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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 266

2025-08-26 10:06:15 | 短歌の鑑賞

 2025年度版 渡辺松男研究 2の35(24年11月実施)
    『泡宇宙の蛙』(1999年刊)P171~ Ⅳ〈蝶いちまい〉
    参加者:M・A、(岡東)和子、鹿取未放
      事前意見:菅原あつ子、・山田公子


266 宙にひとつぽかんと浮いている〈きもち〉春夏秋冬草靡けども

            (事前意見)
◆草は年中風がくればその風に靡き柔軟に生きている。けれど自分は?自分は風に靡くことはなく、ただ、自分の(きもち)だけが宙にぽかんと浮いているのだ、ということか…(こころ)の立派さでも(思い)の重さでもなく、ほわっとした(きもち)。このつかみようのない、だけど確かにある(きもち)を作者は信じて大切にしているのだろうと感じた。この(きもち)は私もいいなと思う。(菅原)


★〈きもち〉とは松男氏の言うところの真実である。下句の確固たるものがあろうがなかろうが、真実というものは、ふわふわとして掴みどころのないものであると松男氏は考えているようだ。(山田)


     (当日意見)
●「かりん」の方には〈きもち〉というと「真実」だとする了解事項があるのですか。山田さんのレポートでは断定していらっしゃいますが。(M・A)
●いや、そんな了解事項はないですよ。これは山田さん個人の意見です。私はそうは思いません。ところで、この〈きもち〉というのは〈われ〉のものなのでしょうか?それとも一般的、抽象的な〈きもち〉というものでしょうか。(鹿取)
●自分の気持ちではなく抽象的なものだと思います。正体はよく分からないけど〈きもち〉というものが浮かんでいるという表現は面白いと思います。(M・A)
●〈きもち〉が宙に浮かんでいると言われると、漫画の吹き出しが浮かびます。〈きもち〉が吹き出しの中に文字になって浮かんでいるような。でもこれ、いろんな人の気持ちがたくさんの吹き出しになって浮かんでいるのではなくひとつだからね。春夏秋冬草は靡いているけれど、ひとつの〈きもち〉は忙しなく動くのではなくぽかんと浮いている。もし〈きもち〉が真実を表しているとすると、重くてぽかんとは浮かべないような気がする。(鹿取)
●「春夏秋冬草靡けども」が当たり前すぎる気がします。ここを工夫すればもっとシャープな歌になると思うんですが。〈きもち〉は山括弧でくくってあるから特別なものなんですよね。でもやっぱり何かあいまいな感じがする。宙に浮いているものに対して草は地面。一と多、無時間と時の流れも含めて、構図が明快すぎて、逆に拡散してしまっているような。説明っぽいのかな。(M・A)
⚫でも、松男さん、一対多とか好きですよね。(鹿取)  
●地面に根を張っている草よりも宙に浮いている〈きもち〉の方が信頼できるという事でしょうかね。(岡東)
●「白骨観」にもありましたね。禅のような想念、作者には世の中の実相としてそういう、つまり、無所属の存在への渇望があって、それが抽象的なイメージとして見えるということですかね。(M・A)

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 265

2025-08-25 16:56:55 | 短歌の鑑賞

 2025年度版 渡辺松男研究 2の35(24年11月実施)
    『泡宇宙の蛙』(1999年刊)P171~ Ⅳ〈蝶いちまい〉
   参加者:M・A、(岡東)和子、鹿取未放
      事前意見:菅原あつ子、・山田公子


265 蝦夷竜胆(えぞりんどう)咲きてもうすぐ冬がくる 神はしんじつ殺されたのか

            (事前意見)
◆神はしんじつ殺されたのかという問いを作者は持ち続けているのだろうか…蝦  夷竜胆の濃く深い青、静かにすっくと立つ姿、秋に咲き冬が来るまで咲いてい   る姿は修道士に似ているかもしれない。その姿を見て、ふいに自らの内にある   この問いが浮かんできたのではないか。深くて美しい歌だと感じた。(菅原)


★秋が来て蝦夷竜胆が咲いた。やがて寒く厳しい冬を迎える。〈神はしんじつころ  されたのかという下句に向けての序詞と考えられる。くるっと転換して... 神殺 し!神が神を殺す、しかし、日本神話にあるように神が神を殺しても、その血か   らは、新たな神が。神殺しは、神生み、物生みとなる。作品の下句がしっかりと   受け止めている。(山田)


    (当日意見)
●竜胆でなくてなぜ蝦夷竜胆なのか、竜胆と蝦夷竜胆の違いがわからないので、そこにちょっと疑問を持ちました。言葉としては蝦夷竜胆は力強い感じがしますね。(M・A)
●まっすぐりんと立つイメージですね。(岡東)
●「神はしんじつ殺されたのか」は納得しているのか、何かそこに複雑な思いがあるのか、またそれは蝦夷竜胆とどう響き合っているのか。大きな世界だとは思うのですが、言葉で説明するのは難しいです。ところで、渡辺さんって季節はけっこう歌われる方ですか?生と死の循環を見つめているような気がするのです が。(M・A)
●俳句をやっている人だから、季節には敏感だと思いますが、季節そのものの情感をうたうとかはしない方ですが。(鹿取)
●山田さんの解釈、日本の神が神を殺す、そしてそれは再生に繋がるという見方を面白いと思った。これだと蝦夷竜胆が俄然生きて繋がる。
 しかし、私は下の句の「神はしんじつ殺されたのか」はやっぱりどうしてもニー チェですよね。松男さん、哲学科ですし、寒気氾濫の冒頭の歌はニーチェですから、ここでは避けて通れないと思います。ニーチェは「神は死んだ」って言ったのですけれど、「近代的な個人に基づいて世界観を脱神話化した」って説明されていますが難しいですね。ここに私が高校時代に読んだ『ツアラツストラはかく語りき』の翻訳者二人(高橋健二、秋山英夫)の前書きを持ってきました。かなり長 いですが、皮肉が効いていて面白いので読んでみます。【この部分、ここでは省略】かれらは「神は死んだ」はニーチェの人間愛の宣言なのだ、と言っています。 「神は死んだ、超人生きよ」と。しかし、せっかく宗教からの脱出を説いたのに、 永劫回帰を持ち出して救いを求めた。彼岸の救済などあてにしないのが超人なのに。やっぱりニーチェも牧師の子だったというのがこの解説の結論部分です。 でも、私もこの歌はよく分からなくて、下の句の重いテーゼと上の句の蝦夷竜胆がうまく繋がりません。もしかしたら蝦夷竜胆ではなく「もうすぐ冬が来る」方にポイントがあるのでしょうか。その冬の厳しさを蝦夷竜胆の深い紫や姿が支えているのかもしれません。そしてその冬の厳しさと下の句の重い問いは意外と釣り合っているということかもしれません。(鹿取)

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 264

2025-08-24 11:15:38 | 短歌の鑑賞

 2025年度版 渡辺松男研究 2の35(24年11月実施)
    『泡宇宙の蛙』(1999年刊)P171~ Ⅳ〈蝶いちまい〉
    参加者:M・A、(岡東)和子、鹿取未放
      事前意見:菅原あつ子、・山田公子


264 シャーペンの芯かえるときさみしさよこんなにも細いにっぽんの秋

     (事前意見)
◆シャーペンの芯をかえようとしたときに感じたさみしさ、それはその細さ。そういえば日本列島も細い。そして、先細りゆくかんじ…というふうにイメージをふくらませていった歌か…渡辺松男の歌としてはわかりやすいというか、平凡なおさめかたのように感じた。(菅原)


★シャーペンの芯を代えるときに湧くさみしさとは... 細く折れやすいシャーペンに託して自身の生命の在り様を書き記すシャープペンシルへの愛おしさがひしひしと表現されている。まだまだ確立されていない日本という国をシャーペンの芯に例えての作品。(山田)


      (当日意見)
●「にっぱんの秋」とあるので、やはり社会批評は影を落としているのだろう。でもこちらは先の263番歌「秋の風しぼみてゆくはいつまでかわれら黙して都市を見下す」よりも自愛の情があるように思われる。こんなに細いのはにっぽん列島の形状ではなく、あえていえば国力とか国民性だろうか。あるいは繊細な日本文化ということか。いずれにしてもそれらはポッキリと折れやすいのだろう。(鹿取)
                                                       

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 263

2025-08-23 10:09:52 | 短歌の鑑賞

   ※今回は、一回のみ最新の研究報告に飛びます。

2025年度版 渡辺松男研究 2の35(24年11月実施)
    『泡宇宙の蛙』(1999年刊)P171~ Ⅳ〈蝶いちまい〉
    参加者:M・A、(岡東)和子、鹿取未放
      事前意見:菅原あつ子、・山田公子

                                                           
263 秋の風しぼみてゆくはいつまでかわれら黙して都市を見下す

                (事前意見)
◆秋の風がしぼんでゆくというのは冬が来るということか?「われ」でなく「われら」とは誰なのか?なぜ都市をみくだすのか?本当のところはわからない…うがったような読み方をするなら、冬(悪い時代)がやって来るだろうことはわかっているのに、我々(人間、日本人)はただ黙って都市(文明)のおごれる様、衰えていく様を見下してているだけなのだ、ということか…「見下す」の冷たさに作者のあきらめの深さを見る気もするが…(菅原)


★〈秋の風がしぼむ〉これに松男氏はどのような心を託されたのでしょうか?時は、バブル期が終わり、多くの自然災害、凶悪な事件の勃発!などなどを... 松男氏はどう感じておられるのか?下句の〈われら黙して都市を見下す〉われらの中に、確かに氏はいる!このような世情の風に無力であることの忸怩たる思いを〈見下す〉に精一杯の意地をみせて!とあってほしいと願う。(山田)


         (当日意見)
●レポートのお二人は、「見下す」を「みくだす」と読まれたようですが、「みおろす」でしょう。この一連を見ると確かに秋から冬への季節の出来事がうたわれている。そして、お二人のレポートを読むと、バブル期とか社会批評の方向が見られるので、そういうことを加味して鑑賞が可能かなあと思います。上の句は経過ですよね、そうすると凋落の兆しがありありと見えているバブル景気を暗示しているととることもできます。〈われ〉も含めてわれらはなす術もなく「都市をみおろしている」のかもしれません。「いつまでか」にため息を感じることもできます。些末なことですが、われらは村に住んで都市を(たとえば群馬の高山から)遠望しているのか、都市に住んでいるのかも実生活上は意味があるでしょうね。ただ、私自身は、こういう功利的な解釈ではなく、もう少し詩的に読みたいという思いはありますが。(鹿取)

       (後日意見)
 バブル崩壊は1990年から1993年と言われている。ちなみに第一歌集『寒気氾濫』は一九九七年刊、第二の当歌集『泡宇宙の蛙』は一九九九年刊である。
  (鹿取)

 

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馬場あき子の外国詠 10 ロシア

2025-08-22 14:04:52 | 短歌の鑑賞

2025年度版 馬場あき子の外国詠1(2007年10月実施)
        【オーロラ号】『九花』(2003年刊)135頁~
   参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、Y・S、T・S、藤本満須子、
       T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:K・I   司会と記録:鹿取未放                  
        

10 王妃の馬の額を飾る大きなるルビー諧謔として人を見てゐる

          (まとめ)
 値段もつけられないような高価な大きなルビーは、もちろん庶民には縁のないものだが、それが王妃が乗るからという理由でかつて馬車を曳く馬の額を飾っていた。それが今展示されていて観光客が「へえ、馬に飾ったんだって」などと言って驚いて見ているのである。
 この歌は主客をひっくり返して、ルビーが諧謔として人を見ていると歌っている。このルビーは王朝の歴史、ひいてはロシアの歴史的背景すべてを背負っているのである。
 こんなふうに動物のみならず無生物が人を見ているという歌い方は、この作者の一つの特色をなす方法である。思い当たる歌を歌集の新しい順に少しあげてみよう。

 今帰仁(なきじん)のノロの勾玉かぐろ玉ある日わが眼に入りて世を見る 『世紀』
 夕雲は静かに窓に近づきて少し眠つたのちの吾を見る『飛天の道』
 あたたかきぶあつき体にふれしめて少し不似合に馬の眸がみる『青い夜のことば』
 蛸はみるまろくかぐろく陰惨にわたつみの底をみし眼もてみる
                     『青椿抄』
 人間はいかなる怪異あざあざと蛸切りて食ふを蛸はみてゐる
 烏数羽黒きビニール裂きゐしが静かなる迫力に吾を見つ
   
 また最近の「かりん」(07年1月号)にも次の歌が載る。
 ヘラ鮒を沢山釣つたあとの沼静かに鉛色の眼に吾れをみる
  最後の歌、吾れにヘラ鮒を釣られてしまった沼の恨みと悲しみの入り混じったような沼の眼が見えるようである。(鹿取)

 

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