かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 228(中国)

2019-04-30 20:43:47 | 短歌の鑑賞
馬場あき子の旅の歌30(2010年9月実施)
      【李将軍の杏】『飛天の道』(2000年刊)180頁
      参加者:N・I、曽我亮子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:曽我 亮子 司会とまとめ:鹿取 未放

228 西域は老仙の国太太(たいたい)の傍らにしてをとこ痩せゐつ

     (レポート)
 西域諸国は古来翁を「老仙」と敬い大切にする国柄だが、みるとふっくらした奥方のそばにいるのは、みな元気のないしょぼくれた男達ばかり…。作者は、現代はいずこも同じ、西域にも女性上位の風が吹いているのだなあと、感慨を込めて詠っておられる。(曽我)
  太太:妻の敬称


      (当日意見)
★老仙といっても仙人ではなく妻帯している。「太太」の文字のイメージと、痩せた男との取り合
 わせの面白さを狙っている。(慧子)
★ユーモアがあって楽しい歌ですよね。男の老人なら誰でも老仙と呼んだとは思えないけど、もと
 もと西域は伝説の老仙が住むような土地柄だった。そして今、ふくよかなご婦人の傍らには決ま
 って痩せた男がついている。慧子さんの言うように「太太」と痩せた男の取り合わせの面白さも
 もちろんあるんだけど、痩せた男にかすかに仙人の精神性をみているのではないかな。(鹿取)


(まとめ)
 「西域諸国は古来翁を「老仙」と敬い大切にする国柄だが」とレポーターが書いていて、この歌はそれに符合するのだが、辞書やネットで一般名詞としての「老仙」を探し当てることが出来なかった。(鹿取)


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馬場あき子の外国詠 227(中国)

2019-04-29 21:29:52 | 短歌の鑑賞
馬場あき子の旅の歌30(2010年9月実施)
      【李将軍の杏】『飛天の道』(2000年刊)180頁
      参加者:N・I、曽我亮子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:曽我 亮子 司会とまとめ:鹿取 未放


227 なきむしの駱駝ぐわんこの驢馬そして辛抱のよい馬ら働く

      (レポート)
 西域(中国の西方地域を中国人が呼ぶ場合の汎称)では古来、沙漠の舟と呼ばれる乗用としての駱駝、運搬・農作業用に驢馬や馬(古くは軍馬としても)、これらは必要不可欠な家畜として飼養されてきた。作者は「なきむし」、「ぐわんこ」、「辛抱のよい」等擬人化して詠うことによって、この厳しい風土に生きて過酷な労働に従事する動物たちをやさしく思いやっていおられる。(曽我)


      (当日意見)

★性質と動物名がうまく繋がっているかどうかはしらないけど、分からなくはない。それぞれの動
 物の説明をガイドさんなどから聞いたのかしら。それとも直感的な把握?「ぐわんこ」って旧か
 な表記が面白い味になっていますよね。まあ、駱駝と驢馬と馬の見分けはつくけど、驢馬と騾馬
 は私など分からないです。土屋文明の『韮菁集』(1946年)には次のような面白い歌があり
 ます。(鹿取)
  馬(うま)と驢(ろ)と騾(ら)との別(わかち)を聞き知りて驢来(ろきた)り
  騾来(らきた)り馬来(うまきた)り騾(ら)と驢(ろ)と来(きた)る

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馬場あき子の外国詠 226(中国)

2019-04-28 23:36:17 | 短歌の鑑賞
馬場あき子の旅の歌30(2010年9月実施)
      【李将軍の杏】『飛天の道』(2000年刊)180頁
      参加者:N・I、曽我亮子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:曽我 亮子 司会とまとめ:鹿取 未放


226 鳴沙山の駱駝はわれを乗せまじとかなしげに嘶(な)く嘶けど乗るなり

      (レポート)
 鳴沙山のふもとに客待ちしている駱駝は、もう観光客をかなり乗せて疲れていたのではないだろうか。「もう働くのは嫌だよー」と嘶いて、私を乗せまいとする。しかし作者は駱駝も可愛そうだが、これを生活の糧として生きる人の為にも、また作者自身も鳴沙山から望む沙漠に沈む夕陽の絶景を見るために来たのだから…等々逡巡しつつ乗ることにされたのであろう。生きとし生きるものへの作者の優しいこころが偲ばれる。(曽我)
  

     (まとめ)
 「かなしげに嘶(な)く嘶けど乗るなり」の5句と6句の間にどのくらいの逡巡があるのだろうか。それでも乗るのは非情ではなく強さだろうと思わせられる。『青椿抄』には「人間はいかなる怪異あざあざと蛸切りて食ふを蛸はみてゐる」があり、蛸が自分を切って食べる人間を見ているというのだが、それでも作者は食べるのである。また1991年の『南島』にも「水牛は強きゆゑ車曳くなれと哀しめど乗りて海瀬(うなせ)を渡る」という歌が収録されている。(鹿取)



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馬場あき子の外国詠 225(中国)

2019-04-27 18:12:44 | 短歌の鑑賞
馬場あき子の旅の歌30(2010年9月実施)
      【李将軍の杏】『飛天の道』(2000年刊)180頁
       参加者:N・I、曽我亮子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:曽我 亮子 司会とまとめ:鹿取 未放


225 見渡せど眺むれど玉門関までのゴビ人は小さし排泄をして

      (レポート)
 敦煌より天山南路の起点である「玉門関」を遠く望めば、茫々としてとてつもない広大な沙漠が広がっている。そんな厳しい自然の中に生きるゴビの人々は大自然の前ではまことに小さく、戸外で小用等をしていても、それは全くささいな人間の生の一齣でしかない…そしてそれは瞬く間に砂の海に消えてしまうことだろう…。作者はあまりにも広大な不毛の天地に圧倒され、そこに生きるゴビの人々の労苦と悲しみを思い、排泄という人間の微細なしかし不可欠の生理的場面を結句に据えることによって生きることの哀れに心を致されている。(曽我)


     (当日意見)
★下の句、よい鑑賞だと思いますが、「人は小さし」は直接には自分を含む旅行者のことを指して
 いるんでしょうね。はるかかなたの玉門関までの荒涼とした景色を茫然と眺めている旅行者を見
 て「人は小さし」と言ったととる方がリアルな感触が伝わるように思います。排泄については、
 男と女がバスを挟んで両側に分かれ、一斉に用を足したと作者から聞いたことがあります。
    (鹿取)


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馬場あき子の外国詠 224(中国)

2019-04-26 20:30:24 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の旅の歌29(2010年6月実施)
    【李将軍の杏】『飛天の道』(2000年刊)175頁
     参加者:Y・I、T・K、曽我亮子、T・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放


224 没法子(めいふあーず) 嗟嘆し賞嘆するここをゴビ灘(たん)と呼ぶただ砂に風

      (レポート)
 「没法子」は、しかたがありません。「嗟嘆」嘆くこと。「賞嘆」感心して、褒めること。仕方がありません、ここ「ゴビ灘」では、一面の砂山、砂礫の中にあっては、ただ嘆いたり感心したりするだけです。日本人のやわらかい感情など入れる余地のないような、この「ゴビ灘」、馬場先生もただただ驚きを表しておられる。(T・H)


      (まとめ)
「没法子」は、レポートにあるとおり「仕方がない、どうすることもできない」という意味。中国に来て覚えた言葉なのだろうか。「灘」は砂漠である。「ゴビ砂漠」のもったりした言葉ではなく、「ゴビ灘」と切って捨てるような鋭い言葉の選びが、人間を寄せ付けない風景の厳しさをよく伝えている。見渡す限り砂ばかりで草も木も家も何もない、ただ風が吹き荒れ、砂を巻き上げるだけのここをゴビ灘というのだ、だから「嗟嘆し賞嘆する」ことしかできない。嗟嘆、賞嘆、ゴビ灘と「タン」の音の脚韻も、嘆きの息の強さの感覚を伝えている。何もない、何も生まない、砂と風しかない風景に圧倒されている姿が見える。面白いのは不毛の砂漠にむかってただ嘆いているのではなく、嘆きつつ賞めているところで、その点がいかにも馬場の歌らしい。(鹿取)


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