Danchoのお気楽Diary

高校3年間応援団だった「応援団バカ」の日記。スポーツ観戦や将棋等の趣味の他、日常感じる事を、「ゆるゆる」綴ります。

応援団に捧げた青春(20)/「本格的な応援指導デビュー」となった、夏の野球応援

2008-01-15 18:55:55 | 応援団シリーズ化記事
10月後半から体調を崩し、そうこうしているうちに、拙ブログの設立のきっかけとなった、渡辺 明 竜王が前人未到の4連覇に挑んだ『第20期 竜王戦』の観戦に没頭し、渡辺竜王が4連覇を達成した頃はもう師走も半ばで、それから10日程経ったクリスマス・イブには、応援団に関するびっくりするような報道が飛び込んで、慌てふためいているうちに大晦日…そして2008年の幕開けを迎えてしまいました。

そんなわけで、この『応援団に捧げた青春』シリーズも、10月18日にエントリーした第19話で「ペンディング」の状態になってしまっています。
本当に申し訳ありません

本シリーズを楽しみになさっている読者の皆さん、大変お待たせしました
今日からまた、続きを再開しますね。

第19話では、小生が(高校)1年生の時の、夏の甲子園に向けた県大会の野球応援の練習風景をお話しています。
(念のため、リンクを上に貼りました。展開が思い出せない読者の皆さんもいらっしゃると思いますので、リンクから遡って、思い出して下さい。)

今回の第20話は、『臙脂の集い』を最後に引退した3年生にとって、文字通り最後となる野球応援についてお話しましょう。

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夏の甲子園に向けた初戦…。

その舞台は、テレビ埼玉で中継がある、県営大宮球場(当然ながら、現在の球場に改装される前)でした

確か、天気は小雨が交る曇り空だったように記憶しています。

東武野田線の大宮公園駅から歩いも15分程度でしょうか…。
母校の春日部高校の最寄駅である同じ東武野田線の八木崎駅から20分弱なので、近場ではありますが、試合当日は、まずいつもの練習のように、全員が部室に集合します。
そして、団旗と太鼓はもちろんのこと、応援に必要な幟などの器材をすべて持って、練習の時のように新団長のT先輩の号令とともに、普段の練習のように「集合」してから、試合が行われる球場へ向かいます。

なお、このときは『臙脂の集い』で引退した3年生も一旦は部室にお見えになり、T先輩の号令がかかった後、下級生である小生達が作る「円陣」の一部を開けたスペース(大抵は、新幹部が並ぶ位置の向かって左側を開けるように配慮)に、ゆっくりと加わる形で「集合」して、ご指導を受けてから球場へ向かうのが、夏の甲子園に向けた野球応援に向かうときは、「慣習」になっています。

学校から最寄駅に向かうまでと、試合が行われる球場の最寄駅から球場までは、夏なの学ランに身をまとった我々応援指導部員は、無言のまま2列縦隊で徒歩で向かいます。

夏なのに、真黒な学ラン姿で額に汗する集団が、無言で移動していくわけですから、街頭を歩く人達の「痛い視線」を、よく感じましたね。
特に、応援を終えて学校に帰る際は、学ランが汗で「塩を吹いて」いて「白く」なって目立ちますから、何も知らない人達にとってみれば、「奇妙な光景」でしょう。
でも、それも今となっては良い思い出ですが…。

(その「移動」の際にも、実は凄く細かい「ルール」がありますが、これをお話しすると大変長~くなるので、別枠でお話することにします。)


ところで、昭和60年度の、我が母校の春日部高校の夏の甲子園に向けた県大会の初戦の対戦校は、同じ公立の行田高校でした。

応援団の「力関係」はもちろんのことですが、当時の野球の「力関係」も母校の方が「上位」と見られていたので、この試合は「順当」に勝利を収めました

天気としてはそんなに良くない条件ながらも、我が母校のスタンド(三塁側だったと思います)は、最後まで熱気に溢れていました

こんなにも母校を応援して下さる人達がいるんだ…

と思うと、小生達1年生にとっては、この試合が野球応援の「デビュー戦」なわけですが、少なくとも小生は、嬉しい気持ちと気合いの入り混じった複雑な思いで、「応援指導」に臨んでいました。
そんな心境の中で、野球部が見事に勝利を収めたので、小雨に濡れながらでしたが、嬉しかったですね


ところで、小生達下級生が、戦況も眺めずグラウンドを「背」にしても「応援指導」ができるのは、スタンドの一番高い所に、「ユニコン」というメインリーダーの動きを模倣する「応援指導部員達にとってのリーダー」を立てて、その指揮に合わせて動くことになるからです。

ですので、下級生部員である小生達は、時々こっそり交替で「水分補給」をする時など以外は、常に「ユニコン」と、観客の皆様の「リアクション」で、どう盛り上げていくか…のみを考えて、五感のうちの聴覚を研ぎ澄ませてとにかく必死に動くのみとなります。ですので、否応なしに無我夢中になりますね。

それでも、応援の「力量」で戦況が良くなくなると、「応援が悪い」…すなわち、応援を「指導する」小生達の「力量不足」という理屈になって、仮に接戦で試合に負けたならば、先輩から試合後の球場の隅の方での「集合」でも、学校に帰ってからの「集合」でも、きつ~いご指導が待っています

ですので、片時も気を抜くことはできません


さて、めでたく初戦を突破した母校の2回戦目は、現在では「強豪校」で、その後甲子園にも出場している、埼玉栄高校が対戦校でした。

ですので、行田高校に勝ってから、埼玉栄高校との試合の間の数日間も、ひたすらに19話でお話ししたような厳しい練習をして、埼玉栄戦に臨むことになります。

行田高校に勝ったからと言って、応援活動が全て良かったわけではなく、それなりに先輩方(OBの先輩も含めます)から改善するべき点もご指導いただいていますから、その修正も大変でした。


そして迎えた2回戦目の、埼玉栄高校との試合当日…。

試合が行われる球場は、大宮市営球場(現・さいたま市営大宮球場)でした

大宮市営球場は、初戦の県営大宮球場と最寄駅は一緒ですが、移動方向が反対で異なります。

その大宮市営球場のすぐ近所に、実は当時の顧問のM先生のご自宅があるのですが、そのM先生のご自宅の前を通って、小生達は球場に向かうことになります。

その時、小生達応援指導部全員がアッと驚いたのは…なんと、M先生のご自宅の門壁全面に、ベンチ入り登録選手全員を激励する、先生の毛筆の自筆書きの「メッセージ」が、所狭しと貼られていたのです。

例えばこんな具合です…。

「1番、俊足好打の★★」…
「2番、堅守の☆☆」…(以下、文言は全員に対して違えど、全員分こんな感じで続きます)

M先生の「熱血感ぶり」は、実は、こんなところにも現われていたんですね
ちなみにこれは、小生が2年生の時の市営大宮球場での試合の時も一緒でした。
(小生が3年生の時は、M先生は「副顧問」でしたし、県営大宮球場での1試合のみで「夏」が終わりましたので、お目にかかれませんでしたが…。)
M先生も、まさに「応援団」でしたね。

これを見て、結果的に最後の野球応援となった3年生はもちろん、2年生幹部以下全員が、改めて気合いが注入されたことは言うまでもありません

その気合いは、敗色濃厚となった試合終盤の、我が母校の攻撃時に、現在も親しくさせていただいているKT先輩が、これまでにない様な熱い思いを込めて、「学生注目」をメイン台で演じていたところにも現われていました。
小生にとっては、3年生の5人のお方の野球応援でのお姿の中では、この時のKT先輩の「学生注目」が一番印象に残っています。それほど凄い「気合い」でしたね。
こう申し上げると大層ですが、KT先輩のそんなお姿に、「野球応援の真髄」を見た気がしました。

結果は、残念ながら健闘むなしく5-2で敗れ、この試合で昭和60年度の甲子園の出場が絶たれましたが、この時の市営大宮球場の一塁側での野球応援は、本当に印象的です。
今でも、小生の中では、良い思い出として残っていますね


夏の野球応援が終わったことで「暑い夏」に終わりが来ても、小生達現役応援指導部員にとっては、これからがまさに「暑い夏」の始まりでもあったのです


次回は、せっかく今回野球応援のお話をしたので、その野球応援に向かう際の「ルール」について、お話ししましょう

次回以降は、夏合宿に向けた練習と、5日間の、まさに「地獄」の夏合宿について、2回~3回程度に分けてお話したいと思います

それ以降は、近隣女子高校と中学校の文化祭に「他校招待演技披露」で招かれた時の様子などをお話ししようと思います

さらにその後は、現在は松山高校が加盟して「六校応援団連盟」となりましたが、「五校」から「六校」となったその曲折について、時系列が前後する部分はありますが、お話していこうと思っています
(松山高校応援團の現役諸君や、OBである読者の皆さんには、この話は必読と思います。実は、小生が1年生の時に、現在の「六校」の形になりましたが、その様子を明らかにします。)

松山高校が「応援団連盟」に加盟が叶った件をお話した後は、秋季野球応援での「ドラマティックな再会」についてや、小生達1年生が、春日部高校が所有する応援歌や拍手演技の「テク」を教えていただける「オフシーズン」に入りますので、その時の様子なども紹介したいと思います

今後の展開を、どうぞお楽しみに

(次回に続く)
Comments (14)
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