Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

左目をください。

2007-11-28 | 徒然雑記
「今日でもう逢えないのだね。思い出、と云ってしまうのも陳腐だけど、僕がなにか置いていけるものはあるかな。」
「そうね、だったら、左目か左手。どっちでもいいわよ。」
 夢見がちに細められていた男の目が、すぐさま1.3倍くらいに大きくなった。私は可笑しくなって、吸っていた煙草の煙を吐き出しながら、冗談よとばかりに手を左右に振った。もしここで、仮に冗談にもせよ、私が望んだものがなぜ右目や右手ではなかったのかについての問いかけをしてくれるような男だったら、言を撤回してでも次にまたいつか逢いたいと思うことがあろうに、とこっそり嘆息した。

 人が人を必要とする理由は、自分の不完全さに対する補完だ。新しい世界や知識を教えてくれる人、淋しさと呼ばれる穴を埋めてくれる人、お喋りのように、決して自分ひとりではできない種々の行為のパートナー。
自分が世界の中心であると信じていられた幼稚さと同義の完璧主義(なんとまあ煌くばかりに愚かな言葉であろうか)の状態において人が人に求める欲求は、自らの狭い世界の青写真を完成させるためのものだ。
 そしていつしか大人になり、自らが理想と描く自己像や世界が蜃気楼にすぎないと気付いたとき、世界は途端に巨大化し、日々右往左往する世界自身のダイナミズムを見て驚愕し、自分の無価値と無力さを知る。人は等しく自らの不完全さや不浄さについての嫌悪とそれからの脱却を願うこころを抱えてずるずる歩みを進めながら、新たな欲求のもとに人を必要としはじめる。欠けた箇所だらけの自分という人間が希望を託すのは、同じく「欠け」を認識している第三者でしかあり得ず、互いが補完し合うことによって自身の欠けを充足させ、または相手の欠けを少なからず充たせたという安堵によって命を繋ぐのだ。

 私の日に焼けた肌に重ねられた真っ白な男の手、生々しさを排除するくらいに強烈な色のコントラストが、自覚しない私の「欠け」に気付かせる。他者と並んだときに初めて浮かび上がる「持たざるもの」に気付くたびに、絶対的には変わりようのないはずの私のからだが少しずつ削り落とされていくような、自虐的な愉悦を覚える。
 欠けたものをパテで埋めるという応急処置的対処はあまり好きではない。であれば逆に、欠けた部分がどこか判らなくなってしまうくらいにその他部分をさらに欠けさせるという試みがあったとしてもよいではないか。

「冗談じゃなくてさ、なにかないの?」男の声で我に返った。
「どうして、短絡的に充たそうとする欲求しかないのかしらね。」ぼそりと呟いた。
とはいえ、これ以上云うと、「今日で終わりにしなくても」などと情緒的なことを云いだすのではないかと思って、そこでやめた。かつて手放したはずの幼稚なロマンティシズムに再び捕り込まれた男を相手にしては、身体を重ねることの意味 – 互いが浸蝕不可であることを知り、自分と自分以外のものとの境界を確かめることで相手の存在を知覚するため – すら遊戯以下のものでしかない。

「ほんとに、なにもないのよ。要らないの。」
 笑顔とともに右の掌をかざして、男の顔の左目のあたりを覆い隠してみた。光の下に残された右目は少し細められた。その繊細な動きは、無防備に光にさらされた眩しさと羞恥によるもののように見えた。この男の目はこんな形をしていたのか、と私は初めて知った。
もしも、欠けさせるためではなく、欠けを補うための代償として積極的に左目あるいは左手をこの色白の男が放棄しみてみたとしたならば、ひとまず五体満足である今の状態よりもさぞかし美しく見えるだろう、と思った。