かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 2の123 追加版

2019-08-31 20:23:13 | 短歌の鑑賞

 鶴岡善久氏による追加版
  ※(鶴岡善久)とあるものは「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号)
    より引用

 渡辺松男研究2の16(2018年11月実施)
    【樹上会議】『泡宇宙の蛙』(1999年)P80~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:泉真帆   司会と記録:鹿取未放

123 あっけなき鳥の交尾を空に見て羽毛ほど吾はかるくなりたり

          (レポート)
 福岡伸一著『新版 動的平衡2』(71頁)に興味深い文章があった。少し長いが引用させていただいた。

  「一方、大絶滅を生き延びて繁栄したのは哺乳類だけではない。翼をもち、空を飛ぶことができ た鳥たちも成功者だった。彼ら彼女らは、飛ぶために特化された身体を持つに至った。吸うだけで なく息を吐くときですら、肺に酸素が送り込めるよう、気嚢(きのう)という空気袋を肺の後方に 備えた。
  何かを溜(た)めて体重が重くなることを極力避けるため、膀胱と大腸のほとんどをなくした。 だから、鳥はうんちとおしっこが同じ穴からたちまち出てくる。それだけではない。メスなら卵を 産む管、オスなら精子を出す管も、この同じ穴と合一している。だから鳥はすべてのことを単一の 穴で行う(総排泄口)。そしてほとんどの鳥にはペニスがない。交尾は、オスとメスが協力して総 排泄口をくっつけ合う行為となる。」

 一首を読むとその交尾も「あっけな」いのだとある。愛欲まみれの人間世界とくらべて鳥はなんとシンプルなのだろう。「羽毛ほど吾はかるくなりたり」に、快楽もふくめた性愛の煩わしさから解放された作者の心情が「羽毛ほど」に現れているような気がする。(真帆)


     (当日意見)
★福岡伸一さん、私も大ファンですけどものすごく文章の上手な人ですね。川上和
 人さんの『鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。』というのも面白かっ
 たです。お二人とも、鳥が軽くなった進化の過程を書いていて、今の引用部分も
 そこの仕組みの説明が面白いですね。羽毛ほど軽くなるって、ほとんど軽くなっ
 いないけど、これは人間からの視点です。もし、主体が鳥だったら「羽毛」では
 なく別の表現になりますから。この歌、好きです。(鹿取)
★鳥の交尾ってわからないんじゃないかな。(T・S)
★アマツバメだったかな、飛びながら眠るし、飛びながら交尾するんですね。だか
 ら一瞬なんでしょう。それを見て、〈われ〉は何かとってもサバサバした感じに
 なったのでしょう。(鹿取)


     (後日意見)
 余談だが、アフリカからスウェーデンなど欧州に渡りをするヨーロッパアマツバメは、10ヶ月間着地しない個体もいるという。雛を育てる約2ヶ月間以外は食事も空中で済ます。飛びながら眠るそうだから、交尾も飛びながらするのだろう。(鹿取)


        (後日追加)2019年5月
 …実景を目撃したというより、むしろ青い広大な空に交尾する二羽の鳥を幻視したと理解したい。そのことによって自らの存在することの重さはかぎりなく軽く自由になるのである。「透視、すなわち愉悦」とでもいうべき原理が渡辺松男の歌にはあるのである。(鶴岡善久・2000年)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺松男の一首鑑賞 2の80 追加版

2019-08-30 19:59:08 | 短歌の鑑賞

 鶴岡善久氏による追加版
  ※(鶴岡善久)とあるものは「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号)
    より引用

 渡辺松男研究2の11(2018年5月実施)
    【夢みるパン】『泡宇宙の蛙』(1999年)P57~
     参加者:泉真帆、A・K、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放

80 みごもれるおみなの指にわがおもうお蚕様は透きゆきにけり

     (レポート)
 妊娠している女性の身体の指に注目する。指には清潔感があり、そのふっくらしているであろう指に蚕を連想したのだろう。身籠もりということを思う作者の心には、神秘を感じ、つつましさがあるだろう。指を見ながら、蚕を連想しながら作者に恍惚感があったのか、「お蚕様は透きゆきにけり」と表現する。(慧子)


      (当日発言)
★身籠もった女の指が蚕の透き通ってゆく感じに似ているというのでしょうか?よ
 く分からなかったのですが。お蚕様と妊娠したおんなの指はどういう関係にある
 のでしょう?(A・K)
★すみません、調べてこようと思って調べられませんでしたが、繭になる前の蚕は
 透き通った感じになっていくのでしょうかね。(鹿取)
★身籠もるとだんだん聖なる感じになっていくのかなと。(真帆)
★「透きゆきにけり」のところは手触りがあるので、作者は養蚕をよく見る機会が
 あったのかもしれませんね。(鹿取)
★「透きゆきにけり」には身籠もっているおんなの生臭さみたいなのも感じますね。
    (A・K)
★作者は「おみな」って表記していて、これはもともとは若く美しい女性を指す語
 ですが、それでも何かマリアさまみたいな清らかさではなくて、原始の女のよう
 なふてぶてしさとか、気味悪い印象を持つのは、今A・Kさんがおっしゃったよ
 うに生臭さがあるからなんでしょうね。まあ、気味悪く思うのは細長い虫が苦手
 って個人的な私の嗜好もありますけど。A・Kさんが生臭さという言葉にしてく
 れたので、やっと私も自分のもやもやが言葉になったのですが。(鹿取)


        (まとめ)
 蚕の4齢幼虫は次の眠りに入る前に体に光沢がでるそうだ。その後眠りに入り、5齢幼虫になって7日経つと食べなくなり、透き通った体から中の絹物質が見えるため黄色~飴色のように見えるらしい。この後、繭を作り始めるという。「お蚕様は透きゆきにけり」とはこの4齢幼虫あたりの蚕を言っていて、女性の指とのアナロジーを感じているのだろうか。やっぱり生臭い感じがする。(鹿取)


          (後日追加)2019年5月
 妊娠した女性の指から蚕を連想した、と解してしまってはこの歌の面白みは半減する。妊婦の「指」と「お蚕様」はまったく異なる。しかも確乎として存在している別個のものなのである。したがってこの歌では妊婦のふっくらとした指が見えている。そして同時に蚕の透明に肥えてくるぶよっとした胴体が指と入れ替わって見えてくるのである。二面、あるいは二方向へ向けられた透明への信頼がこの歌の生命なのである。(鶴岡善久・2000年)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺松男の一首鑑賞 2の73 追加版

2019-08-29 17:49:53 | 短歌の鑑賞

 鶴岡善久氏による追加版
  ※(鶴岡善久)とあるものは「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号)
    より引用

  渡辺松男研究2の10(2018年4月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年)
    【邑】P50~
     参加者:泉真帆、K・O、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取未放
  
73 土のなかの無数の邑(むら)が笑うなり掘りおこされてうれしげな邑

     (レポート)
 「うれしげな」という形容詞から、スコップか鍬で掘り起こされ、陽の光をあびてほっこりした土の塊を思い描いた。ふしぎな魅力の渡辺松男ワールドに引きずりこまれる一首だ。地中には「無数の邑」があるというとらえかたがとても魅力的だった。これは地中に生きる虫たちのコロニーや棲み分け、そいういったものを表現しているのだろうか。掘り起こされてたっぷり酸素を吸える土や微生物や虫たちの歓びがつたわってきた。(真帆)


     (当日発言)
★楽しい歌だと思います。レポートの虫たちで少し分かってきました。(M・S)
★私は次の歌との関連で掘りおこされたのは古墳だとばかり思っていましたが、なるほど虫たちの
 コロニーというのも面白いですね。「無数の邑」という言いまわしにもぴったりですよね。そう
 いう場面なら体験していますし。(鹿取)
★いろんな取り方ができますが、私は遺跡、縄文時代とかのイメージも重なっているのじゃないか
  と思いました。虫とかあらゆる地中の生物のような感じもするし。次の歌を読むと古墳でもある
  し、いろんなものが重なっている感じ。(K・O)
★掘り起こされて喜んでいるのもポイントかな。中国の皇帝の古墳とかだと発掘されて人目にさら 
 されるのは苦痛で地中にひっそり眠っていたかったのにという思いもあるでしょうが、ここは喜
 んでいる。古代の建物の遺構なんかは新しい風やら光が入って嬉しいかも。余計なことを言いま
 したが、この作者のポケットの多さに、とにかく凄いなあと思います。(鹿取)

         (後日追加)2019年5月
 この歌にもまた説明しようのない豊かなユーモアとひかりがある。もしかするとこの笑う邑は動物なのではないか。発掘された途端邑は無数の土竜(もぐら)となって太陽に手をかざしているのではないか――。
      (鶴岡善久・2000年)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺松男の一首鑑賞 2の59 追加版

2019-08-28 21:06:56 | 短歌の鑑賞

 鶴岡善久氏による追加版
  ※(鶴岡善久)とあるものは「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号)
    より引用

  渡辺松男研究2の8(2018年1月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年)
    【百年】P40~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:泉真帆 司会と記録:鹿取未放

  
59 妣(はは)はいまいずくのくにを旅ゆくや大欅揺れ水ふりこぼす

     (レポート)
 亡き母(妣(はは))を思い大空をみあげる作者。欅の大樹からざーっと水滴がおちてくるというのだが、作者の涙もあるようだ。欅の木肌のもつ少し女性的なすべらかさも妣への連想とうまくつながってゆく。(真帆)


      (後日意見)
 「妣(はは)はいまいずくのくにを旅ゆくや」の「いずく」はたぶん宇宙的なスケールなのだろう。大きな欅が風に揺れて雨滴をふりこぼした時、ふっと妣の通り過ぎた気配を感じたのかもしれない。母性と水は繋がりやすいが、「水滴」でも「雨滴」でもなく本質的な「水」を選択したところが、歌を大きくしている。(鹿取)


          (後日追加)2019年5月
 …この歌には渡辺松男ののびやかな生死観が表出されている。上の句は字句通りに理解すればよい。下の句には珍しく渡辺松男の自然回帰の心情が豊かにあふれる。遠い時空を旅する妣の魂と、目前に水をふりこぼす大欅。渡辺松男のニヒリズムの通路の先方にある明るさが見えてくる歌である。(鶴岡善久・2000年)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺松男の一首鑑賞 2の57 追加版

2019-08-27 17:40:46 | 短歌の鑑賞

 鶴岡善久氏による追加版
  ※(鶴岡善久)とあるものは「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号)
    より引用

  渡辺松男研究2の8(2018年1月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年)【百年】P40~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆 司会と記録:鹿取未放

  
57 百年が浮雲として過ぎ行けり木が木でがまんしているあいだ

         (レポート)   
 「木が木でがまんしている」とは、やはり作者の今の胸中のように思える。木とて風などになりたいときもあるだろう。我身に与えられた宿命に真向かい耐え根を張る間、遥々と百年が過ぎたというのだが、「浮雲」に対比させ木の矜持も感じられる一首だ。(真帆)


      (当日意見)
★100年は人間にも把握できそうな時間だ。過ぎ去ってみれば浮き雲のように軽
 い時間だ。木であり、自分である下句のがまんはそれほど嫌ではなかった。肯定
 的な感じ。(慧子)
★漱石の「夢十夜」の第一夜を思いだしました。死ぬ前に女が、墓の傍で100年
 待ってというので、残された男が100年待つ話です。あの小説では太陽が昇っ
 ては沈み、昇っては沈み、男が騙されたのではないかと思う頃、百合の花が自分
 の鼻先で開いて、100年が来たんだと分かるという話です。「夢十夜」や55
 番歌「松の根が岩を溶かしているあいだ日輪まわる巨の風車」では太陽が時間を
 表していましたが、ここは雲ですね。木は飛びたとうとしても根が張って動くこ
 とができない。それでずっと一箇所に我慢している。動けない木の上を浮き雲が
 来る日も来る日も浮かんでは消えていった。そうして100年が過ぎた。私は木
 にあまり人間の心を投影しないで、木そのものとして鑑賞した方がいいと思いま
 す。(鹿取)


      (後日意見)
 この一連、椎、松、杉といろんな木が出てくるが、渡辺松男が書いたエッセイ【樹木と「私」との距離をどう詠うか】(「短歌朝日」2000年3、4月号)に次のような記述がある。

 ◆それぞれの木には名前があり、形も大きさもみんな違う。違うものに対しては同じ距離はとれ
  ない。私と欅との距離、私と杉との距離は違うのだ。

 上の引用部分は上記のエッセイの導入部分。より本質的な部分を上記エッセイから抜粋で下に引用する。(鹿取)

 ◆木は生き方として不動性を選択したときに垂直性を運命づけられた。
 ◆私と木との関係はダイナミックで、私の思いのなかに閉じ込めようとしてもは
  み出してしまう部分、そこに木の本領があるのだし、そこに私は引かれる。


          (後日追加)2019年5月
 …渡辺松男の独特の時間軸が展開されるが、この歌で注目すべきは「木が木でがまんしている」の部分である。百年だろうが五百年だろうが枯れないかぎり木が木として存在し続けるのは自明の理である。にもかかわらず渡辺松男は木が木であることにひどく忍耐していると断ずるのである。これは木の存在そのものが非情に切迫した状況におかれていることにほかならない。これは何気ないしごく当り前な是認の事物でさえも、存在としての鋭い痛みを有している、と渡辺松男が考えていることの証である。(鶴岡善久・2000年)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする