」のフレーズをもつ歌などがあるからである。
 もちろん「サルトルも遠き過去となりたり」とあるように時代は実存主義をはるかに忘れ去ったし、作者自身も通り過ぎた思想をそのまま歌に詠み込むことはないだろう。だから「嘔吐」のロカンタンがマロニエの木の根っこを見て感じたような、存在を根底から覆されるような転換はこの歌にはない。もう転換は経験ずみだからだ。でも、主人公ロカンタンが意識の転換後に書く「そして怪物染みた軟かい無秩序の塊が――恐ろしい淫猥な裸形の塊だけが残った。」(白井浩司訳「嘔吐」)と「ぬるぬるの根」にはいくらか共通項があるように思われる。「嘔吐」から離れても、この「ぬるぬるの根」は、人間の内臓のようでもあり、どろどろした魂の核のようでもある。
 また、朔太郎との関連もありそうな気がする。去年かりんで「アンチ朔太郎」という渡辺松男論を書いたら、当の渡辺さんから「朔太郎は好きではないが、アンチというほど嫌いではないです」というメールが届いた。もちろんアンチは言葉の綾で朔太郎に対する渡辺さんの距離はそういう感じだろうとは思っていた。その後、朔太郎のどんな詩が好きかお互いのやりとりがあったが、渡辺さんは朔太郎をよく読みこまれていることが分かった。サルトルの哲学的な考察と朔太郎の自意識は次元が違うが、別の階層にしろ作者の精神生活のいずれかに、どちらも奥深く仕舞われているのかもしれない。
 萩原朔太郎の詩二編を次にあげる。
 
光る地面に竹が生え、/青竹が生え、/地下には竹の根が生え、/根がしだいにほそらみ、/  根の先より繊毛が生え、/かすかにけぶる繊毛が生え、/かすかにふるえ。   「竹」

  冬至のころの、/さびしい病気の地面から、/ほそい青竹の根が生えそめ、/生えそめ、/そ  れがじつにあはれふかくみえ、/けぶれるごとくに視え、/じつにじつにあはれぶかげに視え。  
  地面の底のくらやみに、/さみしい病人の顔があらはれ。  
                      「竹とその哀傷―月に吠える―」
  
 作者の樹木に対する親しみは、もちろん朔太郎を識る以前からのものだろう。だから根っこがうたわれようが朔太郎の直接影響では全くないが、それこそ遠く離れた地下茎のようなものでかすかに繋がっているようにも思える。朔太郎の根は繊細で病的な暗い自意識そのもののようだが、渡辺の根っこはぬるぬるしていながら明るい。少しぼーとした木が自分のぬるぬるの根っこを眺めている図は想像するだけで楽しい。渡辺の歌は朔太郎よりずっとダイナミックで、ユーモアもあり、何よりも世界にむかって開かれているようだ。(鹿取)
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清見糺の短歌鑑賞  110,111

2020-12-22 20:35:42 | 短歌の鑑賞
    ブログ版清見糺の短歌鑑賞 17  酔いどれ船 
                          鎌倉なぎさの会   鹿取 未放
           
110 熱のために豆腐のように崩れゆく脳をおそれて嚥む解熱剤
              「かりん」97年8月号

 「豆腐のように崩れゆく脳」に懼れの実感がある。一、二句それぞれ末尾が「に」となっている上、初句は一音字余りである。初句「に」はなくとも十分意味は通じるので計算上の字余りであり、高熱でぼんやりした感じを出しているのだろう。その分下句にスピード感がある。(鹿取)


111  風邪ひけば観世榮夫も咳をする貴妃のかんざし揺れて序の舞
               「かりん」97年8月号

 「楊貴妃」の序の舞。静かな平行移動である舞なのに、コンコンと咳をするのでかんざしが揺れるのである。しかし、そのかんざしの揺れにも楊貴妃の妖艶な姿態のイメージを感じ取っているのだろう。カ、カ、カと乾いた音を重ねて咳をしながら舞う観世榮夫を危ぶみ、はらはらしながら観ている気分を歌っている。(鹿取)   
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