かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

清見糺の一首鑑賞  14

2020-05-31 16:25:49 | 短歌の鑑賞
ブログ版清見糺鑑賞 3  ピエタ  
                     かりん鎌倉支部  鹿取未放     

14 岩の人ペテロのようには涙せぬ渇きは〈百年の孤独〉にいやす
             「かりん」94年7月号

 ペテロはキリストが処刑される時、三度あの人を知らないという。そうしてその言葉がかつてのイエスの予言どうりであったことに愕然として涙を流すのだが、作者はキリスト者ではない。ここでは宗教から離れて、日常の、あるいは恋愛上での自分の間違いにたとえ気付いても、ペテロのように素直には涙を流すことができない。涙をながせばカタルシスを得ることもできようが、もっと索漠とした救いようのない思いを抱えているから泣くことはできないししない、代わりに〈百年の孤独〉に紛らわすのだという。〈百年の孤独〉はノーベル賞受賞のガルシア・マルケスの小説名でもあるが、内容を鑑みると、ここは焼酎でいいのだろう。

 
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清見糺の一首鑑賞  13

2020-05-30 19:17:15 | 短歌の鑑賞
ブログ版清見糺鑑賞 3  ピエタ  
              かりん鎌倉支部  鹿取未放     

13 沖の石につくフジツボのわが恋は潮の(うしお )満つるまにま充たさる
                 「かりん」94年7月号     

   わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし
                  二条院讃岐
 百人一首の有名な恋の歌を下敷きにしているが、ままならぬ恋を嘆く讃岐の歌に対して、自分はいつでも満たされていますよととぼけてみせた歌のようだ。
 讃岐の歌では沖の石は潮干にすら沈んでいて海水に濡れっぱなしだから、嘆きの涙でいつも袖を濡らしている。しかるに〈われ〉は沖の石についているフジツボであるから、いつだって潮が満ちて充たされているのである。〈われ〉が沖の石に付くフジツボだというのは奇想だが、あのブツブツとしたフジツボに潮が充ちる様子はエロティックでもある。
 「まにま」の解釈にやや迷ったが、「事の成り行きに従うこと。……通りに。……に任せて。……ままに。」と辞書に出ている。


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清見糺の一首鑑賞 12

2020-05-29 18:06:34 | 短歌の鑑賞
ブログ版清見糺鑑賞 3  ピエタ  
                かりん鎌倉支部  鹿取未放     

12 ダイダロスの羽根借りゆかな低空の夜間飛行は誘蛾灯まで
                  「かりん」94年6月号     
 ダイダロスは古代の名工。クレタ王ミノスのためにラビュリントスを作った。後、囚われたが息子イカロスと翼を作って脱出。しかし、イカロスは高く飛びすぎたため、太陽の熱で翼のつなぎ目の鑞が溶けて墜落死した。
牢獄というには大げさだが、ある窮屈な場から、ダイダロスの羽を借りて飛んでいきたいという。しかもイカロスのように墜ちないために夜間、低空をゆくのである。だが行く先は誘蛾灯。恋する女が待つそこは太陽の熱よりも危険な罠かもしれない、ということも作者は予感している。結句に転換の妙がある。

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清見糺の一首鑑賞

2020-05-28 16:56:00 | 短歌の鑑賞
   ブログ版清見糺鑑賞 3  ピエタ  
               かりん鎌倉支部  鹿取未放     

11 わが窓は紺青の海あるときはモビーディックを泳がせている

 この歌の出典がどういう訳か見つからないのだが、「かりん」94年6月には次のような柔らかで明るし、しかし少しの倦怠感のある歌が載っている。
  あわあわと春の光りをあつめゆく雲の時間を窓に見ている

 また掲出歌と同時期にこんな歌も書かれているが、雲の時間の繊細な感じとは違うニュアンスの心のささくれが見えるような歌たちである。
  団らんという幻影の失せてより時は久しく窓に在りにき
 団らんと思っていたものはそもそも幻影だった。その幻影が過ぎ去ってから自分はどのくらい長く窓を眺めて暮らしてきたことだろう、というのだろう。

 さて、11番の掲出歌のモビーディックは、米国人メルビルの小説『白鯨』の白い抹香鯨の名前。モビーディックに片脚を奪われた船長が白鯨を追いつめ共に海底に沈む話。窓から見える青空を海に、白い雲を白鯨に見立てているのだろう。船長が白鯨と格闘している勇壮なさまを夢想しているのだろうか。あるいはモビーディックに復讐の執念を燃やす船長のように、来し方の人生をひっくり返すべく作者も起死回生を夢見ているのだろうか。はたまたモビーディックは生きのよい女体の喩か。いずれにしろ、雲とは思えないほどダイナミックな印象のある歌。

 そして次に並んでいるのがこの歌
    わが窓は雲の通い路あかねさすスカーレットも過ぎてゆきます
 対になったこちらの歌は、あかね色の雲を見て「風と共に去りぬ」の主人公スカーレット・オハラを連想し、過ぎ去った恋がふとかすめたのか、あるいは現在の恋人のことを思っているのか。結句の口語が新鮮である。


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清見糺の一首鑑賞

2020-05-27 17:41:22 | 短歌の鑑賞
ブログ版清見糺鑑賞 2  ゆるふん  
        かりん鎌倉支部  鹿取未放     


10 そのこえは迦陵頻伽かカイツブリ春立てる日の川面わたれる

 カイツブリが立春の日の川を渡っていったというだけの歌であるが、6番歌(夕星のかゆきかくゆき嵯峨野ゆき竹焚く音のあたたかきかな)同様カ音が快いリズムを伝え、春の到来の喜びを表現している。迦陵頻伽はもちろん想像上の鳥で、上半身が人間、下半身が鳥の姿をしていて極楽浄土に住んでいるとされる。仏の声にたとえられるほどこの声は美しいとされている。カイツブは特に目立って美しい鳥ではないが、その声の美しさを迦陵頻伽のもののごとく聞いたところにも春の嬉しい気分が出ている。
 斎籐茂吉の次の歌がヒントになったかもしれない。
とほき世のかりょうびんがのわたくし兒田螺(たにし)はぬるきみず恋ひにけり


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