Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

鉄道博物館

2007-11-19 | 芸術礼賛
 仕事をしていると、ほんの時折ではあるが、「役得」というものに出逢うことがある。
というわけで、2007年10月にオープンしたばかりの鉄道博物館に行ってきた。秋葉原にあった交通博物館の展示物の一部を移管してはいるものの、オリジナルも数多く、既に開館から1ヶ月以上経過しているにも拘らず、毎日大盛況のようである。

 この施設のメイン展示のひとつが、施設面積の半分以上を占める「ヒストリーゾーン」だ。ここでは、日本の鉄道がスタートした明治時代初期から現代にわたる鉄道技術や鉄道システムの変遷・歴史を時期・テーマごとに紹介している。御料車を含む鉄道車両35両の実物車両の展示は圧巻である。機能的になりすぎてしまった昨今の電車とは似ても似つかないスタイリッシュな車両たちが一同に並ぶ姿は、鉄道マニアや乗り物マニアでなくとも充分に心惹かれる光景であると思う(*写真:旧交通博物館にあったD51の搬入作業。レール上を走らせて(牽引して)の納入が最も容易だったらしく、現在の展示でも搬入時のままレール上に固定されている。つまりは、全ての車両の搬入後に施設の壁を塞いで建物を完成させるという寸法だ)。

 開館当初、御料車を除く多くの車両はそれぞれ入場可能で、ドア部の天井の低さから寝台のベッドのサイズなど、当時の列車の大きさや仕様を実際に体感できる仕組みとなっており、そのことがひとつの大きなトピックであった。しかし、今回の視察ではその殆どのドアが閉じられており、乗る(入場する)ことができたのは、記憶に新しい中央線の車両のみであった。
「いやね、何でもかんでも持って行っちゃうんですよ。見学者が。」
「何でもって、カーテンとかですか?」
「カーテンなんて生易しいね。寝台の浴衣とか、ネジとか行き先の看板まで、とにかく『何でも』だよ。」

 憤りとはこのような感情を指すのだろうな、というくらいの、その場に該当者がいたら殴り倒して顔面を車両に幾度となく叩きつけてしまいたい(車両にとっては迷惑極まりないだろうが)気分になった。この世の中には「モノ」と「展示品」の区別がつかない人が居て、しかもそれが希少種というのではないらしい。

 私であれどうにも素敵な仏像に出逢ったとき、「欲しいな~」と思うものの、思うだけなら多分罪ではない。美術館で観覧している人々の多くは、それが現代アートの【ばらまき展示】のようなものであっても、それを踏まないように大人しく観覧しているし、触れる許可が下りている展示物については、得したと云わんばかりに嬉々としてそれに触れて愉しむ。それは観覧者が展示物に向ける畏敬がそこに確かにあり、それが確かな距離感として作用しているためだ。それなのにどうして、展示物が列車になった途端にその畏敬が失われてしまうのであろう。

 「列車」はそもそも、我々の生活に根ざし、日々の風景の中にあるモノだ。我々は確かにそれとともに暮らし、それに触れ、それを使用しながら日々を送っている。しかし正しい方法で(*展示方法は至極適切であり、誤解を生ませるようなものではないことを明記したい)それらが展示された時点を境として、それらは展示物という別格を得、人に使用されてはならないモノと変化するはずだ。
 【実際に触って体感して楽しんでください】と明記された現代アートにさえ触れることを厭う人々が、なぜ触るどころか破壊までしてその一部を持ち帰り、所有するという愚行に走ることができるのか。盗難であることへの意識の低さもさりながら、アートとか美術品とかいうレッテルなしにはモノと自らとの間の適正な距離感を捉えることができず、モノに敬意を払うことができないその貧相な感性を私は嘆く。

 人間はすべからく少々口が達者なだけのモノに過ぎない。
 モノに敬意を払うことができない人間を、私はモノとしてすら見做したくない。