かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 101

2020-09-30 19:15:24 | 短歌の鑑賞
    渡辺松男研究12【愁嘆声】(14年2月)まとめ
       『寒気氾濫』(1997年)44頁~
       参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
         レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取 未放
       

101 引き抜けば天に草根ひかりたり登校拒否児笑みしならずや

(記録)
★私の意見は草を抜いている所へ登校拒否児が来合わせた者として考えているが鈴木さんは違
 う。鈴木さんの解釈だと登校拒否児は、この場面にはいないのね。(慧子)
★そうですね。鈴木さんの意見は、光る草の根から登校拒否児を連想している訳ですよね。でも
 気分的には慧子さんと同じところに落ち着いていますよね。私もその点には同感です。ただ場
 面としては〈われ〉と登校拒否児は一緒にいて草を抜いていた、たまたま引きにくい草を引い
 たときひっくり返るか何かして根っこが天を向いた、それを見て日頃学校を嫌がって鬱々とし
 ている登校拒否児が面白がってきゃっきゃと笑った。慧子さんはたまたま登校拒否児が来合わ
 せたとおっしゃったけど、私は登校拒否児しばしば出てくるので〈われ〉の子供と考えてよい
 と思います。もちろん、歌の上での設定ということで、事実関係は問題ではないです。日頃そ
 の子のことを心配していて、だからこの場面で笑ったことにほっとしたんだろうと。草の根が
 天に向かって光っているという情景に明るい気分が 投影されていると思います。(鹿取)


        (レポート)
 しっかりと根を張っている草を抜いた。力を入れていたであろうから、抜けるはずみに尻餅をついたと想像する。その様子を「登校拒否児」は笑ったではないかとの歌意。「草根ひかりたり」と「登校拒否児笑みしならずや」が「天」のもとのこととして包み込まれている。平素見えていないもの「草根」と精神的に躓いて弱者に見えるかも知れない「登校拒否児」そういう2つがひびきあう。(慧子)


         (意見)
 雑草は地中に根を下ろして収まるべきところに収まり、成長していくのである。ところが、たまたま抜いた草の根が空をバックに光り輝いて、それは、まるで登校拒否児が学校の教室のしがらみから解放された一瞬の笑みのように、作者には思えて、下句が生まれたのだ。義務教育として初めて経験する集団生活、その枠組みになじめない感覚は、登校拒否児に限らず、多かれ少なかれ感じるものである。それは作者の実感でもあるだろう。(鈴木)


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清見糺の一首鑑賞 71

2020-09-29 15:32:15 | 短歌の鑑賞
     ブログ版 清見糺の歌 8(修二会)   鎌倉なぎさの会


71 修二会見てもどる林に鹿ねむる角のほそきも腹のふときも
  「かりん」95年7月号
      
 明け方までの修二会見物で脳は感動、興奮を覚えているが、寒さと寝不足で体はたよりなく朦朧としていたのだろう。ぞろぞろと歩く人々について帰りの道をたどっていると、うっすらと明るくなりかけた林に鹿が眠っていた。薄ぼんやりした明るさの中で輪郭しか識別できない。だから角や腹という輪郭を見ている。動物に対する愛情があってはじめてできる心憎い描写だろう。(鹿取)

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清見糺の一首鑑賞  70

2020-09-28 18:48:38 | 短歌の鑑賞
     ブログ版 清見糺の歌 8(修二会)   鎌倉なぎさの会


70 修二会創始者実忠和尚(かしょう)は謎の人にしてつくづく戦略家なり
            「かりん」95年7月号

 修二会は七五二年(天平勝宝四年)、二月堂開祖実忠和尚(かしょう)によって創始されたと伝えられている。しかし実忠の出自は分からず、当時二〇代であった実忠がどうしてそういう大きな行事を主催できたのか、さまざまな謎があるらしい。二〇代というのは、後年六〇年間修二会を執り行ってきたという本人の回顧録から推量してのことらしい。ちなみに和尚を「かしょう」と呼ぶのは天台宗の呼称である。
 さて、この実忠和尚、修二会五日目に即身成仏したと伝えられていて、今ではこの日に実忠忌が執り行われているそうだ。もっとも過去帳の声明と同じ日で、どこまでが声明でどこまでが実忠忌の法要か、素人には定かに分からないらしい。
 この歌、実忠が謎の人だというのは、どの修二会の説明を見ても書かれていることで作者の独創ではない。つくづく以下が作者の感慨である。ともかく戦略がなかったら二〇代でこういう大きな行事の主催を行うことは無理だろう。この行事は以後一二五〇年以上も続いているのである。その戦略の数々はどういうものだったのか。作者はおそらく実忠のような戦略が自分には不足していると思っているのに違いない。(鹿取)
               
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清見糺の一首鑑賞  69

2020-09-27 15:28:59 | 短歌の鑑賞
     ブログ版 清見糺の歌 8(修二会)   鎌倉なぎさの会


69 堂ぬちに紙のつらつら椿いま七分咲きなり燭の火にゆれ
      「かりん」95年7月号

 邪気を払う為の椿だが、この時期本物がないので、京都伏見の紅花を染めた和紙で練行衆が造花の椿を作って使うそうだ。「つらつら椿」は万葉集の歌にもよくみられるが数が多い意で、お水取りには四〇〇個の造花を作って飾るという。紅白の色がついているようだが、堂に飾られた和紙の椿が燭の火にゆれているところが幻想的である。しかしこの歌に清潔感がただようのは七分咲きのういういしさのゆえであろう。 (鹿取)

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清見糺の一首鑑賞  68

2020-09-26 16:08:07 | 短歌の鑑賞
     ブログ版 清見糺の歌 8(修二会)   鎌倉なぎさの会


68 大和より若狭につづく太古(そのかみ)のみずがねいろにひかる道見ゆ
                「かりん」95年7月号

 これもエピソードを持つ。二月堂開祖実忠和尚(かしょう)が行を行うのに全国の神を集めたが若狭の国の神は遠敷(おにゅう)河で釣りをしていて遅参した。遅れてきた若狭の神は実忠の精神性高い行を見て感銘を受け、自分が責任を持って毎年お水取りの水をさし上げると約束した。
 そんな訳で、今でも若狭彦神社の境内で三月二日に「お水送り」の儀式が行われている。これも作者がこころの目で見た太古のきらめく水の道である。「大和より若狭につづくみずがねいろの道」は文明の開けていく予感にみちているようにも感じられる。(鹿取)


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