Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

男の役職。

2008-01-22 | 徒然雑記
 
 「俺、君に一目惚れしちゃった。」
 男は酒に酔ったとろんとした目をして、わたしの腰に手を回しながら耳元で呟いた。わたしは他所を向いたままふふふと笑って、「よかったわねぇ。」と答えた。
 気がなさそうに笑ったのは、男の呼気が切ったばかりの私の髪を揺らして耳がくすぐったかったせいだ、ということにしておいた。だいいち、ほんとうに一目惚れをしてしまった人が、逢って一時間もしないうちにその事実を当人にぶちまけるはずもない。そんなことを平気でのたまえる分だけわたしはその男にとってどうでもいい存在なわけで、それはそれで馬鹿馬鹿しくも愉しいやりとりかもしれない、と思う。

 携帯の着信が鳴る。数ヶ月逢っていない人の名前が表示されたので、電話に出る。
1分も経たずに電話を切ると、「じゃぁ、わたし帰るね。呼び出されたから。」と誰にともなく(というかその場に居る顔見知り全員に向かって)云って、席を立った。
「彼氏?」先ほどから私の隣に居座っていた一目惚れ男が尋ねる。
「違うよ。男ではあるけれど。」と一瞬あけて答えた。友人と呼ぶほど親密なカテゴリではないし、彼氏はちゃんと別に居るし、どんな役職がその男に相応しいのか咄嗟に判らなかった。そうして考えた挙句に、性別が男である、という判りやすい事実のひとつだけを掻い摘んで紹介することで留めた。一目惚れ男はそこで少しばかりむっとしたような表情を浮かべた。

 そこでそんな顔をするのはお門違いにも程があるけれど、一目惚れ、という言葉を3回も5回も繰り返していただけあって、自身に演劇的な暗示を掛けていたのだろう。いいところで劇の幕が下りて、「はい、続きが見たかったら翌日お越しくださいね」と云われたようなものだ。先刻までの一目惚れ”風”のとろんとした顔は途端にしゃっきりして「今日はありがとうね。」なんて云っている。わたしは笑顔で頭を撫でながら、このへたくそめ、と思う。自分を騙すのも、他人を騙すのも。

 彼氏、とか一目惚れ、とか、そういう判り易いキーワードはある意味人の心を、いや人の心の中での居所を安定させる。それよりも、いまどこかでわたしを待っている男のほうが、「男」としか説明できなかったボンヤリした男のほうが、より一層不安定でリスキーな存在だ。

 もう出逢ってから数年経つけれど、今更云ってみようか。
「実はわたし、初めて逢ったときに一目惚れしてたのよ。」
本気にしたとしても、嘘だと判っていても、きっと椅子からずり落ちるに違いない。
その様子を想像してくくっと笑いがこみ上げてくるのを堪えた。