かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 156

2022-10-31 17:52:42 | 短歌の鑑賞
  2022年度版 渡辺松男研究2の20・21(2019年3月実施)
     Ⅲ〈薬罐〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P99~
     参加者:泉真帆、岡東和子、T・S、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆   司会と記録:鹿取未放


156 かくれんぼの鬼の孤独の小ささよ農村消滅してしまいけり

     (レポート)
 連作「薬罐」は、祖父との春夏秋冬の農作業の苦労や汗や楽しみを体験的に詠いつなげ、さいごにそれらがすべて幻となってしまった孤独が詠まれている。これまでの十首が生き生きとしているからこそ一層、「かくれんぼ」のあのひとりぽっちのあてどなく彷徨う「鬼」の寂しさが読者に手渡される。作者の住まいが群馬であるところから、この畑の確かな所在地はわからないまでも、もしも栃木と群馬をながれる渡良瀬川の周辺だったとすると、足尾鉱毒事件の谷中村のような公害による廃村だったのかもしれない。いや、一切そういうことではなく過疎の末に廃村となったのかもしれない。いずれにしても、そこに生きていた人々も村もまるごと消滅してしまったその喪失感は計り知れない。作者の少年時代に抱いた強烈な喪失感であったろうことを、「かくれんぼの鬼」という表現に匂わせているように思えるが、どうだろう。(真帆)


 農村というものが都市化によって消滅してしまったということだろうか。田畑ももう無くなってしまったのだろう。昔、かくれんぼをして鬼になり心細かった思い出があるが、あの鬼の孤独は何とちっぽけだったろう。今や思いで出のよすがとする農村風景が丸ごと消滅してしまった。その喪失感。
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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 155

2022-10-30 15:09:26 | 短歌の鑑賞
  2022年度版 渡辺松男研究2の20・21(2019年3月実施)
     Ⅲ〈薬罐〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P99~
     参加者:泉真帆、岡東和子、T・S、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆   司会と記録:鹿取未放


155 茎あかきほうれんそうを抱えもち祖父の顎にはコーカサスのひげ

       (レポート)
 茎の赤いほうれん草、というのが懐かしい。いかにも日をあびて育ち、土から収穫した肉厚のほうれん草のようだ。このごろスーパーで売られているほうれん草は土に育っていないものもあるらしく、ひ弱で、茎の根のほうが赤いものはあまり見当たらない。ひげをたくわえた祖父の、大地にたつ姿が想起される。(真帆) 


 抱え持っているのだから、この立派なほうれん草は自宅で食べる為に収穫してきたものだろうか。ここでコーカサスがどういう効果をもっているかよく分からないのだが、濃いあごひげを生やしたたくましい祖父像が浮かんでくる。
 ところで、コーカサスはプリニウスの『博物誌』には「白い雲」という語源だと出ているそうだ。現在、コーカサスと呼ばれるのはカスピ海と黒海に挟まれた、ジョージア、アゼルバイジャン、アルメニアなど旧ソ連から独立した国々で、国土は山岳地帯が多く、たくさんの民族が住んでいるという。この歌のコーカサスは白い雲が似合いそうな農業国のイメージだろうか。

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 154

2022-10-29 13:12:47 | 短歌の鑑賞
  2022年度版 渡辺松男研究2の20・21(2019年3月実施)
     Ⅲ〈薬罐〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P99~
     参加者:泉真帆、岡東和子、T・S、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆   司会と記録:鹿取未放


154 木のうえにだあれもいない二月にて祖父は日のあたる石の上に座す
 
    (レポート)
  これは「だあれもいない」の語によって不思議な読後感をもった一首だった。下の句は堂々たる祖父の景としてもありありと伝わるし、石の熱量までも伝わってくる。しかし上の句はどうだろう。これは鳥も昆虫もすんでいない木と思ってみたり、夏は木にのぼり枝で涼をとる人がいるが二月ともなればそんな人もおらず誰はばかることなく木下に休息することができる、そんな光景かともおもった。(真帆)


 152番歌(うら庭でこんにゃくだまを搗く祖父とくみあげ井戸と冬木のけやき)との関連で言うとこの「だあれもいない」木は欅だろうか。「だあれもいない」は確かに不思議な表現だが、ここは人間のことだろう。夏の間は子どもたちが面白がって登っていたという事か、葉を落とした冬の木の方が葉が邪魔しないので登りやすいように思うが、寒くて着ぶくれているので登らないのだろうか。石は木とは別の所にあると思っていたが、レポーターのいうように木の下だろうか。確かに冬木には葉が無いので日当たりはよいだろう。
 石はどこにあっても陽に温もっていて、腰かけると暖かい。一仕事終えた祖父がその石の上で日向ぼっこをしている。その情景に幼い〈ぼく〉も安堵感とともに包まれているのだろう。

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 153

2022-10-28 10:55:22 | 短歌の鑑賞
  2022年度版 渡辺松男研究2の20・21(2019年3月実施)
     Ⅲ〈薬罐〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P99~
     参加者:泉真帆、岡東和子、T・S、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆   司会と記録:鹿取未放


153 牛の子の死にて生まれて湯気あぐるをトラクター来て運びてゆけり

     (レポート)
 トラクターがまだ普及していない頃の田畑は牛が耕していたが、トラクターが普及すると牛もだんだん不要になってくる。一首では「湯気あぐる」に死んで生まれた牛の赤ちゃんの体温まで感じられ、家族の一員である親牛の生んだ子が哀れにも運ばれてゆくのを見送る作者の寂しさがつたわる。(真帆)


 農家にとって牛は家族同様で、牛のお産をおそらく家族で見守っていたのだろうが、牛の子は死産だった。死んだ牛の子が湯気を上げている描写に、家族の悲しみ、悔しさがにじむ。母牛へのいたわりの思いもあるだろう。とはいえ、牛の子は財産、それがむなしく消え去っていく下の句には複雑な落胆の気分があるのだろう。牛の子しか描写されていないが、取り囲む家族が見え、その様々な思いも見える。           
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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 152

2022-10-27 19:45:25 | 短歌の鑑賞
  2022年度版 渡辺松男研究2の20・21(2019年3月実施)
     Ⅲ〈薬罐〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P99~
     参加者:泉真帆、岡東和子、T・S、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:泉 真帆   司会と記録:鹿取未放


152 うら庭でこんにゃくだまを搗く祖父とくみあげ井戸と冬木のけやき

       (レポート)
 「こんにゃくだま」「くみあげ井戸」に昭和中期の農村の風景がうかがえる。けやきの歌が多い作者だが、一首のけやきが作者の原風景かもしれない。(真帆)


149番歌(むっすむっすとこんにゃくだまは地に太り そよ近代のあらざりし国)に引き続いて、こんやくだまの歌。こんにゃく芋からこんにゃくを作過程で、こんにゃくだまを搗いているところ。裏庭で作業しているのだ。作業している傍にはくみ上げ井戸もある。
そして、これは庭の隅だろうか、葉をすっかり落とした欅の木が立っている。冬のありふれた労働風景だったのだろうが、今読むと一幅の絵のように見える。もちろん、絵の中にはこんにゃくだまを搗く祖父を眺めている幼い〈われ〉が描かれている。

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