かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞  322

2021-09-30 18:52:36 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究39(2016年6月実施)『寒気氾濫』(1997年)P133
  【明解なる樹々】『寒気氾濫』(1997年)133頁
   参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部 慧子   司会と記録:鹿取 未放


322 木から木へ叫びちらして飛ぶ鵯が狂いきれずにわが内に棲む

     (レポート)
 鵯、甲高い声で叫びちらして木から木へ飛び移るその状態を「狂いきれずに」ととらえる。これはたぶん悲劇性をおびたものとしてとらえられたのだろう。すんでのところですくいとり、そこからたくみに自身のうちに棲まわせた。(慧子)

 
     (当日意見)
★「すんでのところですくいとり」辺りを分かりやすく説明してくれませんか。(鹿取)
★ほっといたら狂ったのじゃないかなと。その手前で救ったという感じがするのですが。
   (慧子)
★鵯を救った後、作者はどうなるのですか?(鹿取)
★作者も狂い切れなくて苦しんでいるわけです。(慧子)
★鵯が発狂してしまったら作者の内面には棲まないだろう。鵯の情景を見ながら、自分の内面
 を歌っていらっしゃる、心象風景です。だから慧子さんの捉え方にも一理あると思いました。
    (石井)
★鵯は鳴き声は甲高いし、「木から木へ叫びちらして飛ぶ」様子は確かに今にも狂いそうに見え
 るかもしれないけど、鳥だから狂わないでしょう。内面の苛立ちが頂点に達したような物狂
 おしい状態を、鵯の様子に投影して述べているので、狂いそうな鵯を救ってやったから自分
 が狂いきれずに苦しい状態になったというのとは違うと思います。「木から木へ叫びちらし
 て飛ぶ鵯が」までは序詞のような役割なのではないですか。それを心象風景といってもい 
 いですけど。鵯は実景であっても、空想であってもいいと私は思います。(鹿取)
★この歌。渡辺さんの歌だと思わないで読んだら、奥さんが怒って叫んでいて、それをご主人
 が狂わないうちに何とかなだめたけれど今度は自分がいらいらとしてしまう、そういう歌と
 も読めますね。(M・S)
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渡辺松男の短歌鑑賞  320、321

2021-09-29 20:03:54 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究39(2016年6月実施)『寒気氾濫』(1997年)P133
  【明解なる樹々】『寒気氾濫』(1997年)133頁
   参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部 慧子   司会と記録:鹿取 未放


320 一ミリに満たざる髭も朝ごとに剃りて制度の内側の顔

       (レポート)
 制度の中のこまごまとした制約、規約があり、また職務としてゆるさよりは明確さが求められるはずだし、さまざまに内的葛藤もあろう。それをかかえる胸中の、それはそれとして、髭はまず一ミリに満たざるものも処理するごとく剃り、朝朝制度の内側へすべり込んでゆく。(慧子)


       (当日意見)
★レポートに「職務としてゆるさよりは明確さが求められる」とありますが、これをわざわざ書か
 れたのには訳があるのですか?(石井)
★わけはありません。「ゆるさ」はいらなかったですね。(慧子)


321 誰よりも俯きてあれわが日々よ俯かざれば時代が見えぬ

      (レポート)
 魅力的で箴言のような一首。「誰よりも俯きてあれ」とは謙虚であれ、自己をよく見つめて忠実であれと戒められているように受け取った。もちろん戒めであろう。だが修身上のことのようにのみは受け取れない。このままではどうも下句に繋がらない。では上句のように俯きていればどうなるのだろう。顔を晒さないことになろう。何に対して?世の中に、時代にということになろうか。つまり時代を表層的、常識的でなく、それらを突き抜けて深くみるために、逆説的に「俯きてあれ」といってはいないか。次のような文章に出会ったことが理解の助けになったので記載する。(慧子)
 しかし人間であっても樹におけるのと同じなのだ。高く明るい処へのぼろうとすればするほど、その根は、いよいよ力強く、地中深くへと進んでゆくのだ、下方へ……(以下略)
                ニーチェ著・原田義人訳『若き人々への言葉』(角川文庫)
 

         (当日意見)
★引用されたニーチェの言葉は魅力的ですが、私は少し違うように感じました。目を伏せるのは目
 を開けて見てしまうといろんなものにまどわされて本当の時代が読めなくなるのでなるだけ心の
 目、自分の考えに従って世の中を見ようという意味なのではないかと思います。目の前で繰り広
 げられる人間関係だったり、テレビニュースだったり情報雑誌だったりいろいろありますが、自
 分の思考を信じていこうと。(真帆)
★私もこの歌とニーチェの言葉はあまり関係ないように思います。(石井)
★慧子さん、ニーチェのことばとこの歌はどう関係するのですか?(真帆)
★逆説的に「俯きてあれ」だから、樹が伸びる為に地下に根を張るのと同じなんです。(慧子)
★私は目隠しじゃないけど、目の前の現実に惑わされないように「俯きてあれ」だと思います。
 内へ内へではないと思います。(真帆)
★そうですか、惑わされるな、というところが読めていませんでした。(慧子)
★「目の前の現実に惑わされるな」は間違いではないと思うけど、そこをあまり強く押し出さない
 方が私はいいと思います。内省的、思索的な姿勢によって時代が認識できるということだと思い
 ますが。その為にニーチェを引用されたので、私は関係があると思います。(鹿取)
★「考える人」のポーズは俯いていますよね。だから時代を真摯に見ようとしたら俯かないといけ
 ないんじゃないかな。慧子さんの「謙虚であれ」も一つの捉え方でいいとは思います。(石井)
★レポート1行目から2行目にかけて「自己をよく見つめて忠実であれと戒められている」の 
 「られ」は、受け身ですか?尊敬ですか?(鹿取)
★受け身です。(慧子)
★それだと違うように思います。松男さんは他人に対して「俯きてあれ」って言っているのでは
 なく自分に対して言い聞かせているんですよね。だから「誰よりも」が前に付くのです。「謙
 虚であれ」も同様で他人に言っているのなら違うと思います。自分の内面をよくよく見つめるこ
 とによってしか時代は見えないんだぞと自分に言い聞かせている歌だと思います。他人に向かっ
 てお説教する態度はこの作者には無いので、レポートの「だが修身上のことのようにのみは受
 け取れない」も、修身の要素はなくて、それ以外が大切と思います。ニーチェの引用は「宇
 宙のきのこ」の鑑賞でもこの部分もう少し長く引用しましたし、しばしば樹木関連の歌で話
 題に上ったところですね。(鹿取)
★この歌の「時代」は過去のことではないですか?今の時代ならまっすぐ目をあげている方が見や
 すい。俯いて見えるのは過ぎ去った時代の事だからでしょう。(M・S)
★それだと当たり前すぎて面白くないです。(石井)
★常識ではM・Sさんのおっしゃるとおりなんですが、松男さんは違う姿勢の方なのでしょうね。
 『寒気氾濫』の出版記念会で、山田富士郎さんがこの歌を褒められたのを覚えています。
     (鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞  319

2021-09-28 18:17:02 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究39(2016年6月実施)『寒気氾濫』(1997年)P133
  【明解なる樹々】『寒気氾濫』(1997年)133頁
   参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部 慧子   司会と記録:鹿取 未放


319 天上に白もくれんの花ゆれてわが目わが日々白くくもらす

     (レポート)
 白もくれんの花が咲きゆれて「わが目わが日々白くくもらす」ことになる。ここに示されていないが、くもる以前のくらしをなんらかの色としてとらえていたのかもしれない。そこにあくまで天上的な花の白もくれんがゆれるのだが暮しの色が一変するのではなく、くもるのだと地上の者の声がある。四ヶ所の「く」の音はくぐもった感があり、一首の意図に添っている。(慧子)


     (当日意見)
★「くもる以前のくらしをなんらかの色としてとらえていたのかもしれない」とありますが、
 どこから連想されたのですか?(石井)
★どこからも連想はしていないのですが、くもるからには以前に何らかの色があったのだろうと思
 って。(慧子)
★くもらす前に何らかの認識があったということでしょうか?(真帆)
★「白くくもらす」は白もくれんの白から来た心象に近いですね。だからくもる以前のくらし
の色というのはおかしいのでは。(石井)
★私も石井さんや真帆さん同様「くもる以前のくらしをなんらかの色としてとらえていたのか
 もしれない」に疑問をもちました。白もくれんが咲いたから「わが目わが日々白くくもらす」
 ことになるので、それ以前を別の色として捉えないといけない必然性は無いと思います。
 天上的な白いもくれんが咲いて自分の目も日々も清らかな白い色で満たされている、そんなこと
 を言っているのでしょう。ただ、それを「くもらす」って捉えたところが独自だと思います。
(鹿取)
★私は未来が白くくもっていて不安を感じていらっしゃるのではないかと思いました。行く末が霧
 みたいにはっきり見えない。(M・S)
★「天上」って言葉遣いからして清らかなイメージで、精神が浄化されている感じだから、ここで
 は未来の不安とかいうことではないでしょうね。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞  199

2021-09-27 18:21:20 | 短歌の鑑賞
 追加版・渡辺松男研究24(2015年2月実施)
   【単独者】『寒気氾濫』(1997年)83頁~
    参加者:かまくらうてな、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:崎尾 廣子 司会と記録:鹿取 未放

  ◆坂井修一さんの『蘇る短歌』(本阿弥書店)よりの引用部分を追加しました。
            
  ◆欠席の石井彩子さんから、いただいた意見も載せています。
    

199 俺はいわゆる木ではないぞと言い張れる一本があり森がざわめく

      (レポート)
 森には個性豊かな木々が立っており森閑としている。しかし一本の木が森に波風を立てている。余り意味のない意見を述べその場にいる人々を苛立たせる一人の人を浮き彫りにしているようだ。  (崎尾)


      (意見)
★この辺りからこの一連の解釈には単独者キルケゴールを意識しないといけないと気がついた。こ
 の一本は単独者なんですね。(崎尾)
★心を持った人間のような木だと思っているんじゃない。「森がざわめく」は、俺たちだって同じ
 だよと他の木たちが思っているんじゃない。(曽我)
★要するにこの木は突っ張っているんですね。突っ張ることで注目されたいみたいな。(うてな)
★単独者の自負ですね。全体として見え方が違っているのかなと。普通の見え方だと森がざわめい
 ている中に一本の木が立っていると。ところがここは一本の木が立っていて森がざわめいている。
 単独者から見た見方なわけで、それが面白いなと。(鈴木)


      (後日意見)
 『キリスト教の修練』でキリスト教界の虚偽と欺瞞を暴露したキルケゴールは、デンマーク国教会を敵にまわしてしまった。「俺はいわゆる木ではないぞ」はこの孤高なる言説のことで、単独者たるキルケゴールの矜持を表現している。国教会批判の彼の新しい言説は、それまで集団の中で安寧を得ていた教会の群衆=森の不安な声となって「ざわめき」を起こさせたのである。(石井)


       (後日意見)(2021年8月)
 坂井修一さんの近刊『蘇る短歌』にこの歌が採り上げられている。歌の解釈で終わらず、引用最後の三行で作者の松男さんや世界に対する目配りが行き届いていて深く、素晴らしい解説だと思うので、以下、引用させていただく。(鹿取)

 ……森の中でちょっと変わった雰囲気の木を発見したのだろうか。一首の中では、この特異な木が意地を張って自己主張している。すると、他の木々がざわめき始める。ちょうど人間社会で、変わり者が浮いた発言をした後のように。
 ここでは「俺はいわゆる」の奇妙で重たい初句が、世界から浮き上がってしまう木(や人)の性格をよく表しているだろう。四句まで一気に言い切ってここで区切れを入れ、結句は森全体に転じる。(中略)起伏のある人工的な構成をとっているが、それでもふっくらとやわらかく、どこか人間臭い。
 渡辺は、この「一本」に強い興味と同情を示しつつ、「森」のざわめきも理解する。私たちの世界は、しばしばこういう波風の中にある。そして、微妙な変化と揺り戻しを繰り返しながら、時間が過ぎてゆく。【坂井修一『蘇る短歌』(本阿弥書店)より】

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渡辺松男の一首鑑賞 318

2021-09-26 19:32:05 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究38(2016年5月実施)
  【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
   参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、Y・N、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:石井 彩子   司会と記録:鹿取 未放


318 断面というもの宙にきらめかせ少女は竹刀振りおろしたり

      (レポート)
 これは少女が力を込めて、思い切り竹刀を振り下ろす瞬間を詠んだ歌である。普通の肉眼では、竹刀が大きく振られる一瞬の動きとしか捉えられないが、もし、一秒間に1000億フレームの撮影が可能なハイスピードカメラでみれば、まさに光の波が空間に断面を生み、宙に光の乱舞がみられるだろう。視覚には瞬間としかおもえないものをマクロに引き延ばし、描写する手法は葛飾北斎の『富嶽三十六景』ではみられるが、短歌作品では稀ではないだろうか。
     (石井)
 ハイスピードカメラ:1秒間に100枚以上撮影できるカメラを「高速度カメラ = ハイスピードカメ  ラ」と呼んでいる。今のところ、20,000,000コマ/秒までの高速度カメラが市販されている。 
            (Wikipediaその他のネット検索より)        
 富嶽三十六景:波頭が崩れるさまは常人が見る限り、抽象表現としかとれないが、ハイスピードカメラなどで撮影された波と比較すると、それが写実的に優れた静止画であることが確かめられる。      (Wikipedia)

【レポートにはここに北斎の絵画2枚が載っていますが、著作権の関係でブログでは省略します。】


       (後日意見)
 レポーターのハイスピードカメラという見方は、とても面白い鑑賞である。しかしそういうものを援用しなくとも、竹刀を振り下ろす動作によって空間がまっぷたつに切れ、その断面が美しい光に輝く様はこの歌を読んだ瞬間に眼前に見えるものである。少なくとも、私には昔からこの歌を読む度に見えていた映像である。いわば科学を先取りするのが詩の力で、渡辺松男はここでその力を見せてくれているのではなかろうか。竹刀を振り下ろすのが少女だという設定がすばらしく、鮮やかな歌である。ところで『蝶』(2011年刊)にはこんな歌がある。〈竹刀ふりくうかんにだんりよく感ぜしはくうかんに亀裂はひるちよくぜん〉(鹿取)


       (後日意見)に対する反論(2016年8月)(石井)
(後日意見)では、掲出歌の詩的真実は科学を援用しなくても伝わり、むしろ科学を先取りしているのではないか、ということを述べておられる。たしかに詩は永遠であり、科学は常に上書きされる宿命をもつ、が、人間は「真・善・美」を求めてやまない存在であり、それぞれ次元が異なるだけで、「美」のほうが「真」よりも優位とは言えまい。以前、葛飾北斎の『富嶽三十六景』が、肉眼では見えない瞬間の写実画だというテレビ番組があった。北斎は雨つぶが落ちてゆく様子をじっと眺めていたという。私は北斎が、極小の瞬間を捉えていたという心眼の確かさに感銘した。それは感動したバッハの音楽が美しい数字のハーモニーであったり、『最後の晩餐』の美が計算された構図によるものであることと似ている。印象派の絵が刻々の時間を凝視し拡大したものであるなら、北斎の絵は極小化したものだろうか。絵で描かれた極小の瞬間があるとすれば、詩や短歌にもあるだろうか?
 今回の歌はそのような思いに叶った歌であった。少女が竹刀を振り下ろす「断面が美しい光に輝く様」の詩情は誰でも共感するであろう。レポーターとしては、そのようなわかりきった鑑賞は省略し、なぜ「宙にきらめかせ」という表現がくきやかで美しく感受されるのか、肉眼では見えないハイスピードカメラの瞬時が「宙にきらめかせ」という映像になるということを、一つの根拠として提示した。けして奇を衒ったのではない。ある作品の鑑賞には、様々な分野からの考察は必要であろう。科学というのも、そのような理解の一助である。少なくとも科学的な鑑賞のみを邪道だとして、排除されてはならない。むろん、このような分析や考察がなくとも、この作品のすばらしさ、
この歌から受ける感動や共感は変わらないというのは自明の理である。が、それのみだけで終わったのでは、研究する場は成り立たない。研究とは、何故その歌がよいと思ったのか、互いにその根拠を示しあい、議論することによってより一層、作品の理解を深める場でもあるからである。
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