かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 248

2023-01-31 10:36:07 | 短歌の鑑賞
  2023年度版 渡辺松男研究2の32(2020年2月実施)
     Ⅳ〈夕日〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P160~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆    司会と記録:鹿取未放


248 足跡からつぎつぎ消されゆくのですねどのひともやがて地上から浮く

      (レポート)
 この一首は作者の哲学や世界観が凝縮したうたのようにおもえる。地上から天へ昇るものたちは皆、地に低きところに生きる者から、もしくは、地に低き心を手に入れた者から順に昇天できると詠っているのではないだろうか。あるいは人の死の直前には、みなこのような静かな悟りに満ちた愉悦があるとも思える。(泉)


           (紙上参加)    
 足跡から次々消されてゆくのは亡くなって、過去の人となってゆく人たちのことだろうか。殊に、地に足をつけて地道に善意をもって他者の為に生きた人たちは、亡くなって忘れられてゆくけれど、地上から浮いて、天に昇っていくんだろうなと、そうあってほしいなと作者は願っているのだと思う。上句の「ですね」という優しさにそれが感じられる。この前の歌(茄子の花下向きに咲くなにゆえにマザー・テレサが気にかかるのか)にあるマザー・テレサを思っているのかもしれない。(菅原)


        (当日意見)   
★渡辺さんにしてはわかりやすい歌ですね。「浮く」がポイントかな。素直な歌で
 すね。(A・K)
★感覚的にとてもよくわかる歌です。「足跡からつぎつぎ消されゆく」というのは
 親しい人が亡くなった時に実感したのでよく分かる気がしました。生きている間
 は地に足をつけて歩いているけど、その痕跡がだんだん無くなる。(鹿取)
★「浮く」ということは軽くなるということ。天国とか極楽とかは関係なく浮いて
 いく。消えるではなく浮く、生身の人間ではなくなる。「ですね」で生きている
 歌かな。人にも聞いているし、自分でも自問自答しているような。(A・K)
★以前に重力にこだわった歌が何首かありましたが、死ぬって事は重力から解放さ
 れるんですね。マザー・テレサの続きではあるけど、「浮く」が天国とかには繋
 がらないとA・Kさん同様私も思います。(鹿取)
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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 247

2023-01-30 12:24:09 | 短歌の鑑賞
  2023年度版 渡辺松男研究2の32(2020年2月実施)
     Ⅳ〈夕日〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P160~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆    司会と記録:鹿取未放

247 茄子の花下向きに咲くなにゆえにマザー・テレサが気にかかるのか

       (レポート)
 茄子には、お盆に先祖の御霊が往来するとき乗るという精霊馬や精霊牛をおもう。茄子というものには何か生死や魂が宿っているようにおもう。
 1997年9月に亡くなったマザー・テレサは人生を、飢えている人、家のない人、病の人、恵まれない人などに捧げた。そのマザー・テレサが着用していたサリーや頭巾(ウィンプル)には、茄子の色に似た青紫の三本の線が入っている。それぞれには意味があり、生地の白色は純潔さを、三本の線は清貧・貞潔・従順を示しているという。うつむき加減に楚々とさく茄子の紫色の花からマザー・テレサを連想し、白い生地や三本の線が示しているような姿を見たのではないだろうか。(泉)


          (紙上参加)
 茄子の花は地味だが意外と可憐でうつむいて咲く。なるほど、マザー・テレサの尼僧姿でうつむいて奉仕する姿は茄子の花に似ているかもしれない。それを見て、マザー・テレサを連想したことに、ただ似ているというだけではない自分の中にあるマザー・テレサ的な生き方へのあこがれのようなものを、作者は感じ取っているのかもしれない。今回の一連は、1997年にマザー・テレサが亡くなったことに心を寄せて作られたのではないかと思う。(菅原)


        (当日意見)
★なすびってインド原産だそうです。(慧子)
★マザー・テレサ的なものへの憧れって菅原さんが書いていて、そうだなあとすご 
 く思いました。(泉)
★とっても有名な女優さんで、今名前を思い出せないけど、そういう慈善活動して
 いる人の歌を松男さん作っていましたね。(鹿取)
★茄子の花が下向いて咲くのは、マザー・テレサの視線が下に向いているというこ
 とですね。貧しい人とか虐げられた人とか。そういう視線の人が気に掛かるのは
 作者も同じ指向をもっているからでしょう。(A・K)

       (後日意見)
 『泡宇宙の蛙』は1999年刊なので、なるほど菅原さんがお書きのように1997に亡くなったマザー・テレサが念頭にある一連なのだろう。
 ところで、鹿取の当日発言中の女優さんはヘップバーン、ユニセフの親善大使だった。同じ『泡宇宙の蛙』の何頁か先に出ている。(鹿取)
オードリー・ヘップバーンの耳年々に巨大になりてアフリカを覆う
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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 246

2023-01-29 10:03:50 | 短歌の鑑賞
  2023年度版 渡辺松男研究2の32(2020年2月実施)
     Ⅳ〈夕日〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P160~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆    司会と記録:鹿取未放

246 山らっきょうの花じくじくと咲く秋や人工骨は肉をはみだす

       (紙上参加)
 作者自身のことかはわからないが、膝、肘。腰などを痛め、人工骨を入れる人は多い。その人工骨が肉からはみ出したらさぞや痛いだろう。山らっきょうは山地の草原などに生えるようで、その花は紫色のつぶつぶとしたかわいい花。それがじくじくと咲くというのは、雨の多い秋なのだろう。この「じくじく」が湿っぽさと痛みの両方を実感させ、いつもながら、オノマトペの使い方が上手。(菅原)


    (レポート)
 ヤマラッキョウは「じくじくと」した湿原に咲いているという。花は紫の小花が寄り集まって一つになって咲く。さて一首だが、「じくじくと」に晴れないじくっとした気分もある。問題は下句で、肉をはみだす人工骨の異常な状況にギョッとさせられる。しかしそこにこそ、この歌の面白味があるのだろう。そういったことを踏まえ一首をつぎのように鑑賞した。ヤマラッキョウの咲く枯野の、じくじくとした足元をふと見ると自分の足の皮膚から人工骨が飛び出しているではないか、息の止まる思いによくよく見ると、ヤマラッキョウの花茎を踏んでいて、その拍子に土からその根っこの、つるんとしたラッキョウが土から飛び出していたのだ。ちょっとしたサスペンス映画を見たような楽しさある一首だった。サスペンス映画のような効果を生んだのは〈人工骨〉〈肉をはみだす〉の具体的表現に依るだろろう。(泉)


        (当日意見)
★普通だったら人工骨のようならっきょうの根、とか言っちゃいそうだけど、「人
 工骨は肉をはみだす」と言い切ったところが面白さのポイントかなあと。前の歌
 (プログラム細胞死からぬけいだし蟬、蟬、蟬、蟬の爆発)のプログラム細胞死
 はよく分からなかったのですが、その解説に何かが突き抜けて現れるようなこと
 が書かれていたので、そんな関連から「肉をはみだす」が出てきたのかなあと。
   (泉)
★3句目の「や」が切れ字になっていて俳句みたいですね。それに下の句を付け合
 わせた。でも、人工骨が肉をはみだすって絶対ありえないことです。そんなこと
 があったら裁判になります。だから詩的な話だと思うのですが、もし、泉さんの
 ような解釈でないなら、天下の渡辺松男といえども、この歌は自分にしか分かっ
 ていないって感じです。(A・K)
★人工骨が肉をはみだすってあり得ないんだったら、やっぱり泉さんの解釈でしょ
 うか。(鹿取)
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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 245

2023-01-28 11:46:39 | 短歌の鑑賞
  2023年度版 渡辺松男研究2の32(2020年2月実施)
     Ⅳ〈夕日〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P160~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆    司会と記録:鹿取未放


245 プログラム細胞死からぬけいだし蟬、蟬、蟬、蟬の爆発

    (レポート)
 ウェブの専門サイトで「プログラム細胞死」の解説を読むと、「プログラム細胞死」とは、強酸やアルカリ、熱、物理的損傷などの外傷により細胞構造が破壊される〈事故的細胞死〉ではなく、細胞内の遺伝子的にコードされた分子機構が発動する細胞死〈制御された細胞死〉をいうようである。‥‥といっても、これで正しく理解できたのか正直自信がない。そいう専門知識から少し離れて鑑賞すると、蟬が爆発的に死んでゆく様をみて、生命誕生の時にプログラムされたものを内から壊している、と詠ったのだとおもった。いま戸外で大合唱している蟬はもうすぐ死ぬ、その大量死のさまを、死に意志があるように感じたのではないだろうか。(泉)


      (紙上参加)
 この歌はよくわからないが、パソコン画面が文字化けした瞬間のように思われる。
文字化けした画面には妙な漢字のようなものが画面いっぱいに並び、それが「蟬」という字に似ている気がする。まるで違うのかもしれないが・・・(菅原)


      (当日意見)
★「プログラム細胞死」はインターネットで見てしまいました。(泉)
★それこそ福岡伸一さんが書いていたと思いますが、今はWikipediaの記事で読み
 上げてみますね。飛ばしながら読みます。「プログラム細胞死(PCD)は多細胞
 生物における不要な細胞の計画的(予定・プログラムされた)自殺である。一般
 にはPCDは生物の生命に利益をもたらす調節されたプロセスである。PCDは植
 物、動物、一部の原生生物で正常な組織形成や病原体などによる異常への対処と
 して働く。」この定義に従うとプログラム細胞死は個体を死に至らせるのではな
 くてむしろ個体をより生かす為の細胞段階での死なんですけど。だから蟬の個体
 が死ぬわけではありません。そういうプログラムのお陰で蟬が爆発的に増えると
 いうのなら分かるのですが、「ぬけいだし」た結果増えるというのは理論的には
 違うと思うのですけど。でも「プログラム細胞死」のお陰で蟬が増えると詠った
 のでは全く面白くないし。この歌は魅力的な歌で、昔書いた渡辺松男の死の歌に
 ついての評論で採り上げたことがあります。(鹿取)
★私はネットで東大の人の書かれている論を見たのですが、それによるとこの定義
 は途中で変わったそうで、もしかしたら松男さんは変わる前の定義で歌を作られ
 たのかもしれませんね。(泉)
★プログラム細胞死っていいものがあるのに、それに従わないで蟬が爆発するよう
 に増える?(A・K)
★いや、プログラムされているんだから、蟬だろうが人間だろうが私は嫌よって意
 思でそれに従わないとかは出来ないですよね。生命のシステムとして組み込まれ
 ていて体の内部で勝手にやっていることだから。(鹿取)
★今の話聞いていると「ぬけいだし」がポイントですね。そういう摂理から抜け出
 して存在そのものがガンガンにルール無視して爆発する。でも、爆発って何です
 か?(A・K)
★岡本太郎の「芸術は爆発だ!」(泉)(一同、笑い)
★そうですね、ほんとうは抜け出すことなんか出来ないんだけど、そういうものを
 無視して、打ち破って蟬が爆発する。よく分からないけど、生命体がシステムや
 創造主みたいなものに反抗するエネルギー?それもけっこう楽しい。バッタがア
 フリカかで大発生とかしますよね、そういう映像を思い描きました。(鹿取)
★運命とか摂理とか既にあるものにあらがう形。漢字の蟬という文字の視覚的な力
 強さがすごい。(A・K)
★そういう意味では菅原さんのレポートも面白いですね。(鹿取)


        (後日意見)
 当日、気がつかなかったが、泉さんのレポートは「蟬が爆発的に死んでゆく様をみて」とあるが、それだと「プログラム細胞死」から「ぬけだして」とうまく繋がらない。やはり爆発的に増えるという歌だと思う。何か玉手箱のようなものから無数の蟬が飛び出していく圧倒的なイメージがある。(鹿取)

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 244

2023-01-27 11:26:21 | 短歌の鑑賞
  2023年度版渡辺松男研究2の31(2020年1月実施)
     Ⅳ〈夕日〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P156~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:岡東和子    司会と記録:鹿取未放


244 待合室にいつまでも名を呼ばれねば待合室に鰈がおよぐ

      (当日意見)
★私は待合室の空間を鰈が泳いでいるのだと思います。〈われ〉はそれを見ている
 んですね。待ちくたびれて所在なくいると、あの寄り目の鰈がふわふわと待合室
 の空間を泳いでいたって、面白いじゃないですか。(鹿取)
★待たされている嫌な感じを鰈がよく出していますね。(A・K)
★さっき連作という話が出ましたが、この連の最初はビールの泡の中を泳いでいて、
 ここは鰈が待合室を泳いでいる。(泉)


       (レポート)
 鰈はなじみのある魚だが、あらためて考えてみると、特異な形状をしている。広辞苑から部分引用すると「体は扁平で卵形、頭部はねじれて、眼は普通体の右側に集まる(ふ化後40日め)」とある。一方、作者は病院かどこかの待合室にいる。待っていても、いつまでも名を呼ばれない。このような状況の時、待合室の中を首をねじらせて見回して、自分より先に来ていた人があと何人か数える。この様子を鰈にたとえたのではないだろうか。鰈は海底近くを這うように泳ぐことからも、面白い比喩だと思う。「待合室」を2回使っているのは、待たされる時の忍耐力にこだわっているのだろうか。日常的な事をエスプリを効かせて詠うところは、さすがだと思う。(岡東)


          (紙上参加)
 なるほど、鰈か、ぴったりだ。たぶん、病院の待合室で順番を待っているときの不安で所在ない感じを表したのだろう。鯖だの鰯だの鰤などでは元気よくビュンビュンしすぎていてあわない。蛸やウツボでは怖すぎる。地味で平べったくて、ふわっと泳ぐ鰈の感じが、ちょうどいいのかもしれない。上手ですね。(菅原)

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