2025年度版 渡辺松男研究2の7(2017年12月実施)
『泡宇宙の蛙』(1999年)【山鳥薇】P36~
参加者:泉真帆、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
46 風景を山鳥薇(やまどりぜんまい)が殺し秋はゆくなり茫々の雲
(レポート抄)
〈見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ〉(藤原定家「新古今集」)では華やかな色彩のない無彩色の景を詠っているが、掲出歌は殺風景というものを差し出し、茫々の雲を添えて晩秋の心持ちとしている。(慧子)
(当日発言)
★風景を山鳥薇が壊すということと殺風景とは全く違うものだと思うのですが。定 家の歌は「無彩色の景を詠」うというよりも、鮮やかな桜や紅葉を一旦読者に見せ ておいて否定する〈見せ消ち〉の手法で、ある意味その技巧そのものが目的のような 歌ですね。(鹿取)
(まとめ)
山鳥薇は名前が面白いが、シダ植物で山間の湿地に多いそうだ。一連には至仏山という尾瀬に属する山が出てくるので、そこの風景かもしれない。この歌、山鳥薇がひと所か、見わたす限りはびこっているのか、どのくらいの量感であるのかが分からない。風景を殺すというのだから、見わたす限り広がっていると取っておくが、大木ではないので見通しが悪くなるわけではないし、 一面に広がっていたらむしろ壮観じゃないかとも思えるのだが。 歌としてみると、「殺し」といいながら風景の中に山鳥薇の存在感がものすごく立ち上がっている。
また、秋山の風情を壊すという意見もあったが、もともとそういう雅びを追求する作者ではない。ならば、作者が見たかった、山鳥薇に殺されてしまった風景とは、そもそもどういうものなのだろうか。定家は眼前に無い桜や紅葉を詠んでいるが、作者は山鳥薇を風景の手前に押し出して、見たい風景が何であるかは沈黙している。そして、晩秋の景の上に「茫々の雲」が浮いて流れてゆく、そういう時間の経過がテーマなのだろうか。(鹿取)
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