Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

平和の砦。

2008-02-12 | 物質偏愛
 ソウルの昌慶宮崇礼門が放火された。
 自分の心の中にもきちんとこうして「憤り」という感情があるのであるなあ、とまるで他人事のように安堵しながら、テレビの向こうで倒壊する楼門を眺めていた。

 インターネットの中にも、さまざまな感情が溢れかえっていた。
「金閣寺炎上のようだ」という衝撃。
「放火する人の気がしれない」という憤り。
「韓国の数少ない文化財が失われるのは可哀相」「いい建物だったので、残念で惜しい」という哀悼。
「日本人のせいにされるんじゃないの?」というナショナリズム不安。
「修復を繰り返した建物ではあるし、今回も再び再建されるのであろうが、再建後の建物はもはや同じそれではない」という歴史保存概念。

 日本に当てはめたらどういうことか。
東京のシンボルが破壊されるという意味づけにおいては、東京タワーが崩れ落ちたりすること。
首都という近代都市における数少ない歴史的建造物消失という意味づけにおいては、雷門が燃えてなくなること。
国宝第一号がその価値を失ったという意味づけにおいては、広隆寺の弥勒菩薩が木端微塵になったりすること。
今回の崇礼門焼失は、この3つが同時にひとつところでやってきた、ということだ。それがどのくらいの衝撃を人の心に呼び起こすかは想像に難くない。

国を問わず共通して持っている「覆水盆に返らず」の感覚。その水が「時間」や「歴史」といったある種の累積的な概念を含んでいる場合、ことは非常に重大だ。事実、韓国の人々のみならず、日本人の多くがあの映像を見て哀しく思い、あるいは憤り、誰の努力をもってしても取り戻せないものの焼失を、悼んでいる。美しい儀式性を持った火という要因によってその破壊が完成したことが、ことの衝撃を一層煽りたて、傷をこの上なく深くする。

『戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない』
というUNESCOの趣旨は、そのまま世界遺産条約に引き継がれている。崇礼門のように世界遺産に登録されていない歴史遺産であっても、その文化の重要さ、国の歴史のランドマークは国境を越えた砦となり得ることを図らずも実証した事件となったことは否定できない。

 皮肉極まりないことだが、世界遺産の目指す先が、ほんの少しだけ明るく照らされた気がした。



最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
失って、 (葵木和寿)
2008-02-12 22:25:11
初めて気づく事がある。初めて見える道がある。
返信する
維持 (吉井太郎)
2008-02-12 23:55:49
維持していくことの難しさを感じるとともに
維持していることに対して感謝しようと思いました。
返信する
アタリマエにあり続けさせること (マユ)
2008-02-14 15:42:27
>葵木さま

失わずに済むために法的措置や対策が取られているにも拘わらず、それを意図的に失わせる人の心の中には、きっとそれが現実に失われたあとに起こった議論や騒動を見たあとでも、ほんとうの意味で光が差すことはないのではないかと思っています。


>吉井太郎さま

1000の努力によって保たれる「アタリマエの維持」。
1にも満たないきっかけでそれは倒壊する。
維持してきた数え切れない人々の努力とは無関係なところで。

こんど、どこかの寺や博物館で古くて気に入ったものに出逢ったときに、「またね」と声を掛けてください。
そうしてひとりひとりの心の中で、維持のラインを未来のどこかにまで伸ばしていってくれればよいと願います。
返信する