かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞  347

2021-10-31 16:53:26 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究41(2016年8月実施)『寒気氾濫』(1997年)
     【明快なる樹々】P139
      参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部 慧子    司会と記録:鹿取 未放


347 日のなかにまどろみていし白鳥が羽ばたくときに日をはじきたり

(レポート)
 日のなかにまどろみていし白鳥はしずかなひかりをまとっていたのであろう。羽ばたくという命の動きを日をはじきたりと捉えて美しい。静から動にうつるときひかりが動いた。(慧子)


(当日意見)
★全体意識との調和と自我。(真帆)
★独立し輝く白鳥。(M・S)
★日の中にまどろんでいた時は、日のめぐみと共にあった白鳥は、馬場あき子が論じ全国大会でコ
 メントされた「ありがとういつも見えないあなた」に通じる感じ。ところが飛び立つときは日を
 はじかざるをえない。独立とか巣立つときのかなしみのように思う。白鳥は松男さんの歌集に時
折出てきますが、その 白鳥シリーズの出発点のような歌かもしれませんね。(鹿取)


     (後日意見)
 (当日意見)の中で引用した歌は1999年刊行の『泡宇宙の蛙』の【白鳥】一連10首の中にある「白鳥はふっくらと陽にふくらみぬ ありがとういつも見えないあなた」。掲出歌に関連があると思うので「かりん」2010年11月号より作者の自歌自注を引用しておく。

 【冬の陽のあたたかいときなどに感じる、何かに包まれているという感覚と、白鳥を存在させているものは同時に私を存在させているものだという感覚は、同じようなものなのです。その感覚を「あなた」と言っています。「ありがとう」という言葉ですが、そう思える自分は自分のこころの全体の三分の一でした。あとの三分の一はそんなことないよ、嘘だ、欺瞞だ、と。あと三分の一は恥ずかしいと思っていました。今これを書いている二〇一〇年八月二十九日時点では、こういう歌を詠んだ自分を肯定しています。「ありがとう」と言っておいて良かったと思います。】
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渡辺松男の一首鑑賞  346

2021-10-30 13:50:00 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究41(2016年8月実施)『寒気氾濫』(1997年)
     【明快なる樹々】P139
      参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部 慧子    司会と記録:鹿取 未放


346 逆光の湖につぎつぎ白鳥の降りたちてきてひかりにかわる

    (レポート)
 逆光だから作者にはまぶしい湖が広がる。そこへ白鳥がおりたちてひかりにかわると言う。まぶしんでいると物は完全には見えない。その状態を捉えたのであろう。白鳥はまぶしさのなかでまぶしいものになった。動から静へうつるときひかりに変容した。(慧子)


    (当日意見)
★湖はいつも光を生んでいる。(慧子)
★以前に「秋桜の逆光の路」の歌を鑑賞したが、あれと同じで、白鳥が光輝いている湖と一体
 になって光になる。(真帆)
★逆光の中を黒っぽく見えながら降りてきて、日溜まりに降りてくると白く見える。(M・S)
★ただ逆光だというだけだと白鳥である必然性がないと思うのですが、ここは対象が白鳥であるこ
 とが大切です。白い色と、やはり白鳥という鳥に清らかさとか神々しいものを見ているんだと思
 います。それが次の歌「日のなかにまどろみていし白鳥が羽ばたくときに日をはじきたり」 に 
 繋がっているのでしょう。(鹿取)


    (後日意見)
泉発言の「秋桜の逆光の路」の歌の全体は「秋桜の逆光の路へ行くひとよまぶしき路はにんげんを消す」。『寒気氾濫』の「垂直の金」の一連にある。
 また、この前後の歌をもっと突き詰めていくと『泡宇宙の蛙』(1999年刊)の【白鳥】の中の名歌「白鳥はふっくらと陽にふくらみぬ ありがとういつも見えないあなた」に行き着くと思うが、その点は次の347番歌で解説する。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞  345

2021-10-29 20:02:57 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究41(2016年8月実施)『寒気氾濫』(1997年)
     【明快なる樹々】P139
      参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部 慧子    司会と記録:鹿取 未放


345 それぞれにそれぞれの空のあるごとく紺の高みにしずまれる凧

    (レポート)
 「紺の高みにしずまれる」と凧の様子の不思議なしずもりを把握していよう。だが、凧は凧のみの力で空にあるのではない。物と物との関係を、言い換えれば見る側の認識を一首にした。(慧子)


      (当日意見)
★「凧は凧のみの力で空にあるのではない」は、風とかそういうことを言っている。紺の空だから
 夕方だろうか。(真帆)
★いや、信州の空なんかは昼間でも紺色です。(M・S)
★幾つかの凧が浮いている。空は一つなんだけれど、まるで一つの凧に一つの空があるかのように、
 紺色の空の高みに所を得てそれぞれの凧はしずまっている、というようなことかしら。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞  344

2021-10-28 14:53:06 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究41(2016年8月実施)『寒気氾濫』(1997年)
     【明快なる樹々】P139
      参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:渡部 慧子    司会と記録:鹿取 未放


344 群れざるを矜恃のごとく帰る道ヘッドライトに晒さるる道

      (レポート)
 大勢のなかで仕事か何かを済ませ帰路をたどる。群れないことを矜恃として帰って行く道、どんな道かといえばヘッドライトに晒さるる道だ。思えば、どの道であれ、ヘッドライトに終始照らされているとは思いがたい。また、矜恃にしても折にはかげったりゆれたりしてつねにつねにはりつめている状態ではないだろう。その微妙なところを照らさるるではなく、晒さるるとの語を選んでいる。いずれにしても上句の虚と下句の実がひそかにひびきあっている。(慧子)


   (当日意見)
★「ヘッドライトに晒さるる」のは〈われ〉ではなく道そのものではないですか。「晒さるる」は
 連体形で道に掛かっていますから。(鹿取)


   (後日意見)
 後で読んでみると、「矜恃のごとく帰る道」と「ヘッドライトに晒さるる道」は対句になっているので、鹿取の(当日意見)には誤解があるようだ。対句だと「ヘッドライトに晒さるる」のは〈われ〉という解釈になるのだろう。独り帰ろうとしている〈われ〉の車は、いつも群で行動している人たちの車のヘッドライトに晒されている、ということか。いや、ヘッドライトは一台分しか届かないか。まあ、理詰めで考えなくても、「ヘッドライトに晒さ」れているような気分なのだろう。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞  343

2021-10-27 15:45:08 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究41(2016年8月実施)『寒気氾濫』(1997年)
     【明快なる樹々】P139
      参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部 慧子    司会と記録:鹿取 未放


343 生き方の違いに寒き風が吹きバスを待つ間の友の背わが背

      (レポート)
 なるほど、生き方の違いを痛感するときとは寒風の中なのかもしれない。背とは当人の思惑の及ばないところで、それを、バスを待つ間に友の背を見た。友のさまざまなある時、ある事が想起された。が、同時に、作者自身も、この世に背を晒している。友の背と作者の背は当然違っていよう。生き方が違うのだから。けれど、このように無防備に背を晒しながら生きているのだなあという一首。(慧子)


   (当日意見)
★生き方が違うと分かった瞬間、寒い風が吹いた。(真帆)
★はい、生き方が違うので日頃から反りが合わない友なんですね。たまたまその友と一緒にバスを
 待つ羽目になってしまった。おそらく共通の話題も乏しいし、無理に話しても会話は続かないの
 でしょう。お互い気詰まりな感じでなかなか来ないバスを待っていると「友の背わが背」に寒い
 風が吹き抜けていった。(鹿取)

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