かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠  156(ネパール)

2021-04-30 17:48:58 | 短歌の鑑賞
  馬場の外国詠19 (2009年7月)
      【ムスタン】『ゆふがほの家』(2006年刊)91頁~
      参加者:泉可奈、T・S、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子 司会とまとめ:鹿取 未放


156 生を継ぎはじめて長き人間の時間を思ふヒマラヤに居て

    (レポート)
 人間をとらえ考える様々な角度、たとえば思想、芸術、宗教、民族などから離れて「生を継ぎはじめて長き人間の時間」と、命また種の継承としての人間の長い時間を散文風に詠い起こしているのであろう。個々の命にそくしていえば、そのはかなさは通念となっているが、各々その生の時間である人類としての時間、把握不能ではあろうが、茫然と「思ふ」のであろう。これは旅の心用意に、海底隆起によるヒマラヤの成り立ちがおよそ三百万年という知識を得たうえでの「思ふ」であろうと、結句から想像する。その「ヒマラヤに居て」とは平易で無造作にみえるが、しみじみとして、言い難い感慨があり、場としての力が、一首全体を底支えしている。(慧子)

                                      
      (まとめ)
 三百万年という気の遠くなるような時間を経た崇高な山にふれて初めて、人間の歩んできた長い長い時間を思うのである。この歌を読むと、誰の一期か迷った152番歌(マチャプチャレ鯱鉾のやうに空に跳ね一期を問へば空哄笑す)は作者の一期だったことが分かる。というよりも作者も含めた人間の一期であり、人類の時間に考えが及んでいたのだ。「継ぎはじめて」が句跨がりになっているので、やや読みづらい印象になった。(鹿取)
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馬場あき子の外国詠  155(ネパール)

2021-04-29 16:57:06 | 短歌の鑑賞
   ブログ版馬場の外国詠⑲(2009年7月)
      【ムスタン】『ゆふがほの家』(2006年刊)91頁~ 
      参加者:泉可奈、T・S、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:渡部 慧子 司会とまとめ:鹿取 未放


155 マチャプチャレ鯱鉾のやうに空に跳ね一期を問へば空哄笑す

        (レポート)
 マチャプチャレとはネパール語で魚の尾という意味。そのマチャプチャレが「鯱鉾のやうに空に跳ね」と、今跳ねているので、そこをとらえ作者はこころみにもの申してみた。「一期を問へば」のである。小さな存在の果敢な問いを「空哄笑す」というように、空が呵々と笑ったというのである。マチャプチャレと作者の問答は成立せず、ただ無辺の空に包まれていたのだ。(慧子)

                                    
       (当日意見)
★そんな人間の小さな一生なんて俺の知ったことかよと、空が大笑いした。(T・H)


         (まとめ)
 誰が誰に聞いたのだろう。関連するが誰の一生なのだろう。一応、次のような場合が考えられる。(何か、入試問題のようだが)
 ①マチャプチャレが、自分の一生について空に尋ねた。
 ②作者が、自分の一生について空に尋ねた。
 ③作者が、自分の一生についてマチャプチャレに尋ねた。
④作者が、マチャプチャレの一生について、空に尋ねた。
 ⑤作者が、マチャプチャレの一生について、マチャプチャレに尋ねた。
 ①と考える理由は、直前の「空に跳ね」の部分の主語がマチャプチャレだからだが、悠然と空に跳ねるマチャプチャレが自分の一生について空に尋ねるなどということはしないだろうから×。
 ②は、T・Hさんの意見を反映している。とても魅力的な意見で、かなり加担したい気分だ。
 ③は、①同様マチャプチャレの行為を受けて続く部分だからだが、マチャプチャレに尋ねたのに空が哄笑したのは、やや繋がりが悪い。もちろん、空が問答を耳に挟んだという解釈も捨てがたい。
レポーターは、そういうつもりで書かれているのだろう。
 ④は、①に似ているが、悠然と空に跳ねるマチャプチャレが自分の一生を思い悩むこともなさそうだから、154番歌で「雄々しきマチャプチャレ」「われを閲せり」と讃えている作者がマチャプチャレの一生を尋ねさせることはないだろう。またそれで空が哄笑するのもおかしい。よって×。
 そんな訳で、会員の意見は分裂し、結論は出せなかった。私自身の意見は②。つまり雄々しく悠然と空に跳ねるマチャプチャレを見て、「マチャプチャレのように悠久な山と比べて私の一生はなんなんでしょうか」と思わず空に尋ねてしまった。飛行機に乗っているから空が近いんですね、だからきっと自然にそういう問いが空に向かって出たのでしょう。それを聞いて空は大笑いした。まさに「人間の小さな一生なんて俺の知ったことかよ」というわけである。
 *「カナジーの物見遊山」というサイト(https://cannergy.sakura.ne.jp/theme/mt3.html)で、ヒマラ  ヤの山々の写真を見ています。同じ山でも時刻や場所を変えて撮影されていて、すばらしい写  真です。馬場あき子の歌に出てくるマチャプチャレ、ニルギリ、ダウラギリ、アンナプルナな  どの他にもネパールの有名な山々が満載です。詳しいデータや旅行記も付いていて現地に行っ  た気にさせてくれます。またネパール以外にも世界各国の山々や文化遺産が載っていてすばら  しいサイトです。興味ある方は、どうぞ一度覗いてみてください。(鹿取)
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写真追加版 馬場あき子の外国詠  154(ネパール)

2021-04-28 19:10:39 | 短歌の鑑賞

     ポカラからジョムソンに向かう小型機の窓からみたマチャプチャレ


            ポカラ飛行場


     一行二十数名が二機に分乗する前に行った記念撮影


  写真追加版 馬場の外国詠19 (2009年7月)
      【ムスタン】『ゆふがほの家』(2006年刊)91頁~
      参加者:泉可奈、T・S、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子 司会とまとめ:鹿取 未放


154 夢と思ひしヒマラヤの雄々しきマチャプチャレまなかひに来てわれを閲せり
 
          (レポート)
 「夢と思ひし」は「ヒマラヤの雄々しきマチャプチャレ」にまで掛かっていよう。宗教上の理由から登山許可の出されていない聖なる山が「まなかひに来て」のとおり作者に近づいてきた。もちろん、高速で近づくと自分の方か相手方なのか、錯覚を起こすこともある。さてそのマチャプチャレが「われを閲せり」と作者を見て調べているという。雄々しい聖者ならばありうる話だ。だが作者も相手の意中をちゃんとみてとって呑まれてしまってはいない。スケールの大きさに擬人法という手法さえかすんでしまって、実感として壮大な気分がつらぬかれている。(慧子)


         (まとめ)
 ヒマラヤに来ることすら夢のような憧れであった。しかし、はからずもヒマラヤにやってくることができた。そしてヒマラヤの中でも屈指の秀峰である雄々しいマチャプチャレが、飛行中、目前に迫ってきた。こんなに近い距離で眺めるなどということは夢にすぎないと思っていたのに。しかも、マチャプチャレは向こうから近づいてきて「お前は何者だい?」と問うのだ。だが、レポーターがいうように、小さな人間である〈われ〉はここではしっかりとマチャプチャレに対峙しているようだ。ちなみにマチャプチャレというのは「魚のしっぽ」という意味である。(鹿取)
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写真追加版 馬場あき子の外国詠  153(ネパール)

2021-04-27 19:45:36 | 短歌の鑑賞
     
飛行機を降りたところだったろうか、背景が18人乗りの小型機。
左が私で右がネパールの医師の方、日本に長く留学されていたそうで、「小さな飛行機は怖いですか?」と日本語で声を掛けられた。左右どちらに座ればより雪山を堪能できるか教えてもらった。


     
       カーテンで仕切られた小型機の操縦室、客席は左右一人ずつ。



       ジョムソン飛行場からホテルに行く途中に見た飛行場

馬場あき子一行は二十数名だったので、二機の飛行機に分乗した。載る前にグループ毎に記念撮影、
誰も口に出さなかったけれど、これでどちらかが墜落したらお別れという悲愴な気分だった。
8000m級の山を縫って飛ぶこの山岳飛行はそのくらい危険らしい。

  写真追加版 馬場の外国詠19 (2009年7月)
      【ムスタン】『ゆふがほの家』(2006年刊)91頁~
      参加者:泉可奈、T・S、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子 司会とまとめ:鹿取 未放


153 眼前にダウラギリ屹(た)つ腰のほどわが小型機は唸りよぎれり

            (レポート)
 小型機に乗りすすんでいくのだが、そびえている「ダウラギリ」のちょうど「腰のほど」とでもいうあたりにさしかかる。壮大な山容を背景に「小型機は唸りよぎれり」とは、蠅か何か昆虫の生のひたすらさが連想される。小さな存在の人間とその営為の所産が八千メートル級にして迫力あるダウラギリの前をよぎっている。ダウラギリはⅠ峰からⅣ峰まであり、1900年に日本の仏教学者河口慧海は「泰然として安産せる如く聳えて居る高雪峰は是ぞ、ドーラギリ」と記している。また、イエティー(雪男)の棲む山として日本から探索隊を出すなどしている。(慧子)


         (当日意見)
★「中腹」とかいわず、「腰のほど」といったところがイメージしやすくてよい。(泉)
★聳え立つダウラギリの腰のほどを小型機で唸りながら行く心弾み、爽快さを言っているように思
 われる。(鹿取)

          (まとめ)
 この心弾みからするとポカラからジョムソンに初めて飛んだ行きの飛行機だろうか。18人乗りの小型機で、操縦席と客席はカーテンの仕切りだけだが、カーテンは開けてあった。ポカラの町からも見えていたマチャプチャレ6993mを右に見ながら飛び、まもなくアンナプルナ8091mが右手に見える。山と山のわずかな谷を飛行するので、これらの高峰が手に取るような迫力で迫ってくる。やがて左手にダウラギリ8167mが近づき、いかにもその腰のあたりをかすめて飛ぶのだ。「唸り」の部分も実感がある。
 ちなみにダウラギリはサンスクリット語で「白い山」を意味し、その高さは世界第7位。3日間宿泊した「ジョムソン・マウンテンリゾート」の正面に聳えていた処女峰7061mのニルギリは「青い山」の意だが、雪を被って白かった。そして、一方カリガンダキ河以外は砂礫の風景の出口に、ダウラギリが白い屏風のような偉容を毎日見せていた。(鹿取)
                 


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写真追加版 馬場あき子の外国詠  152(ネパール)

2021-04-26 19:00:40 | 短歌の鑑賞

ホテルから見えていたダウラギリ
 フィルム写真の画像をデジカメで撮影したので、左上の光は蛍光灯の反射です、下の写真も同様 


          ホテルからダウラギリと反対方向を望む(チベット側)

  写真追加版 馬場の外国詠19 (2009年7月)
      【ムスタン】『ゆふがほの家』(2006年刊)91頁~
      参加者:泉可奈、T・S、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子 司会とまとめ:鹿取 未放

                 
152 八千メートルの山の背碧空のほかはなしあなさびし虚空なす時間のありぬ

      (まとめ)
 小型機に乗ってジョムソンからポカラに移動している一連の中にある歌。ダウラギリ、マチャプチャレ、アンナプルナなどの山名が一連に出てくる。しかし、この歌、単独で読むと地上から眺めている感じがある。滞在したジョムソンからダウラギリ8157メートルが見えたので、その印象かも知れない。八千メートルを超えて聳える山の背には真っ青な空が見えている。そして空しか見えない。その空には「虚空なす時間」があるという。「虚空」を改めて「広辞苑」で引いてみると仏教語で「何もない空間」を指すとある。何もない空間に、おそらく作者は長い長い宇宙的な時間をみているのであろう。
 156番歌「生を継ぎはじめて長き人間の時間を思ふヒマラヤに居て」にも関連するが崇高な山の姿にふれて、それらヒマラヤの山脈が形成された気の遠くなるような宇宙的時間を思ったのであろう。また、その後に生まれた人類の歩んできた長い長い時間をも思うのであろう。「あなさびし」はそんな宇宙的時間にふれた詠嘆のように思われる。(鹿取)

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