Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

破壊と刃物とねじれ。

2007-11-09 | 徒然雑記

 今から200年前、文化文政期の江戸、今川橋から日本橋までの大通りを俯瞰描写した『熈代勝覧』という12mの大作絵巻がある。ここには、越後屋(現・三越)など88軒の問屋や店、魚河岸の賑わいとともに、当時の風俗を垣間見させてくれる様々な職種の人々(その数1,500人以上!)が描かれている。
 そして、この問屋の並びの中、越後屋の向かいにある刃物屋「木屋」が今もなお健在だ。百貨店が隆盛したかと思えばファッションビルやホームセンターにその座を奪われ、果てはネットショッピングで何でも買うことができる時代になっても、木屋のような「専門店」が生き生きと事業を続けていられる環境は、そうそうないような気がする。

 自分が日々の命を繋ぐための餌を作るための道具に出資したことはこれまで殆どない。どんな道具であれ調理はできるものだし、調理のために必要な行為に対応する機能を有した道具が一通り揃っていれば、それでよかった。物体のフォルムに異様な執着をみせる私にとってさえ、単なる餌を生成するための道具にすぎないものたちに、必要以上の機能性や見てくれの美しさを求めていなかったからであろう。

 近頃は、私ではない別の人の意思のもとに、餌ではない食事を摂ることができるようになった。餌には感情的に見向きもしないくせに、食事に対しては敬意を払いたくなる理由はよく判らない。けれど、餌ではないものを作る人に、私に歯牙にも掛けられないような陳腐な道具を使わせていてはいかんと思うようになったのである。そうして、かねてから知っていたが知っていただけの「木屋」を初めて訪れた。

 「木屋」では年に一度、有体に云うところのバーゲンがある。だが、そのバーゲンの名称が「刃物まつり」というのだから心が躍る。人間がケモノと一線を画すところなのかもしれないが、刃物を他の物体 ――例えば、カレンダーとかボールペンとか、ハンカチとかまな板とかだ―― と同じ感覚で眺めることは難しい。恐怖に近いおののきを感じたり、美しさに魅入ったりという何かしらの特殊な感慨を覚えることが多いに相違ない。推察するに、それは刃物が「破壊という特別な機能を負わされた物体」あるいは「破壊という行為をすることを公的に赦されている物体」であることへの憧憬だったり恐怖だったりに通じるものではないか。

 そんな「刃物まつり」の狭い店内には、非日常的な光景が広がっていた。剥き出しの刃物がずらりと無警戒にその身を晒し、客は思い思いにそれらを手に取り、重さや握りを確かめるのだ(その客の中に私も居る)。嬉々として賞品を物色する人々の日常的な笑顔と、扱われる商品が全て刃物であることの座りの悪さ。

無自覚なねじれを愉しんだことの対価のようにして、私も一本の包丁を購入した。
刃物をビジネスバッグに詰め込んで帰宅する些細なねじれに期待しながら。