かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 165(ネパール)

2020-01-31 19:31:43 | 短歌の鑑賞
  馬場の外国詠 21(2009年9月)【牛】『ゆふがほの家』(2006年刊)94頁~
     参加者:S・S、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:曽我 亮子    司会とまとめ:鹿取 未放


165 聖なるもの戦火にあはず生きうるや街に反芻(にれが)むヒンドゥーの牛
  
           (レポート)
 一旦、その国に戦端が開かれれば、いかに聖なるものといえども戦火をまぬがれることは不可能でしょう。無心に草を食む聖牛の平和でのどかな様子を見るにつけ、戦争無き世を願われる馬場先生の熱いお心が私達を感動させます。(曽我)


         (当日意見)
★どんな戦争があるのか。リアルでない。(慧子)


         (まとめ)(2009年9月)
馬場あき子がネパールを訪問した2003年当時、この国は長い内戦途上にあった。すなわち1996年から2006年まで11年間続いた政府軍とネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)との戦いである。マオイストは王制打破、ネパール人民共和国の樹立を目指して戦ったが、2006年包括的和平合意で内戦は終結、国際連合ネパール支援団が停戦監視をしている。
 一方、王制については、2001年の王族殺害事件、その後のギャネンドラ国王の親政、2005年には絶対君主制導入と極端に暴走したが、2008年5月、ネパール制憲議会が連邦民主共和制を宣言、240年間続いた王制に終止符が打たれた。その後も紆余曲折をたどって、現在暫定憲法・暫定政府のもと、22政党連立のマダグ・クマール・ネパールが首相の座に就いている。(『ネパール王制解体』小倉清子著・日本放送出版協会出版 等を参照)
 以上、ネパールの近年の政情をかいつまんで記したが、常に政情は不安定で、馬場が訪問した2003年も観光旅行は禁止される危惧もある状況であった。また、チベットの難民も多く流入していて、難民村などが造営されてもいた。だから「ヒンドゥーの牛」にとって戦火は絵空事ではなく常に身近に迫っていたのである。もちろん民衆にとっても同様で、この歌、牛を言いながら一般民衆のことにも思いを馳せているのであろう。そこに祈るような思いがひそむ。(鹿取)


       (後日意見)(2015年5月)
 上記2009年9月にまとめを書いた以降も、政治は紆余曲折をたどり、情勢は安定したものではなかったようだ。現在の首相は2014年2月よりネパール会議派のスシル・コイララ。
 4月25日マグニチュード7.8の地震が発生し、数日後カトマンズ市内にコイララ首相が視察にあらわれると国内から集まったボランティアたちが首相に帰れコールを浴びせたというニュースも伝わっている。ともあれ、今回は戦火ではなく自然災害だが(もちろん実効ある対策がされてこなかった点から見ると人為災害の面もあるが)「ヒンドゥーの牛」たちはどうしているであろうか。 (鹿取)


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馬場あき子の外国詠 163(ネパール)

2020-01-29 20:06:30 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠 20(2009年8月)【牛】『ゆふがほの家』(2006年刊)94頁~
    参加者:N・I、Y・I、泉可奈、S・S、T・S、曽我亮子、
         T・H、渡部慧子、鹿取未放           
    レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放
              

163 カトマンズ今宵満月顔白く牛ら遊行す巷ひろらに

            (レポート)
 今宵、カトマンズは満月である。今、牛たちは、その大きな顔に満月の月明かりを受けて、街道をゆったりゆったり歩いている。「遊行す」「巷ひろらに」がミソである。(T・H)


            (まとめ)
 牛の顔が白いのは満月に照らされているせいであろう。「遊行」は、仏教用語で「僧が修行・説法のために諸国を巡りあるくこと」の意味だが、「巷ひろらに」歩いている牛たちを遊行ととらえたところが優れている。月光に照らされて歩む牛たちは聖なるものの原点のようだ。ゆるやかな調べであるが格調が高い。ところで、同じ旅行詠中ムスタンでもニルギリの満月を詠っているので、別の日に満月ということは現実にはないのだが、詩的真実として受け取っておく。「顔白く牛ら遊行す」という情景はどうしても満月でないと成立しないだろう。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 162(ネパール)

2020-01-28 19:46:37 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠 20(2009年8月)【牛】『ゆふがほの家』(2006年刊)94頁~
    参加者:N・I、Y・I、泉可奈、S・S、T・S、曽我亮子、
         T・H、渡部慧子、鹿取未放           
    レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放
              
162 牛の尻ゆつたゆつたと行くあとに優雅なるわがバスは従ふ

             (レポート)
 今、先生はバスに乗っておられる。バスは警笛も鳴らさず、牛のゆっくりとした歩みに従って、ゆるゆると動いている。郷に入れば郷に従え、じっとがまんの時である。(T・H)


           (意見)
★「ゆつた」「ゆつた」「優雅」とユ音が続いている。(慧子)


           (まとめ)
 牛を傷つけると刑罰を受ける。ゆえに車は牛に遠慮して走るわけだが、旅行者としては珍しい風俗ゆえ、牛の後をのろのろと進んでゆくバスを楽しんでいる。少なくとも同行した私はいらいらすることもなかった。この歌も「じっと我慢」の心境ではないのだろう。「優雅なる」はやや皮肉を効かせているかもしれないが、だからといっていらだっているのではない。慧子さんの発言にみられるように、「ゆつた」「ゆつた」はいかにものんびりとした牛の描写であり、ユ音の連続はゆったりとした穏やかな心境を伝えている。そういえば、ネパールで真っ先に覚えた言葉が「ビスタリ、ビスタリ(ゆっくり、ゆっくり)」であった。(鹿取)


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馬場あき子の外国詠 161(ネパール)

2020-01-27 21:30:22 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠 20(2009年8月)【牛】『ゆふがほの家』(2006年刊)94頁~
    参加者:N・I、Y・I、泉可奈、S・S、T・S、曽我亮子、 T・H、渡部慧子、鹿取未放           
    レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放
              
161 街の角曲がれば大き牛の尻ありてわが顔圧倒されぬ

          (レポート)
 ヒンドウ教では牛は神聖な動物として尊敬されている。牛が町中を自由に動き回っている。今、先生は、町の小路で、牛の後ろ姿・お尻に出会われ、ぎょっとされた状況がよく表わされている。  (T・H)


         (当日意見)
★顔と言っているところがよい。牛の尻と顔でお互いの高さが出ている。(慧子)


          (まとめ)
 街角の出会い頭に、車ならぬ牛の尻がぬっと目の前に現れたことのおもしろさ。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 160(ネパール)

2020-01-24 18:14:43 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠 20(2009年8月)
    【牛】『ゆふがほの家』(2006年刊)94頁~
    参加者:N・I、Y・I、泉可奈、S・S、T・S、曽我亮子、
         T・H、渡部慧子、鹿取未放           
    レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放
              
160 一寸の金の仏を得たる街犠の水牛の血を見たる街

            (当日意見)
★金の仏を土産に買ったのか、下の句は別のことがら。(S・S)


            (まとめ)
 カトマンズだろうか、この街で小さな金の仏を買った。いっぽう、同じ街で水牛が何かの生け贄として血を流しているのを見た。そういう混沌とした街の様子を感慨深く思い巡らせたのだろう。「~街」、「~街」とぶっきらぼうな感じもその統一感のなさに、しばし思考停止してことがらだけを投げ出した感がある。しかし、金の仏と水牛を対照させ、混沌そのもののような街や人間を面白がっているのであろう。(鹿取)



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