かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 226

2022-12-31 11:45:43 | 短歌の鑑賞
   2022年度版 渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
     Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆    司会と記録:鹿取未放


226 体育の日背高泡立草(せいたかあわだちそう)繁りたべてもたべても食べつくせない 

        (レポート)
  背高泡立草につく害虫、例えばアブラムシになりかわって詠んだ歌のようだ。キク科の背高泡立草の咲き誇る様をひきだす具体として「体育の日」は初句に置かれたのだろう。荒地一面が真っ黄色に見えるほどの風景が、満腹感とともに不思議と実感として伝わってくる。この一首で読者は、人ではない例えばアブラムシになることで、食するという体感を持って、風景をみるという視覚的体感が得られることを知る。(泉)


       (紙上参加)
 体育の日、背高泡立草は大繁殖しているので、食べても食べつくせないよ、と。この時代の秋の川辺の風景をうたっている。体育の日は大概晴れている。そんな秋晴れの下で、外来種の背高泡立草は川辺や空き地で大繁殖して、在来種を駆逐しつつある。だから、駆除したいけれど、かなわないということか。けれど、最近は自ら減りつつあるので、心配はいらないかもしれないですね 。(菅原)


       (当日意見)
★セイタカアワダチソウは菊科の植物だから秋を表すために体育の日を持ってきたの
 かな。(泉)
★体育の日は220番(鶏と睨みあってはおちつかず天高き日のフランケンシュタイ
 ン)の天高き日のように読みました。そこに妄想が入り込んでいる。食べているのは
 妄想。でもアブラムシに成り代わってうたっているというのも面白い。(慧子)
★短歌に主語が無いときはわれが主語ですが、この下の句「食べても食べつくせない」
 はリアリティがありますね。人がセイタカアワダチソウを食べる訳が無いので、雲に
 なったりするように虫になったんじゃないかなと思ったのです。慧子さんのお話は妄
 想の中で自分が背高泡立草 を食べるんですね。そうかもしれないなあ。(泉)
★まあ、でも、虫とは書いてないので、私はなるべく書いてあるとおりに読もうと思い
 ます。それが松男さんの言う「リアリズムの眼鏡」を掛けない方法かなあと。だから
 〈われ〉が背高泡立草を食べるんですね、やっぱり。次の歌は「掬いては日溜りをた
 べ枯れ葉たべ過食症なるやわれ痩せてゆく」で、日溜まりや枯れ葉を食べますから。
   (鹿取)
★体育の日の設定はものすごく意味があると思います。体育の日は人間も全部生きると
 いうことに肯定的で全てが満ちているような感じ、力があふれて。背高泡立草ももの
 すごい勢いで伸びてきますよね。だから体育の日の背高泡立草ということで全てが肯
 定的で勢いがあってエネルギッシュでがーっと全部が伸び合っている。国中、世界
 中、人間が生きているということにガーと進んでいくときというのは人間の欲望も満
 足度がなくて満ちてくるので、「食べても食べても食べつくせない」。体育の日も泡
 立草も人間の欲望も前に向かって生気に満ちあふれている。体育の日というのを意味
 無く持ってきているのではないと思います。アブラ虫にまでは行かないんじゃない
 か。設定の仕方について渡辺松男という人はどうなんですか。(A・K)
★A・Kさんの意見だと〈われ〉は体育の日や背高泡立草の生命力に全く溶け込んでい
 るというように感じられますが、それだと片っ端から食べていくという表現になるん
 じゃないかなあ。最後の「食べ尽くせない」には不全感があるように思います。むし
 ろ、体育の日や外来種の背高泡立草に〈われ〉の「個」が浸食されるのが嫌で抵抗し
 ているんだけど相手が手強すぎて「食べ尽くせない」。だからたじたじとしている。
   (鹿取)
★なるほどね。私も同じです。たじたじに説得力があります。渡辺さんは世界の貪欲さ
 に対して「食べ尽くせない」というけど食べ尽くせないから素晴らしいではなくて、
 ちょっと違うんじゃないかなあと言っていらっしゃる。(A・K)
★体育の日の一斉にならえ、みたいな姿勢が作者にはなじめないのじゃないかな。攻め
 込んでくるような外来種も嫌だ。(鹿取)
★二つセットでエイエイオーという感じですね。分かりました。(A・K)
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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 225

2022-12-30 10:37:15 | 短歌の鑑賞
   2022年度版 渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
     Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆    司会と記録:鹿取未放


225 胡桃の実ねずみの脳のようなれど怖がらないで割ってごらんよ

        (レポート)
 字面のまま読むと、クルミを手に乗せている人がもう一人に、「割ってごらんよ」と言っている場面になる。「怖がらないで」が逆に怖ろしさや不気味さを増幅させる。「割ってごらんよ」の誘いも怖ろしい。(泉)


     (紙上参加)
胡桃を割るとその実は鼠の脳のようだからなんだか気味が悪い。でも割って食べればおいしいよ。ちいさな子に話しかけるような下句が優しくてあたたかくて、でもなんだかちょっと怖い歌。(菅原)


       (当日意見)
★よく分かる歌ですよね。わざわざ似ていると言われると怖い感じがしますね。
   (鹿取)

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 224

2022-12-29 12:20:45 | 短歌の鑑賞
   2022年度版 渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
     Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆    司会と記録:鹿取未放


224 かわいそうに体温もあり鳴きもする鼠がぼくの脳から出れぬ

          (レポート)
 222番歌(ぞっくぞっくと悪寒するなりわたくしの何処を切りても鼠の列)の続きだろう。鼠にだって命はあるのに、自分の命の一部にされてしまった「鼠」に罪の意識を持っているようだ。「鼠」を意思の喩と取れば、「ぼく」の脳にありながら、「ぼく」に支配されている別の「ぼく」の正体「鼠」がいるのだと読め、自己によって抑圧された自己を思う。(泉)


        (紙上参加)
 脳内に鼠がいて出てこられなくてかわいそうだという。これは頭を使いすぎて頭痛がしたり不安や不眠で苦しんでいる時か、それとも一連にある悪寒のする時の状態を感覚的にとらえ表現したのだろう。「かわいそうに」がふしぎな実感を出している。(菅原)


        (当日意見)
★泉さんのレポートをいいと思いました。自分なんだけど自分ではない感じ、風邪引い
 た時などこういう感じありますね。(A・K)
★ちょっと外れるけど、馬場あき子の蛇に飲まれた鼠が蛇になってうっとりと虹を見て
 いる歌を坂井修一さんがいつも褒めていらっしゃいますね。(鹿取)


        (後日意見)
 当日鹿取発言の馬場の歌は「蛇に呑まれし鼠は蛇になりたれば夕べうつとりと空をみてゐる」(『飛天の道』)。坂井氏は、蛇になった鼠は以前の蛇にはなかった性質をもつようになるのだという解釈をされている。(鹿取)
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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 223

2022-12-28 11:58:39 | 短歌の鑑賞
   2022年度版 渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
     Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆    司会と記録:鹿取未放


223 孤独ではない・・・しかし雨の日は落ち葉のようにぺったりといる

       (レポート)
 「孤独ではない」といいつつ「落ち葉のようにぺったりといる」と負の感情を漂わせ、したがってとても深い孤独にいることが伝わってくる。雨滴のついた葉が「ぺったり」の語で、疎ましい感情につながり、取り除きたいのにくっついて離れない孤独を表現している。(泉)


      (紙上参加)
 雨の日の気分を、孤独ではないけれど落ち葉がぺったりと地に張り付くようにしていたいというのはわかるような、わからないような、でもそんな日もあるかな。(菅原)


     (当日意見)
★「ぺったりといる」のは〈われ〉ですよね。ひところ、定年後の夫が妻にべったり張
 り付いているのを濡れ落ち葉って揶揄したりしていましたが、これは誰かにではなく
 「ぺったりといる」は対象はなくて、一人で完結している動作ですよね。泉さん、
 「取り除きたいのにくっついて離れない孤独を表現している」は、「ぺったりとい
 る」のは〈われ〉ではなく、孤独が〈われ〉に張り付いているということですね。
   (鹿取)
★そういうことです。(泉)
★短歌に孤独って言葉はよほど覚悟しないと使えないですね。抽象的な観念ですから。
 「孤独ではない」って大見得きっても面白くない。下の句の「雨の日は落ち葉のよう
 にぺったりといる」の喩も効いてないですね。当たり前ですから。脱力します。
   (A・K)
★さっきの私の発言は間違っていたようです。「ぺったりといる」のは〈われ〉です
 ね。孤独ではないがその存在が消えてしまうことはないという二重否定。だから孤独
 なんだ。(泉)
★私は二重否定とも思わないけど、孤独ではないけど雨の日は憂鬱で落ち葉みたいにぺ
 ったりと存在しているよって。(鹿取)
★そうすると、ああそうですかって止まってしまう歌ですね。(A・K)
★「孤独ではない」というのが少し思わせぶりかなと思います。(岡東)
★孤独だからこそ孤独ではないと言い張っているのでしょう。(泉)
★221番の「冷蔵庫にそっと地球儀冷やすとき家族から遠く来てしまいたり」を
 A・Kさんは絶対的な孤独とおっしゃいましたが、確かにあの身震いするような恐ろ
 しい孤独感からすれば、この歌は甘いかもしれないですね。(鹿取)
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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 222

2022-12-27 18:05:31 | 短歌の鑑賞
   2022年度版 渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
     Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆    司会と記録:鹿取未放


222 ぞっくぞっくと悪寒するなりわたくしの何処を切りても鼠の列

   (紙上参加)
 風邪をひいて悪寒がするときの感じは、確かにちゅるちゅるもぞもぞ動きまわる鼠のようかもしれない 一読して、感覚的に即納得。すごい発見であり、表現力だと感嘆。(菅原)

   (当日意見)
★下の句は七・六のリズムですね。塚本邦雄は結句六音が多いですが。菅原さんと同じ
 で感覚的にとてもよく分かる。言われてみれば確かに悪寒がする時って、全身に鼠が
 詰まっているようなもぞもぞと不愉快な感覚ですよね。(鹿取)
★よく分かります。「ぞっくぞっく」が効いている。渡辺さん促音便を使ったオノマト
 ペが多いですね。「ぞくぞく」では俗っぽいけど「ぞっくぞっく」にはオリジナリ
 ティがある。(A・K)
★米川千嘉子さんが松男さんのオノマトペには心が反映していると独自性を褒めていま
 したね。(鹿取)
★「鼠の列」が素晴らしい。鼠を思いついても「列」とは言えない。ぎっしり詰まって
 いる感じがする。(岡東)

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