かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 114

2020-10-31 20:44:47 | 短歌の鑑賞
   ブログ版 渡辺松男研究13【寒気氾濫】(14年3月)まとめ
     『寒気氾濫』(1997年)48頁~
      参加者:崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:崎尾廣子 司会と記録:鹿取 未放
          


114 火口原わが耳となるすずしさよ夏の夜深く落石つづく

       (レポート)(崎尾)
  火口原:複式火山で、外輪山と中央火口丘との間に広がる平地。箱根の戦国原、阿蘇山の阿
      蘇谷、南郷谷など。

                                      
       (発言)
★作者はどこにいるんですかね。火口原のホテルかなんかにいて落石の音を聞いているんでしょう
 か。(鈴木)
★夜深く火口原を歩くとかいうことがあるのでしょうか。(鹿取)
★火口原って広いところですよ。パンフ持ってきましたが。昔の噴火が火口原になったんだから今
 落石しているはずはない。夜出ていくこともないので、部屋にいて自分の耳がすずしさを誘い、
 昔むかしの落石を耳が聞いている。(藤本)
★火口原自体がわが耳になるのではなくて、「火口原」の後に切れがある読みですね。すずしさ、
 というのは精神的なある気分で、渡辺さんの歌には遙かなもの、化石の歌とかによく使われるキ
 ーワードですよね。私は夜中火口原にいたら、静かなので他で起こっている落石の音が聞こえる
 と思いましたが、はるか昔の幻聴を聞いていると取ることもできますね。(鹿取)
★耳となるというからには落石の音はどこかから聞こえているのでは。これが幻聴ということにな
 ると、歌全部が幻想になる。実感したものを元にしないと。作者がどこにいるかでこの歌のリア
 リティが違ってくる。(鈴木)
★歌の設定の中では真夜の静寂の中で落石の音を耳が拾っている。それが幻聴か実際の音かはどち
 らでもかまわないと思う。「火口原」で切れると読むと、やはり作者の位置は火口原しかな
 い。(鹿取)
★僕は火口原が耳の形をしているんだと思います。(鈴木)
★鈴木さんのように読んだら歌としてはつまらない気がするけど。(藤本)

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渡辺松男の一首鑑賞 113

2020-10-30 17:29:45 | 短歌の鑑賞
   ブログ版 渡辺松男研究13【寒気氾濫】(14年3月)まとめ
      『寒気氾濫』(1997年)48頁~
      参加者:崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:崎尾廣子 司会と記録:鹿取 未放
          


113 重力の自滅をねがう日もありて山塊はわが濁りのかたち

      (レポート抄)
 浄化でき得ない自身の濁りを詠い切実である。(崎尾)


      (当日発言)
★自分の濁りのかたちである山塊がなくなってしまえばよいという歌です。ニーチェにとっても重
 力は大事な力で、重力がなくなればわが濁りも無くなるんじゃないかと。(慧子)
★慧子さんのニーチェとの関連のさせ方は違うんじゃないかな。ツァラツストラは重力をあざ笑
 いながら深山に消えたという渡辺さんの歌を以前やりましたが、あそこでは精神の高みに上ろう
 とする自分を引きずりおろす力として重力といっているように思えましたが。私はこの歌ものす
 ごく単純に、山登りが辛くて重力がなかったら楽なのに、と考えながら山塊を目の前にしている
 のかと解釈していましたが。肉体的に辛くてある時ふっとそんな破滅的な考えが浮かんだと。ま
 るで自分の心の「濁りのかたち」のように山塊が横たわっていると。でもこれじゃ渡辺さんの歌
 らしくないですね。(鹿取)
★私は「重力の自滅」ってよく分からないです。自分の死を願う日もあるけど、ってことですか。
 山塊を見ながらこれは自分の精神の濁りと同じで、動かないと思っているのでしょう。自分の自
 滅なのか地球のことなのか、もっと他のことなのかよく分かりません。(藤本)
★この重力はニーチェと関係させなくても読める歌。自分の心身の濁りが山塊のように形をなして
 いて、それは重くて辛いこと。そう考えると山塊は自分の力では取り払えないので、重力がなく
 なってくれれば山塊も形をなくす可能性がある。(鈴木)


       (後日意見)(2019年1月)
 『泡宇宙の蛙』の重力の歌(超新星(スーパーノヴァ)重力に負け爆発すサラリーマンは勝たねど負けず)を鑑賞していて、113番歌の鑑賞はずいぶん的外れだったなと気づいた。初期宇宙の発生時から重力は宇宙の基本構造を形作っているということだから、重力の自滅とは、たぶん宇宙の滅亡のことなのだろう。そしてそういう願いを持つ自分のこころの濁りを目の前にそびえる山塊に例えている歌なのだろう。この一連の表題は「寒気氾濫」で、歌集名と同一であり、掲出歌はその2首目。なお1首目は「みはるかす大気にひかる雨燕にわたくしの悲は死ぬとおもえず」である。今あげたような解釈をすれば1首目の美しく清新な歌にもきれいに繋がる。
 (当日発言)の二つ目の★鹿取発言の中で言っている渡辺松男の歌は『寒気氾濫』冒頭一連中にある「重力をあざ笑いつつ大股でツァラツストラは深山に消えた」。
 ついでなので、重力の定義を『ホーキング、宇宙と人間を語る』(2011年刊)から引いておく。【自然界の4つの基本的な力の中で、最も弱い力。質量エネルギーを持っているすべての物質間に働 き、お互いを引きつける】
 作者は、どれくらい科学的な「重力」の定義に忠実な使い方をしているかは分からないが、重力は全ての物質間に働くのだから、少なくとも、比喩的にいって引っ張り下ろそうとする力ではないし、もちろん上からの圧力でもない。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 112

2020-10-29 17:39:48 | 短歌の鑑賞
   ブログ版 渡辺松男研究13【寒気氾濫】(14年3月)まとめ
      『寒気氾濫』(1997年)48頁~
      参加者:崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:崎尾廣子 司会と記録:鹿取 未放
          
112 みはるかす大気にひかる雨燕にわたくしの悲は死ぬとおもえず 

        (レポート抄)
 鳥の中で最も空中飛行に適した形をもつ(言泉・小学館)とある雨燕の特徴が「大気にひかる」で捉えられている。「わたくしの悲」は静謐であり人生の本質を詠っている。(崎尾) 

        (発言)
★「ひかる雨燕」と「わたくしの悲」はイコールじゃないかと思いました。そして「ひかる雨
 燕」はとても愛しいものに思えたのでそれが死ぬとは思えなかった。(慧子)
★僕も慧子さんと同じような意見です。普通は死って強いマイナスの言葉だけど、この場合だ
 とこ の悲しみはとても深いものがあって、レポーターが人生の本質みたいなものだと言っ
 ているけど そんなものに繋がる感じ、永遠に残るような悲。(鈴木)
★私は雨燕とわたくしの悲は同じとは思えない。雨燕を見ながら私の悲は小さいものだと思っ
 ているのかなあ。(藤本)
★私は最終的には雨燕と「わたくしの悲」は同じでもかまわない。遠くの方で飛んでいる雨燕が
 光って見える。その雨燕は生へのあこがれとかいとおしみとかを呼び起こす。そして「死ぬと
 おも えず」といっている「わたくしの悲」はそんなに嫌なものじゃなくて、この「悲」と共
 に生きていくんだというわりと昂揚した気分かなあと。もうひとつ核心がつかめない気もする
 んだけど、大好きな歌です。(鹿取)
★この悲って両方とれるんですよね。いとおしいという気持ちと、この悲をなくしたいという気
 持ちと。次の歌を読むとこの悲は「濁りのかたち」のようにも思えてくるし。でもこの悲をな
 くしたいという歌だとつまらないし。(鈴木)
★確かに次の歌は「濁りのかたち」だから。でも112の歌に限っていうと、雨燕を見てとても
 浄化された気分になっているように思えます。見て、といってもやっぱり対象化しているのと
 は違うので、そういう意味で慧子さんのいうように燕イコール私でもかまわない。(鹿取)


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清見糺の一首鑑賞   79

2020-10-28 17:57:48 | 短歌の鑑賞
   ブログ版 清見糺の短歌鑑賞 10 スペイン・ポルトガル
                         鎌倉なぎさの会   


79 坂ばかりの裏街ゆけば窓たかく超Lサイズの下着など干す
「かりん」95年12月号

 リスボンの街らしい。庶民の生活のにおいのする異国の裏町は旅人の興味をひいたのだろう。坂道の建物と建物に差し渡して干してあったのかもしれない。年配の太った人が多い西洋、「超Lサイズの下着」が活きている。 
 ★ 「窓たかく」あたり、細部をきちんと見ている。(中山)

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清見糺の一首鑑賞  78

2020-10-27 19:33:55 | 短歌の鑑賞
   ブログ版 清見糺の短歌鑑賞 10 スペイン・ポルトガル
                        鎌倉なぎさの会   


78 大聖堂、モスクいくつも見てまわる神も教祖もすでに不在の
              「かりん」95年11月号

 トレドの大聖堂(カテドラル)はスペインカソリックの大本山である。またコルドバのモスクはもとイスラム寺院だが今はキリスト教会になっている。もっとも世界にはその逆でイスタンブールのアヤソフィアのようにキリスト教会だったものがイスラムの寺院になっている例もある。それら壮麗な建物を次々と見ながら、作者にはそれがぬけがらのように写ったのであろう。「すでに不在の」とぶっきらぼうに言い放った結句にその思いが滲んでいる。また、「すでに不在の」であるからかつてはあったということを作者も認めているのであろう。

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