かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 3

2022-01-31 11:16:27 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究2の1(2017年6月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年)
    【無限振動体】P9~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放


3  ジョン・ケージ『四分三十三秒』のすずしさよ茸すぱすぱと伸ぶ

 (レポート)
 これは音楽は音を鳴らすものという常識を覆す無音の音楽である。しかし無を聴くというよりも演奏会場内外の様々な雑音、すなわち鳥の声、樹々の揺れる音、会場のざわめきなどを聴くものとされている。このように作曲者の思惑や意図のないことを「すずしさや」と作者はみていよう。「すぱすぱ」という明るい大様な雰囲気をもたらすオノマトペによってのびる茸。言葉にしない、音にしない、そんな大切なことの象徴として、少し無骨な茸がある。(Wikipedia参照)(慧子) 


      (当日意見)
★自然界に作為の入り込んでいないことをすずしいと言ったんだろうなと、レポートに共感しまし
 た。すぱすぱにとてもよく呼応していると思います。(真帆)
★泉さんのように撮るには、レポートの【このように作曲者の思惑や意図のないことを「すずしさ
 や」と作者はみていよう】は補足が必要かなと思います。文字通りなら、作曲者の思惑や意図は
 大いにあるわけですから。(鹿取)
★きのこの生えている場所は自然音しか聞こえない場所なんですね、鳥の声や風の音を聴いて茸は
 育つんですね。(T・S)
★動画でこの音楽を聴いてみました。このジョン・ケージは茸が好きなんだそうです。作者は知っ
 ていて引っ張ってこられたんですね。この無音は東洋の思想や鈴木大拙の禅などの影響とも言わ
 れていますし、エリック・サティの音楽を茸に例えたとかも言われています。作者はこの無音の
 音楽をすずしさと言われた。それとすぱすぱと伸びるあたりがよく分からないのですが。まあ音
 のない所で伸びていくということでしょうが。(A・Y)
★「すずしさよ」で場面は切れているのではないですか。4句めが句割れになっていますが、「す
 ずしさよ」までで無音の音楽を提示して、以下で茸の伸びる場面に飛ぶ。「すぱすぱ」という小
 気味よい擬態語が「すずしさよ」とスの音でさりげなく繋がっている。さらりと詠っているよう
 でとても技巧的な歌ですね。ところで、すずしいというのは松男さんの一つのキーワードで、時
 々出てきますね。この語に独特の思い入れがあるようです、化石の歌とかあるのですが。A・Y
 さんが今言われたように、ジョン・ケージは前衛的な作曲家であり詩人であり、よく知られた茸
 研究者なんですね。自然の音に託すというジョン・ケージの音楽の思想と自然界で元気いっぱい
 きのこが伸びる情景とは切れているようで繋がっています。松男さんも茸狩りが好きだそうです
 が、楽しい歌ですね。(鹿取)


       (後日意見)
 当日発言で言いかけた化石を詠った「すずしい」の歌はこれから読む『泡宇宙の蛙』の中にある。『寒気氾濫』の中にも、例えばこんな「すずしい」の歌があった。
  欠陥とみなされているわが黙も夕べは河豚のようにすずしい
『寒気氾濫』
  透りたる尾鰭を見れば永遠はすずしそうなり化石の石斑魚(うぐい)
『泡宇宙の蛙』

 これは余談だが、作曲家、一柳慧が戦後アメリカでジョン・ケージの自宅に招かれて行ったところ、考え方や行動が影響を受けるからと家具がない家で椅子もなく床に座って話をしたと発言している。(朝日新聞「人生の贈りもの」2017・6・20夕刊)(鹿取)

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渡辺松男『阿波宇宙の蛙』一首鑑 2

2022-01-30 12:35:31 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究2の1(2017年6月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年)
    【無限振動体】P9~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放


2 倒木を埋めつくしたるうごめきのイヌセンボンタケ食毒不明

      (レポート)
 食毒不明ゆえにイヌセンボンタケは茸狩りからまぬかれ、あたりの倒木を埋め尽くすまで広がる。食毒不明なものが増殖してゆく不気味さをこめて「うごめき」という捉え方をする。(慧子)


       (当日発言)
★たぶん倒木を埋めつくして蠢いている無数のイヌセンボンタケのイメージが1番の「森のかぜ茶
 いろのながれ光るなか無限振動体なるきのこ」にも投影していると思うのですが、読者には1番
 を読んだ段階では分からないですね。ところで、レポートに不気味とありますが、私はそうは思
 いません。増殖していくことに対しても気味悪がっているわけではない。むしろありのままを言
 っていて、それはどちらかといえば小気味よいのかなと思います。イヌセンボンタケは小さくて
 白から灰色に変わっていくと辞書にありますが、千本というくらいだから群生するんですね。食
 中毒の記録はないけど、まあ食べない方がいいでしょうと茸図鑑には書いてありましたが。
    (鹿取)
★食べる食べないは関係なく、ものすごい数の茸が無限のように蠢いているって想像するだけで楽
 しいですね。森の光りの中で茸が揺れている、その風景だけで素晴らしい。(A・Y)
★景だけで楽しいという今みたいな鑑賞は作者は嬉しいんじゃないかな。それだけで圧倒的な風景
 ですよね。(鹿取)
★歌集の始まりの歌なので無限振動体というのは自分にダブらせたのかなと思いました。何者にも
こころを揺れ動かしている自分です。2首目は食毒不明だけどおどろおどろしくはないキノコを
 出してくる。小説でもそうだけど、何だろう何だろうと読者を引き込んでゆく。そういう面白い
 組み立てになっていると、そういう巧みさを思いました。(真帆)
★私は茸は茸と思っていますが、いろんな読みがあってもいいと思います。(鹿取)


        (後日意見)
 この一連を通して作者は茸にはシンパシーを持っている。余談だが、松男特集号で「地に立てる吹き出物なりにんげんはヒメベニテングタケのむくむく」について、渡辺松男は「人間のたとえに使ってしまい、ヒメベニテングタケには申しわけないことをしたと思っています」と発言している。(鹿取)


       (後日意見)2019年5月追加
 倒木を埋めつくすイヌセンボンタケ。食べられるか否かは問題外。ただひたすらに渡辺松男は森の生命的起源を確認したいのである。(鶴岡善久)
 「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号) 

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渡辺松男の一首鑑賞 2の1

2022-01-29 13:12:07 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究2の1(2017年6月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年)
    【無限振動体】P9~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放

◆今回から『泡宇宙の蛙』に入ります。引き続きよろしくお願いします。

◆(支部会員の皆さんに)この歌の鑑賞に入る前に、「かりん」2010年11月号の渡辺松男特
 集で、大井学さんのインタビューに渡辺松男氏が答えた記事の一部を紹介しておきます。『泡宇
 宙の蛙』の製作意図について述べた部分です。(鹿取)

  『寒気氾濫』は無意識的に設定している、ある枠のなかに大方納まっていると思いまし
  た。(その枠のおかげで受け入れてもらえたのだと思いますが)。『泡宇宙の蛙』はその
  枠をやぶろうとしたのだと思います。その枠のなかに、前提としている作歌主体そのも
  のの自己同一性がありました。在ることの不思議、無いことの不思議、生命のこと、そ
  ういう次元を詠まなかったなら、私(に)とって歌は意味のないものになっていました。
  存在に寄り添うこと、それを掬うこと、それを包むこと、あるいは包まれること、それ
  に成りきること、それらのことはいつもこちら側にいる自己同一的実体的作歌主体にと
  どまっているかぎり不可能なことでした。
  

1  森のかぜ茶いろのながれ光るなか無限振動体なるきのこ

     (レポート)
 森の風が茶色くひかりつつ流れる。詠われているきのこの傘は茶色と思われる。そのきのこを「無限振動体なるきのこ」と呼ぶことで、茶は傘のかたちつまり形状を抜け、色そのものとして風とともに流れ光りとなる。(慧子)

     (当日発言)
★2行目までは賛成ですが、ひかりになってしまうのではなくきのこはきのことして無限に振動し
 ている笠、笠地蔵の笠のようにずーと存在していると感じました。(真帆)
★「傘のかたちつまり形状を抜け」というところがよく分からないのですが。(A・Y)
★ずーと震えていると私達の目には形は見えなくなりますよね。(慧子)
★難しく詠っているから鑑賞の人も難しくとっちゃうんじゃないですか。(T・S)
★いや、松男さんには難しく詠ってやろうとか、何かをひけらかそうとかいう意識はないんです。
 自分の詠いたいことを何とか読者に分かって欲しいと思って一生懸命表現しているんだけど、
 意識の差があってそれが読者にはなかなか難しいのです。(鹿取)
★森には無限に振動しつづけているような茸がある。そこに風が流れ、光が当たっている。レポー
 ターがいうように茶色は茸の色の反映かもしれませんね。上に紹介したような志で編んだ歌集の
 冒頭歌ですから、とても思いのこもった深い歌でしょうし、こんな合理的な解釈を拒むものかも
 しれませんね。(鹿取)


       (後日意見)
 山崎正和が1963年29歳の時に書いた戯曲「世阿弥」について、林房雄が新聞に書いた書評が紹介されていた。(朝日新聞・2017年6月29日夕刊)一部引用させていただく。
 
(引用)【山崎氏は「俗衆との戦闘」が芸術家の課題であることを知っている】

能の作者や演者と見物人との究極的な関係性についての言及だろうが、「俗衆」とは随分見下した言い方だし、「戦闘」という言葉も嫌いだ。しかし、享受者に対しての作者の葛藤についてはよく分かるし、渡辺松男もその部分で苦しい闘いをしているということはあるだろう。鹿取の当日発言と繰り返しになるが、作者は難しく詠っているのではなく何とか読み手に分かってもらおうと書いているのである。(鹿取)

        (後日意見)2019年5月追加
 森の風が流れるなか、揺れるはずのないきのこが一斉に無限の振動体となる。風が流れきのこが揺れるとき間違いなく「森は生きている」のである。(鶴岡善久)
 「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号) 

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清見糺の一首鑑賞

2022-01-28 14:55:39 | 短歌の鑑賞
   ブログ版清見糺鑑賞 番外編  美女ありき
                    鎌倉なぎさの会   報告 鹿取 未放                                                   

犯罪大通りお祭りさわぎの雑踏に消えたガランス忘れ得ぬひとり
              「かりん」98年11月号

 ガランスは1945年に製作・上演されたフランス映画「天井桟敷の人々」の主人公。アルレッティが演じた。ジャン=ルイ・バロー演じるパントマイムの俳優バチストと同じ座の女優ガランスは恋しあうが、ある事件がきっかけでガランスは大富豪の伯爵と結婚してしまう。6年後、人気俳優になっているバチストは座長の娘と結婚して子供もいる。二人はお互いを忘れられずにいて再会を果たすが、ガランスに横恋慕している昔馴染みの悪漢は衆人環視の中、夫の侯爵にガランスとバチストの逢瀬を見せつける。翌朝、悪漢は侯爵を殺し、それを知らないガランスは一晩一緒に過ごしたバチストを振り切って夫に危険を知らせようと雑踏の中に掛けだしていく。追いかけるバチストはカーニバルの雑踏に紛れてガランスを見失ってしまう。
 終戦時10歳の作者は、戦後何歳くらいでこの映画を観たのだろうか。四句までは映画そのままで、1音字余りの結句のみが作者の感想だが、ガランスは少年の心をどう魅了したのであろう。決して清純可憐な主人公ではない、年増の色香が漂うような人物設定だが、美貌によって周囲の男達を虜にしていたガランス、作者もその美に惹かれたのか、それとも主人公の心の底に秘めた純な恋心を美しいと思ったのか。
 ちなみに寺山修司はこの映画に感銘を受けて劇団「天井桟敷」を作ったのは有名な話である。

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渡辺松男の一首鑑賞 417

2022-01-27 17:16:27 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究49(2017年5月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【睫はうごく】P164~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取未放


417 どの窓もどの窓も紅葉であるときに赤子のわれは抱かれていたり

     (当日意見)
★この歌、いいですね、好きです。(A・Y)
★愛されていた祝福されていたということ。(T・S)
★自分が抱かれていて家の中にいるんですね。窓から紅葉が見えている。こういう赤の根源の中に
 われはいたんだよと言っているような気がします。(慧子)
★私もどの窓からも紅葉が見えていると取ったのですが、それだと随分大邸宅という感じがします
 が。まあ、どの家の窓からも紅葉が見えていた、そういう集落を想像してもいいかもしれません
 ね。あんまり事実と照合したくはないのですが、松男さん5月生まれで紅葉の季節は生後半年く
 らいです、そういう時に赤ん坊の自分は抱かれていた。赤い紅葉はやっぱり生命の象徴なんでし
 ょうね。こういう記憶があるというのかもしれないし、写真で見て後付けされた記憶かもしれな
 いですけど。ある作家は産湯を使わされている盥に当たっている光りを記憶していると言ってい
 ますから。ただ、第1歌集の巻末の歌ですから、かなりの思い入れのある歌だと思うのですが、
 紅葉にはもっと大きな含みがあるのでしょう。もうひとつとりきれていない気がするのですが。
 前の歌(十月のひかるまひるま火というをみつめておれば火は走りだす)が「火」でこちらは
「紅葉」、生命の静的な部分よりも動的な部分、激しい部分を暗示しているのでしょうか。(鹿取)


       (レポート)
 紅葉の一葉一葉が、作者の心を開いてくれる窓なのではないか。齋藤茂吉の歌に「あかあかといつぽんの道とほりたりたまきはる我が命なりけり」とあるが、赤の生生とした生命力を紅葉に感じる。全体の中に抱かれるように我が在るというのか。氾濫し続けた作者のすべてが抱かれるようだ。この歌の「窓」を、灯をともす民家とは、私はとりづらかった。(真帆)
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